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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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173/215

20-3 伊勢 宇治 藤波本邸19 西対3-3

 大きくことが動いたのは、二日後の深夜だった。

 もちろんそれまで、何もしなかったわけではなく、丸一日は時任侍従と並んで長い奉納の儀に参列した。

 それがなおのこと、北畠を強く刺激したのだと思う。

 祭主様には、祭祀を後回しにする……という考えはないようだった。

 むしろこんな時だからと、決まりどおりの手順でとり行われた。

それが信念なのだろうが……見ていて危うい。

 伊勢神宮といえば、二十年に一度の遷宮が有名だが、もう長らくとり行われていない。資金難からだと言われているが、それは正確ではない。

 かつて遷宮にかかる費用は、伊勢神宮だけが負うものではなく、日の本の各地からあまねく徴収されていた。

 だが、朝廷も幕府も権威を失いつつある今、徴収する仕組みそのものが機能していない。

 神宮だけではなく、御所ですら同じ理由で資金難だ。

 もちろん誰かが悪意をもってそんな時代にしたわけではない。世の中が変わってしまったのだ。

 北畠家とて同じだ。国司とは名ばかりで、伊勢一国ですら抑えきれていない。

 だからこそ互いに支え合うべきだった。それだけの長い付き合いと信義があった。

 それなのに、北畠家は、神宮そのものを己の側へ取り込もうとした。

 祭主様は、それが許せなかったのだと思う。

 渡会家の嫡男と、北畠の姫との縁談を聞いても、気色ばむ他の者たちと違って、祭主様は口を閉ざしていた。

 だが何も感じていないわけではないのは、表情を見ればわかる。

 その後、奉納の祭祀を実行したのは、強い対抗の意志があったからのように見えた。

 翌日、北畠は川岸に兵の数を増やした。

 知らせを受けて、祭主様はしばらく岩のように固まった。

 内宮の不安そうな空気は、これ以上ことを荒立てず、北畠家と和睦するよう求めている。

 今川家がこの地にいることへの反感も、沸き起こっていたように思う。

 だがその夜、ことが動いた。

「御屋形様!」

 庭先からバタバタと荒い足音が聞こえ、孫九郎は跳ね起きた。

 反射的に、枕元の脇差を掴んでいた。

 宿直の南が、上げたままの蔀(しとみ)の内側で御簾を掲げた。

 駆けてきたのは土井だ。本来は休んでいるはずの刻限だが、状況が気になって川まで様子を見に行っていたらしい。

 その背後には、闇に溶け込むような渋沢と、うきうきと足取りも軽い井伊殿。ふたりとも、いよいよだと感じていたのか、服装は昼間のままだった。

 孫九郎は片膝を立て、呼吸を整えた。

 今の今まで眠っていたのに、意識は明瞭だ。

「北畠軍が再び川を渡ったか?」

「いえ!」

 土井の声も弾んでいる。

「兵が退いております!」

 孫九郎は庭先の土井を凝視した。

 北畠兵が退いている? 軍を厚くしたのは昼過ぎだ。まだ半日しかたっていない。

 すっと、背後で音がした。

 隣室側から襖をあけて現れたのは、弥太郎だった。

 見慣れたさりげない仕草で一礼する。

「長野軍が、雲出川まで兵を進めました」

 孫九郎の脳裏に、まだ若い朴訥そうな男の顔が過った。

 血気盛んなタイプではない。だが、抜け目なく状況を見ている男だった。

 孫九郎は、握りしめていた脇差を置いた。

「数は」

「五百に満たないかと」

 弥太郎の報告は確定ではない。だが、何が起こったのかはわかった。

 北畠軍は、安濃津を狙って長野と対峙していた。

 そこに今川軍が伊勢に来て、双方ともに動きを止めた。

 警戒した北畠は安濃津へ向けた兵を削り、最初は千、次いで五百の兵を宮川に配した。

 それはつまり、長野にとっては好機だ。

 孫九郎は浮かせていた腰を下ろした。

「……五百か」

「おおよそです」

 弥太郎の訂正に、ちらりと目を向ける。

「おおよそでも、北畠は兵を退いた」

 雲出川か。そのあたりは北畠の勢力範囲内だったはずだ。

 北畠は五百に満たない兵が怖かったのではない。長野が動いたことそのものを警戒したのだ。

 考え込んでいるうちに、藤次郎が着替えを用意して現れた。

 孫九郎は軽く手を振った。

 今はいい。今夜はこれ以上の動きはない。

 北畠は、長野を追い返すために兵を退いたのだ。


 翌朝。気持ちよく目が覚めた。

 朝の空気は少しひんやりとしていて、爽快な風が吹いていた。

 井戸端で手を洗っていると、井伊殿が近づいてきた。

 この男、もういい年のはずなのに、いつ見ても元気だ。おそらく徹夜だっただろうに。

 そのにこやかな笑顔を見ていると、こちらまで気持ちが軽くなる。

「宮川に残っているのは五百ほどです」

 孫九郎は次郎三郎が差し出した手ぬぐいを受け取りながら、頷く。

 土井から明け方に報告を受けている。

 北畠軍千が宮川から退いた。

 撤退した北畠軍が雲出川に到着するのは、早くとも今日の昼だそうだ。

 つまり、今必死の行軍中だ。

 ちなみに北畠殿は、五百の兵とともに宮川の本陣に残っている。

「長野はうまくやりました」

 井伊殿の言葉が、少し意外だった。

 長野殿が引き返してきた千の北畠兵と対峙するのはこれからだ。

 戦は一概に数ではないが、さすがに倍もいれば結果はわかる。

「うまくやった?」

「はい」

 長野家は、安濃津をめぐって北畠と対立していた。数では北畠軍に劣り、決して楽ではなかったはずだ。

 そこへ孫九郎が二千の兵を連れて伊勢に上陸した。

 警戒したのは両家ともだが、長野家は孫九郎との関係を穏便に……いや友好的に結び、対して北畠は武でもって圧しようとした。

「……そうだな」

 北畠がこちらに兵を向けたぶん、安濃津への圧力は弱まった。長野家はその好機を逃さず、押し返したのだ。

 圧倒的な兵差は、往復丸一日はかかる距離が埋めた。

 うまくやったというのは間違っていない。

「それだけではございませぬ」

 井伊殿はしたり、と手のひらを返した。

「北畠の一門衆が、長野を通したようです」

「離反したということか?」

「いえ、長野が来る前に更に五百の兵が退き、己らだけでは戦えぬと怖気づいたのでは」

 雲出川の北側に、木造家の領地がある。長野が川まで出てきたということは、その木造領を抜けてきたということだ。

 怖気づいたというよりも、利害を考えての行動だろう。木造にしてみれば、長野を通したほうが領地を荒らされずに済む。

 なるほど、確かにうまくやった。

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― 新着の感想 ―
自らの兵に損害を出すことなく、北畠と長野が潰しあってくれる。 井伊殿からしたらウキウキでしょうね。
色んな立場、思惑、行動が入り乱れている状態ですが、孫九郎くんはどう考え、今後どう動くのか楽しみです^_^
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