20-3 伊勢 宇治 藤波本邸19 西対3-3
大きくことが動いたのは、二日後の深夜だった。
もちろんそれまで、何もしなかったわけではなく、丸一日は時任侍従と並んで長い奉納の儀に参列した。
それがなおのこと、北畠を強く刺激したのだと思う。
祭主様には、祭祀を後回しにする……という考えはないようだった。
むしろこんな時だからと、決まりどおりの手順でとり行われた。
それが信念なのだろうが……見ていて危うい。
伊勢神宮といえば、二十年に一度の遷宮が有名だが、もう長らくとり行われていない。資金難からだと言われているが、それは正確ではない。
かつて遷宮にかかる費用は、伊勢神宮だけが負うものではなく、日の本の各地からあまねく徴収されていた。
だが、朝廷も幕府も権威を失いつつある今、徴収する仕組みそのものが機能していない。
神宮だけではなく、御所ですら同じ理由で資金難だ。
もちろん誰かが悪意をもってそんな時代にしたわけではない。世の中が変わってしまったのだ。
北畠家とて同じだ。国司とは名ばかりで、伊勢一国ですら抑えきれていない。
だからこそ互いに支え合うべきだった。それだけの長い付き合いと信義があった。
それなのに、北畠家は、神宮そのものを己の側へ取り込もうとした。
祭主様は、それが許せなかったのだと思う。
渡会家の嫡男と、北畠の姫との縁談を聞いても、気色ばむ他の者たちと違って、祭主様は口を閉ざしていた。
だが何も感じていないわけではないのは、表情を見ればわかる。
その後、奉納の祭祀を実行したのは、強い対抗の意志があったからのように見えた。
翌日、北畠は川岸に兵の数を増やした。
知らせを受けて、祭主様はしばらく岩のように固まった。
内宮の不安そうな空気は、これ以上ことを荒立てず、北畠家と和睦するよう求めている。
今川家がこの地にいることへの反感も、沸き起こっていたように思う。
だがその夜、ことが動いた。
「御屋形様!」
庭先からバタバタと荒い足音が聞こえ、孫九郎は跳ね起きた。
反射的に、枕元の脇差を掴んでいた。
宿直の南が、上げたままの蔀の内側で御簾を掲げた。
駆けてきたのは土井だ。本来は休んでいるはずの刻限だが、状況が気になって川まで様子を見に行っていたらしい。
その背後には、闇に溶け込むような渋沢と、うきうきと足取りも軽い井伊殿。ふたりとも、いよいよだと感じていたのか、服装は昼間のままだった。
孫九郎は片膝を立て、呼吸を整えた。
今の今まで眠っていたのに、意識は明瞭だ。
「北畠軍が再び川を渡ったか?」
「いえ!」
土井の声も弾んでいる。
「兵が退いております!」
孫九郎は庭先の土井を凝視した。
北畠兵が退いている? 軍を厚くしたのは昼過ぎだ。まだ半日しかたっていない。
すっと、背後で音がした。
隣室側から襖をあけて現れたのは、弥太郎だった。
見慣れたさりげない仕草で一礼する。
「長野軍が、雲出川まで兵を進めました」
孫九郎の脳裏に、まだ若い朴訥そうな男の顔が過った。
血気盛んなタイプではない。だが、抜け目なく状況を見ている男だった。
孫九郎は、握りしめていた脇差を置いた。
「数は」
「五百に満たないかと」
弥太郎の報告は確定ではない。だが、何が起こったのかはわかった。
北畠軍は、安濃津を狙って長野と対峙していた。
そこに今川軍が伊勢に来て、双方ともに動きを止めた。
警戒した北畠は安濃津へ向けた兵を削り、最初は千、次いで五百の兵を宮川に配した。
それはつまり、長野にとっては好機だ。
孫九郎は浮かせていた腰を下ろした。
「……五百か」
「おおよそです」
弥太郎の訂正に、ちらりと目を向ける。
「おおよそでも、北畠は兵を退いた」
雲出川か。そのあたりは北畠の勢力範囲内だったはずだ。
北畠は五百に満たない兵が怖かったのではない。長野が動いたことそのものを警戒したのだ。
考え込んでいるうちに、藤次郎が着替えを用意して現れた。
孫九郎は軽く手を振った。
今はいい。今夜はこれ以上の動きはない。
北畠は、長野を追い返すために兵を退いたのだ。
翌朝。気持ちよく目が覚めた。
朝の空気は少しひんやりとしていて、爽快な風が吹いていた。
井戸端で手を洗っていると、井伊殿が近づいてきた。
この男、もういい年のはずなのに、いつ見ても元気だ。おそらく徹夜だっただろうに。
そのにこやかな笑顔を見ていると、こちらまで気持ちが軽くなる。
「宮川に残っているのは五百ほどです」
孫九郎は次郎三郎が差し出した手ぬぐいを受け取りながら、頷く。
土井から明け方に報告を受けている。
北畠軍千が宮川から退いた。
撤退した北畠軍が雲出川に到着するのは、早くとも今日の昼だそうだ。
つまり、今必死の行軍中だ。
ちなみに北畠殿は、五百の兵とともに宮川の本陣に残っている。
「長野はうまくやりました」
井伊殿の言葉が、少し意外だった。
長野殿が引き返してきた千の北畠兵と対峙するのはこれからだ。
戦は一概に数ではないが、さすがに倍もいれば結果はわかる。
「うまくやった?」
「はい」
長野家は、安濃津をめぐって北畠と対立していた。数では北畠軍に劣り、決して楽ではなかったはずだ。
そこへ孫九郎が二千の兵を連れて伊勢に上陸した。
警戒したのは両家ともだが、長野家は孫九郎との関係を穏便に……いや友好的に結び、対して北畠は武でもって圧しようとした。
「……そうだな」
北畠がこちらに兵を向けたぶん、安濃津への圧力は弱まった。長野家はその好機を逃さず、押し返したのだ。
圧倒的な兵差は、往復丸一日はかかる距離が埋めた。
うまくやったというのは間違っていない。
「それだけではございませぬ」
井伊殿はしたり、と手のひらを返した。
「北畠の一門衆が、長野を通したようです」
「離反したということか?」
「いえ、長野が来る前に更に五百の兵が退き、己らだけでは戦えぬと怖気づいたのでは」
雲出川の北側に、木造家の領地がある。長野が川まで出てきたということは、その木造領を抜けてきたということだ。
怖気づいたというよりも、利害を考えての行動だろう。木造にしてみれば、長野を通したほうが領地を荒らされずに済む。
なるほど、確かにうまくやった。




