20-1 伊勢 宇治 藤波本邸17 西対3-1
漏れ聞こえてくるのは声ではなく、重々しい衣擦れの音だった。
いやそれは音ではなく、張り詰めた空気の震えだったのかもしれない。
床につく手、下げる頭の角度まで揃ったその一幕は、遠目にわかるほどの緊張に包まれていた。
孫九郎は、障子を閉じるように指示をした。
使者と聞いたが、想像していたよりも正式なもののようだ。使者というよりも、外宮の有力者の誰かが話し合いに来たのだろう。
障子が閉められても、神職たちの一糸乱れぬ所作がもたらす緊張感が、聞こえない音として伝わってくるようだった。
「外宮三の禰宜、上部様です」
弥太郎の報告は少し遅かった。普段の今川忍び衆なら、この程度の情報はもっと早くに集めていただろう。
理由は、鶸らに止められていたからだそうだ。率直に“邪魔をされた”と言わないのは、これまでの孫九郎と東雲の関係に配慮してか。
鶸が情報を遮断した理由はわかる。これはあくまでも、神宮における政治の問題だからだ。
だが、今川家が完全に無関係とも言い切れなかった。
小さく息を吐く。
「北畠家と渡会家との縁組みは、内密にされていたのだな」
「はい」
弥太郎は、いくらか申し訳なさそうな表情をして頷いた。
「おそらく、知っている者は多くはありませぬ」
孫九郎は扇子を弄び、その先端が不規則に揺れるのをじっと見た。
「来ているのは三の禰宜か。では二の禰宜は」
「ご高齢にて、臥せっておられるそうです」
「では実質、渡会禰宜の次席がきているのか」
弥太郎は小さく頭を下げる。
上部禰宜まで知っていたのなら、渡会家だけの謀とは言い切れなくなる。
もし北畠家と、外宮の最大勢力である渡会家が婚姻で結ばれたなら、内宮はどうなる。
平時なら、神宮と北畠の関係が深まると喜ばれたかもしれない。だが今のこの状況では、ことさらに内宮が排斥されようとしているとしか見えない。
いや実際そういう状況を狙っていたのだろう。北畠か、渡会か、あるいはそのほかの何者かが。
孫九郎の脳裏に、小夜殿の震える白い手が浮かぶ。
彼女はこのことを知って、どんな思いでいただろう。
いくら恨みがあっても、家門の存続にかかわる秘密を告発するには勇気が要っただろう。
孫九郎はちらりと、閉めた障子の先を盗み見た。
日差しが透けて、松の木の影がくっきりと刻まれている。
渡会家に肩入れする気など毛頭ないが、外宮のすべてがこの謀に関わっているとは思えない。
「……試してみるか」
上部といったか。後ろ姿を見ただけだが、揃った所作の一団を率いるそれなりの人物に見えた。
もちろん所作だけで人となりがわかるわけがない。
だったら、直接会ってみよう。
本来であれば、先触れを出して申し入れるべきだが、身構えられる前に感触をつかみたい。
孫九郎はあえて、主殿の様子を探らせなかった。
後から東雲に聞けばわかることだ。
神経質になっている鶸を、逆なですることはない。
ただ、帰り道からよく見える廊下で、通りかかるのを待つことにした。
西対の端の、庭に面した廊下。主殿からは木が目隠しになっている場所だ。
あえて身なりは整えない。装束は直垂ではなく、薄手の素襖。烏帽子もつけない。
廊下に座って、裸足を揺らした。
藤次郎からは咎めたてるような目で見られたが、ニッと意味ありげな笑みを返す。
格式ばった相手だからこそ、あえて構えずにいた。
暑いので、たらいに水を張って足首をつけたかったが、さすがに行儀が悪すぎるのでやめた。
ただ冷えた瓜を切らせた。先生が差し入れてくれた、甘い真桑瓜だ。
客人が帰る道筋はわかりやすい。主殿を出て庭へ下り、池を大きく回って南東の門へ向かう。
その庭道は、西対の近くを通っていた。
待つことしばし。
孫九郎は日常使いの扇子でパタパタと顔を扇いだ。
西対の軒が落とす影は濃い。そこから一歩先へ出れば、うだるような日差しの中だった。池の水面が眩しく光り、その照り返しがなおいっそう強い。
切ったばかりの瓜はよく冷えていた。ひと切れ口に運ぶと、淡い甘さとともに冷たさが喉を落ちていく。
もうひと切れ取ろうとして、やめた。
やがて、松の木の向こう側に、真夏には重厚すぎる濃い色味の装束が見え隠れした。
池を回る庭道を歩いてくるのは、外宮の神職たちだ。
先頭にいるのが上部禰宜だろう。遠目にもわかるほど、きっちりと装束を整えている。
狩衣の広い裾が歩みに合わせて揺れ、その下にはたっぷりとした指貫。頭には烏帽子をかぶり、暑さにも負けずどこにも崩したところがない。
見ているだけで暑そうだ。
孫九郎は顔をしかめ、薄手の素襖の袖から出した腕を眺めた。
一瞬だけ、軽装すぎることが気になった。
いや、これでいいのだ……と、気を取り直して足先を揺らす。
神職たちはすぐにこちらに気づいた。
それはそうだ。孫九郎だけではなく、周囲には護衛や側付きたちが控えていたのだから。
上部禰宜が足を止め、しばらく視線が交わった。
距離は離れている。着物の色と容姿がそれとなくわかる程度だ。
上部禰宜はひと目でそれとわかる上級神職だが、孫九郎は下手をすると休憩中の小姓にみえたかもしれない。
孫九郎は軽く目礼した。
数呼吸の後、相手側も丁寧な礼を返してきた。




