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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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19-9 伊勢 宇治 藤波本邸16 お勝手門2

 井伊殿が顔を出し、兵糧の様子を見に来た。米の状態も問題なく、次は配分の話になる。

 渋沢と井伊殿が実務の話をしている間、孫九郎は馬借たちの様子をじっと見ていた。

 仕事は終わり、引き上げてもいいはずなのに、チラチラとこちらを伺っている。

 十分な駄賃は払っているそうだから、問題はそこではないだろう。

「あの者たちも腹を空かせているのではないか」

 孫九郎の言葉に、井伊殿と渋沢が顔をあげてこちらを見た。

「食うものは足りているのか」

 今すぐ飢えるような状況ではないと思っていた。だがそれは、多少米が高くなっても買える者たちの話だ。

 渋沢は、そこまでは考えていなかったようだった。

「丁度米を兵らに分配するところでした。飯を食わせるくらいなら問題ありますまい」

 馬借たちは多いとはいえ二十人程度だ。一食分ならさほどの負担にはならない。

 井伊殿がそう言うと、物欲しげな顔をしていた男たちの表情が晴れた。

 やはり、目の前に積まれた米俵を見て、空腹を我慢していたのだろう。

 孫九郎はかつての飢えを思い出して、腹をさすった。あれは今でも時折夢に出てくるほど、つらい記憶だ。

「米座は米をどこに運んだ? 隠しているのか?」

 孫九郎のつぶやきを聞いて、渋沢が首を振った。

「町中はその話でもちきりです。不満が溜まっています」

 この時代の者たちは荒っぽいので、ひとたび辛抱が切れると暴動が起きる。そうなる前に、流通が回復してくれるといいのだが。

「安濃津商人は大歓迎されそうだな」

 順調に米が運ばれてくれば、飢えかけていた者たちは泣いて喜ぶだろう。

 そして、大湊の米座は権威を失い、商売どころではなくなる。いずれ町から追い出されるかもしれない。

 商人の世界も、生き残るのは大変な時代だ。

「申し上げます」

 珍しく、弥太郎のほうから声を掛けてきた。

 非戦闘員の薬師らしい振る舞いの弥太郎が、控えめな表情で膝を折っている。

「別室におられる御方が、御屋形様に申し上げたいことがあると」

 随分と回りくどいいい方だった。

 誰のことだと首を傾げる。

 祭主様や藤波家の兄弟ではないだろう。彼らなら、弥太郎経由で話は来ない。

 渡会禰宜か、あるいは承菊の偽物のどちらかか。

 もったいぶるなと言おうとして、答えにたどり着いた。

「……小夜殿か」

 まだ何か隠していたことがあるのか。そしてそれを吐き出すのが今だと、何を基準にそう思ったのか。

「重要な話だとのことです」

 孫九郎は立ったまま、床に膝をついた弥太郎を見下ろした。わかりやすく、何か言いたげな顔をしていた。

 そういえば、外宮の状況について報告をうけていなかった。

「……わかった」

 ひと目を避けるべきか。だとすれば、直接彼女の部屋に向かった方がいいだろう。

 兵糧の分配については、井伊殿に任せよう。

 そんな事を考えながら、振り返る。

 口を開こうとして、渋沢がいないことに気づいた。……どこに行った。

「これから米を炊くのだろう。人足たちにも振舞ってやれ」

「はい」

 井伊殿が苦笑している。よく見ると、古参の側付きたちも似たような表情だ。

 孫九郎はもう一度、影も形もなくなった黒づくめの男を探した。

 ……逃げたな。

 女の名を聞いただけで、警報センサーが発動したのだろう。

 仕方がない奴だ。


 小夜殿は奥まった部屋にいた。

 そこは客人を泊めるための部屋らしく、扱いそのものは悪くない。だが廊下には藤波家の者が控えているし、締め切られた室内は薄暗い。

 軟禁、とまでは言わないのだろう。だからといって、自由に出歩けるわけでもない。

 その青ざめた表情を見て、孫九郎は顔を顰めた。

 体調がよさそうには見えない。ちゃんと食事はとれているのだろうか。

 小夜殿は部屋の中央に座ったまま、孫九郎を見て、瞬きもせずじっとしていた。

「小夜殿?」

 そう問いかけると、彼女ははっとしたように身じろいだ。

「……申し訳ございません。わざわざご足労いただけるとは思うておりませんでした」

 声に張りがない。尖った調子はなりをひそめ、薄暗い室内に溶け込むような、低く柔らかな声だった。

 部屋にはまず谷が入った。ぐるりと様子をうかがって、危険がないかを確かめる。わかりやすく露骨な警戒だったが、それについて小夜殿からの反発はなかった。

 改めて下座のほうに移動して、両手を前に置く。粛々としたその態度がわざとらしいと、谷は警戒しているのだろうが、孫九郎が受け取ったのは別のものだ。

「具合が悪いのか」

 そう声を掛けても、小夜殿は顔をあげなかった。

 孫九郎はそれ以上は尋ねず、黙って部屋に入った。

「話があると聞いたが」

「はい」

 小夜殿は両手を床についたまま。

 部屋が暗いこともあり、彼女の表情はよく見えない。

「申せ」

 何故今言うのか、とは問わなかった。

 狙ったタイミングかもしれないし、体調の悪さから考えに変化があったのかもしれない。

 聞きたいのは理由ではない。

 小夜殿は顔をあげなかった。この期に及んで躊躇っている。

 それほど重要な事なのか。

 孫九郎は急かさなかった。

 ただ、小夜殿の呼吸が早くなり、前についた手が細かく震えているのをじっと見ていた。

「……一の禰宜様のご嫡男についてでございます」

 一の禰宜とは、今藤波邸で詮議を受けている渡会禰宜のことだ。

 その嫡男?

 小夜殿はまたしばらく黙った。今度は、言葉を探しているような気配がした。

 そして、覚悟を決めて一気に喋った。

「ご嫡男と、北畠参議様の妹君との婚儀が、この秋に執り行われることが決まっております」

 推測でも伝聞でもない。

 断定するその言葉は、そこだけ強く、はっきりしたものだった。

 孫九郎はぎゅっと眉をよせた。

「日取りまで決まっているのか」

 祭主様はこのことをご存じなのだろうか。……いや、知っていたなら、もっと別の話し方をしていただろう。

 まだ内々のことだった……というのは聞こえはいいが、要は祭主様に話を通さず、北畠家と結ぼうとしたという意味だ。

 非常にきな臭い。

「申し上げます。外宮より使者が参ったようにございます」

 廊下から土井が声を掛けてきた。この男にしては抑えたほうだが、ひそめたというには大きな声だ。

 小夜殿が息を飲む。その顔はまだ青白いが、手の震えは止まっていた。

 孫九郎はそれを確かめてから、口を開いた。

「使者に話すことはあるか」

 問うてから、「いや」と言い換えた。

「何か、他に言いたいことは」

 小夜殿は更に数呼吸分黙ってから、静かに首を横に振った。

 孫九郎は頷き、立ち上がった。

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― 新着の感想 ―
女性の名前を聞いた途端、消える渋沢氏www これは、大湊で何かあったのかも?
余計な話をして今川家を刺激したくない さりとて情報を伏せたのが後でバレて不興を買うのもマズい 怨敵を見つけ出す為に今川を利用しようとしたときでさえ、軍事衝突が起こって戦火が広がる事は望んでいなかったよ…
きな臭いのは確かですが、外宮側はほぼ北畠殿の手中と睨んでも良いかも 更に祭主様、藤波家の皆の耳に入らないということは内宮にもだいぶ手が入っていると思っていいのでは? それにしても北畠殿の藤浪邸での様子…
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