19-8 伊勢 宇治 藤波本邸15 お勝手門
よく眠れなかった。暑さにではなく、夜の静けさにも消えない重い雰囲気が睡魔の邪魔をした。
ここは城ではない。武士としては、身を守るすべがないような、そんな心もとない気持ちにさせられる。
熟睡できなかったので、朝食を終えても頭の芯がボーっとしている。
あくびを噛み殺しながら厠へ向かい、その帰りに井戸で手を洗った。
水道のない時代にもいいところがあって、深い井戸からくみ上げた水は驚くほど冷たい。釣瓶の水はまるで氷のようだった。
冷えた水で何度も手を洗い、いくらかシャキッとしてきた。
今日も重要な一日だと気を引き締めて、差し出された手ぬぐいを受け取る。
その時。
護衛役として控えていた谷がグリンと首を西側に向けた。屋敷の壁がある方角だ。
最初は音というよりも、その動きに驚いた。
次いで、谷が感じ取った騒がしさに気づく。
男たちの威勢のいい掛け声だけではない。重いものを落とす音、引きずる音。
「お勝手門のほうですね」
そう言ったのは、次郎三郎だ。
この時間にお勝手が動いているのはおかしなことではない。荷の搬入があったのだろうと最初は思った。だが、その声がやけに大きい。馬の嘶きがこの場所まで聞こえる。
「……見てまいります」
「いや」
孫九郎は次郎三郎を引き留めた。いや行くのを止めたのではない、共に向かおうと思ったのだ。
当然のように谷は嫌な顔をした。それを宥め、護衛をもっと呼ぶことに同意した。
谷の指の一振りで、庭先に立っていた歩哨たちが動いた。
護衛をぞろぞろと引きつれて、曲がった庭園の道を歩き、厨や蔵がある方角に向かう。
近づくにつれ、騒ぎがもっと大きく聞こえてきた。やがて大きな松の木の向こうに、右往左往する下働きたちの姿が見える。それが藤波邸のお仕着せではなく、外から来た者たちのものだと気付いて、谷に行く手を遮られた。
「待て、あれは米俵だ」
孫九郎が目ざとく指摘する。
谷も、他の者たちもそちらをじっと観察する。
しばらくして、向こう側もこちらに気づいた。
ざわり、と空気が揺れた。男たちを割って現れたのが渋沢だということは、すぐに分かった。
黒づくめの素襖姿で、鎧兜を身にまとっているわけではない。
それなのに恐ろしい造形の頬あては相変わらずしっかり身に着けている。
「御屋形様」
一人歩み出た渋沢が、孫九郎までまだ少し距離がある位置で片膝をついた。
頬あてがあって顔面を隠していても、相変わらずの男前オーラは隠せない。こちらを見ている男たちは、その後姿からさえ目を逸らせないようだ。
「ずいぶんと早いな」
孫九郎はそう言って、渋沢隊の他の者たちもこちらに進み出て礼をとるのを見た。
その背後には、米俵が積み上げられている。今川軍の兵糧で間違いないだろう。
午後になってからの到着になるだろうと予想していたのだが。
「つつがなく」
渋沢の低い声に頷きを返す。
「何事もなく運べたのなら、それでよい。ご苦労だった」
孫九郎の応えに、渋沢はもう一度頭を下げてから立ち上がった。
「道中、如何であった。北畠軍は見えたか」
「いいえ。物見を先行させましたが、それらしい軍勢の姿は見受けられませんでした」
夕べのうちに、北畠軍が川の向こう側に退いたのを確認している。
だが、彼らが最も恐れているのは、今川軍が神宮を武力でもって占拠することだ。見張りか牽制役の少数は残っているだろう。
兵糧の運び入れに横やりが入らなかったのは、渋沢が護衛を十分につけていたからか。
孫九郎は案内されて蔵の方まで近づいた。違和感を覚えたのは、米俵を運び入れている人足の姿だ。今川軍の雑兵ではない。
そして、大きく開け放たれたお勝手門の向こうに、大量の馬がいることに気づいた。
「……馬借を使ったか」
「はい。馬で運ぶのが早いかと」
渋沢は頷き、荷入れ作業にもどった者たちの姿をぐるりと見まわした。
黒づくめの渋沢隊の者たちは、馬借の人足たちの動きを監督している。仮にこの中に間者が混じっていたとしても、滅多な真似は出来ないだろう。
渋沢の鋭い視線を浴びて、なおいっそう皆の動きがキビキビとしたものになる。
恐ろし気な頬あてがなければ女難を防げず、あったら周囲に怖がられる。
渋沢が選ぶのは常に後者だ。
「大湊で雇ったのか?」
大湊の商人は、北畠の要請に従って米を引き上げた。つまり明確に、長年の付き合いがある北畠家に従うことにしたのだ。
宇治や大湊の町中からさえ米をなくすなど、よほどの強権を行使して命じたとしか思えない。
だとすれば、大湊で馬借を雇うのは難しかったはずだ。
「はい」
だが渋沢は平然と答えた。
「頼めば快く了承してくれました」
孫九郎は疑わしく思いながら渋沢を一瞥し、常と変わらぬ眼差しを受けて納得した。
渋沢の“お願い”か。迷っているときにこの目で見られたら、圧に負けて頷いてしまいそうだな。
「大湊も一枚岩ではないか」
「米座は抑えられておりますが、町人には米を流している中問屋もあります」
よかった。完全に食うものがない状況ではなさそうだ。
多少は物価が上がるだろうが、いずれ安濃津から米が入ってくる。市井の者たちが飢えて死ぬという事態は避けられるだろう。
「馬借たちは、隣町からも集めました。掛かりは嵩みましたが、速さを優先しました」
孫九郎は頷いた。馬借たちが今川の仕事をしてくれたということは、心配するほど南伊勢の者たちから拒絶されているわけではないのだろう。
つまり北畠家の力が及ぶにも、限度はあるらしい。




