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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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168/215

19-7 伊勢 宇治 藤波本邸14 西対2

 西の空が赤みを帯びるころ、北畠軍が退き始めたという知らせが届いた。

 孫九郎は盤上に白い石を置き、腕組みをしている井伊殿の肩越しに弥太郎を見た。

「暗くなる前に、宮川のこちら側に伏兵が残っていないか確かめろ。それから……」

「外宮ですな」

 将棋が馬鹿強く囲碁もそれなりに強い井伊殿が、首を傾けながら言った。

「表向きは門を閉ざしていても、裏でつながっている……いや、北畠家はそのつながりを確かめようとするでしょう」

 パチリ、と井伊殿が黒い石を置く。行く手をふさがれ、孫九郎の眉間にしわが寄る。

「渡会禰宜がまだこちらに拘束されている。おいそれと動けないだろう」

「だからこそ、これまでの指示がそのまま残っているはずです」

 孫九郎は頷き、接戦になっている盤上の白黒碁石をじっと見つめた。こちらも身動きが取れない。井伊殿の手は相変わらず硬い。

 渡会禰宜は藤波家で詮議を受けている。鶸らがいるので生易しい尋問ではないと思うが、今のところ代わり映えのある情報は上がってきていない。

 外宮からは何度も様子見と陳謝の使者が来ている。だが、彼らにはこちらの状況を知るすべはなく、外宮の各所は今混乱状態だそうだ。

「……これ以上口を挟むべきではないな」

「さようでございますな」

 孫九郎のつぶやきに、井伊殿も同意して頷いた。

 神宮の内情に干渉してもいいことはない。

「ただ……こちらから一手指すとするなら」

 井伊殿が、盤面を舐めるように見ながら言った。

「渡会小夜殿」

 パチリ、と碁石が小気味良く鳴る。

「あの女子を使うというのはいかがでしょう」

「小夜殿か」

 孫九郎は顔を顰めた。

 小夜殿はあのあと、与えられた一室で静かにしている。ただ見届けるとでも言いたげに。

 捕えた男にはもはや興味はないらしい。あの坊主もどきではなく、しおらしく尋問を受けている渡会禰宜の様子を、時折尋ねてくるそうだ。

 彼女の状況を思えば気持ちが塞いだ。

 起こったことは悲劇だが、この時代では珍しくはない。だが本人にとっては、“よくあること”で片付く問題ではなかった。

 父親と弟が詰め腹を切ったと聞く。他の親族はどうしているのだろう。

「気が進みませぬか」

 井伊殿は盤面ではなく孫九郎を見ていた。

 孫九郎はちらりと視線を上げ、再び盤面に目を戻した。

「気の毒だとは思う」

 そう思われるのは、きっと屈辱だろう。

 あれだけしっかりと己を保ち、最後まであきらめなかった。彼女の執念が坊主もどきの真実を白日の下にさらしたのだ。

 同時に、それで渡会本家の当主が罪を問われた。

 分家の娘である小夜殿にとっては、敵とみなすには苦しい相手だろう。

「小夜殿が求めているのは保護ではありません」

 井伊殿は言った。

 ……その通りだ。彼女は本家の当主を告発してでも、父と弟を自裁に追い込んだことを許せなかったのだ。

 これだけのことを成し遂げて、一度も自己弁護をしないし、誰かを頼ろうともしない。

 孫九郎は小さく息を吐いた。

「好きにさせたら、刀を持って首を取りに行きそうだな」

 すべての敵を討ち滅ぼし、そののちに彼女自身も死を選ぶだろう。そんな気がした。

「因果応報と申します」

「耳に痛いな。恨まれる覚えなら山ほどある」

 孫九郎の苦笑に、井伊殿は太い眉をひょいと上げた。

 恨みは理性で考えるものではない。例えば父や幸松が殺されたら、孫九郎は激怒するだろう。殺した相手を、生涯恨み忘れないだろう。

 これまで孫九郎が戦場で築いた遺体の山は、そんな恨みが積み重なったものだ。

 ちらりと、廊下側に座っている幸松を見る。小姓のひとりとして、しっかり務めている。

 戦国の習いは優しいものではない。いつかこの子の身にも容赦なく襲い掛かるだろう。

 それまでに沢山学び、成長し、誰かの恨みを背負っても、それに負けない大人になってほしい。

「幸松」

 声を掛けると、ぱっと顔がこちらを向いた。

「はいっ」

 その顔が夕日を浴びて茜色に染まっている。

 まるで血のようだと想像してしまったのを振り払い、コイコイと手招いた。

「土井とふたりで、北畠軍の撤退を見て参れ」

 土井は目がいい。薄暗くなるまで、詳細を見届けてほしい。

 忍び衆には伏兵を警戒させるが、土井と幸松には実際に北畠軍が退くのを確認させたい。

 わざと手間取るふりをして、夜になっても宮川の向こうに退かない可能性もある。

「北畠軍が川の手前で夜を越そうとした場合はどうされますか」

 土井の質問に、孫九郎は首を傾ける。

「時を稼いだとしても、祭主様の心証が悪くなるだけですから、退くでしょう」

 井伊殿が代わりに答えた。孫九郎もその考えに全面的に同意する。だが、人間は理性だけでできているわけではない。退かない場合は……

「明日、渋沢がくる。兵糧を運ぶ小荷駄を邪魔されたくない」

 脳裏に小夜殿の色白の顔が浮かぶ。

「あの女子ならば、使ってくれと言うでしょう」

 孫九郎の逡巡を読み取ったように、井伊殿が言った。

 だが、遠ざかっていく幸松の背中を見送って、首を横に振る。

 それをこちらから持ちかけるのは、違うと思う。

「野営の支度はどうだ」

 孫九郎は話を切り上げ、盤上を見て両手を上げた。今回はどう見ても負けだ。

「皆慣れておりますので」

 井伊殿は最後に一度、盤面を睨みつけてから、納得したように頷いた。

 これで投了だ。

 最近は勝ったり負けたりを繰り返しているので、次に指すときは前回負けた方が先手と決めている。

 互いに意識が碁盤から離れ、茜色の増す空に目を向ける。

「水場が足りなくなる恐れがありましたが、解決しました」

 二千もの兵がいれば、狭い宇治の周辺では野営の場所に困る。

 水場もだが、穴を掘って設ける厠の場所も考えなければならない。これだけの人数ともなれば適当に済ませるわけにはいかない。

 兵糧は明日まではある。煮炊きに制限はかけていないが、皆足りなくなったことを考えて遠慮して食べているそうだ。

 渋沢なら無事に兵糧を運んでくるだろう。あの男に任せて間違いはない。

 孫九郎は、野営地の見回りに行くという井伊殿を見送って、ひと息ついた。

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― 新着の感想 ―
御屋形様から渋沢のご指名入る時、それはオナゴの心を動かしたい時…渋沢はなんでも如才なくやれるので頼みやすいけれど、渋沢に恨まれませんように
渋沢も良いですが、個人的には承菊との対比が気になりますね。 最短距離を突撃して、仇討ちという結果のために生きている小夜殿。 仇を貶め苦しませ続ける、言わば過程にこそ生き甲斐を見出している承菊。 会わ…
渡会家の当主は渡会小夜に任せたい。 渡会家婿候補の渋沢がやってくる!?
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