19-7 伊勢 宇治 藤波本邸14 西対2
西の空が赤みを帯びるころ、北畠軍が退き始めたという知らせが届いた。
孫九郎は盤上に白い石を置き、腕組みをしている井伊殿の肩越しに弥太郎を見た。
「暗くなる前に、宮川のこちら側に伏兵が残っていないか確かめろ。それから……」
「外宮ですな」
将棋が馬鹿強く囲碁もそれなりに強い井伊殿が、首を傾けながら言った。
「表向きは門を閉ざしていても、裏でつながっている……いや、北畠家はそのつながりを確かめようとするでしょう」
パチリ、と井伊殿が黒い石を置く。行く手をふさがれ、孫九郎の眉間にしわが寄る。
「渡会禰宜がまだこちらに拘束されている。おいそれと動けないだろう」
「だからこそ、これまでの指示がそのまま残っているはずです」
孫九郎は頷き、接戦になっている盤上の白黒碁石をじっと見つめた。こちらも身動きが取れない。井伊殿の手は相変わらず硬い。
渡会禰宜は藤波家で詮議を受けている。鶸らがいるので生易しい尋問ではないと思うが、今のところ代わり映えのある情報は上がってきていない。
外宮からは何度も様子見と陳謝の使者が来ている。だが、彼らにはこちらの状況を知るすべはなく、外宮の各所は今混乱状態だそうだ。
「……これ以上口を挟むべきではないな」
「さようでございますな」
孫九郎のつぶやきに、井伊殿も同意して頷いた。
神宮の内情に干渉してもいいことはない。
「ただ……こちらから一手指すとするなら」
井伊殿が、盤面を舐めるように見ながら言った。
「渡会小夜殿」
パチリ、と碁石が小気味良く鳴る。
「あの女子を使うというのはいかがでしょう」
「小夜殿か」
孫九郎は顔を顰めた。
小夜殿はあのあと、与えられた一室で静かにしている。ただ見届けるとでも言いたげに。
捕えた男にはもはや興味はないらしい。あの坊主もどきではなく、しおらしく尋問を受けている渡会禰宜の様子を、時折尋ねてくるそうだ。
彼女の状況を思えば気持ちが塞いだ。
起こったことは悲劇だが、この時代では珍しくはない。だが本人にとっては、“よくあること”で片付く問題ではなかった。
父親と弟が詰め腹を切ったと聞く。他の親族はどうしているのだろう。
「気が進みませぬか」
井伊殿は盤面ではなく孫九郎を見ていた。
孫九郎はちらりと視線を上げ、再び盤面に目を戻した。
「気の毒だとは思う」
そう思われるのは、きっと屈辱だろう。
あれだけしっかりと己を保ち、最後まであきらめなかった。彼女の執念が坊主もどきの真実を白日の下にさらしたのだ。
同時に、それで渡会本家の当主が罪を問われた。
分家の娘である小夜殿にとっては、敵とみなすには苦しい相手だろう。
「小夜殿が求めているのは保護ではありません」
井伊殿は言った。
……その通りだ。彼女は本家の当主を告発してでも、父と弟を自裁に追い込んだことを許せなかったのだ。
これだけのことを成し遂げて、一度も自己弁護をしないし、誰かを頼ろうともしない。
孫九郎は小さく息を吐いた。
「好きにさせたら、刀を持って首を取りに行きそうだな」
すべての敵を討ち滅ぼし、そののちに彼女自身も死を選ぶだろう。そんな気がした。
「因果応報と申します」
「耳に痛いな。恨まれる覚えなら山ほどある」
孫九郎の苦笑に、井伊殿は太い眉をひょいと上げた。
恨みは理性で考えるものではない。例えば父や幸松が殺されたら、孫九郎は激怒するだろう。殺した相手を、生涯恨み忘れないだろう。
これまで孫九郎が戦場で築いた遺体の山は、そんな恨みが積み重なったものだ。
ちらりと、廊下側に座っている幸松を見る。小姓のひとりとして、しっかり務めている。
戦国の習いは優しいものではない。いつかこの子の身にも容赦なく襲い掛かるだろう。
それまでに沢山学び、成長し、誰かの恨みを背負っても、それに負けない大人になってほしい。
「幸松」
声を掛けると、ぱっと顔がこちらを向いた。
「はいっ」
その顔が夕日を浴びて茜色に染まっている。
まるで血のようだと想像してしまったのを振り払い、コイコイと手招いた。
「土井とふたりで、北畠軍の撤退を見て参れ」
土井は目がいい。薄暗くなるまで、詳細を見届けてほしい。
忍び衆には伏兵を警戒させるが、土井と幸松には実際に北畠軍が退くのを確認させたい。
わざと手間取るふりをして、夜になっても宮川の向こうに退かない可能性もある。
「北畠軍が川の手前で夜を越そうとした場合はどうされますか」
土井の質問に、孫九郎は首を傾ける。
「時を稼いだとしても、祭主様の心証が悪くなるだけですから、退くでしょう」
井伊殿が代わりに答えた。孫九郎もその考えに全面的に同意する。だが、人間は理性だけでできているわけではない。退かない場合は……
「明日、渋沢がくる。兵糧を運ぶ小荷駄を邪魔されたくない」
脳裏に小夜殿の色白の顔が浮かぶ。
「あの女子ならば、使ってくれと言うでしょう」
孫九郎の逡巡を読み取ったように、井伊殿が言った。
だが、遠ざかっていく幸松の背中を見送って、首を横に振る。
それをこちらから持ちかけるのは、違うと思う。
「野営の支度はどうだ」
孫九郎は話を切り上げ、盤上を見て両手を上げた。今回はどう見ても負けだ。
「皆慣れておりますので」
井伊殿は最後に一度、盤面を睨みつけてから、納得したように頷いた。
これで投了だ。
最近は勝ったり負けたりを繰り返しているので、次に指すときは前回負けた方が先手と決めている。
互いに意識が碁盤から離れ、茜色の増す空に目を向ける。
「水場が足りなくなる恐れがありましたが、解決しました」
二千もの兵がいれば、狭い宇治の周辺では野営の場所に困る。
水場もだが、穴を掘って設ける厠の場所も考えなければならない。これだけの人数ともなれば適当に済ませるわけにはいかない。
兵糧は明日まではある。煮炊きに制限はかけていないが、皆足りなくなったことを考えて遠慮して食べているそうだ。
渋沢なら無事に兵糧を運んでくるだろう。あの男に任せて間違いはない。
孫九郎は、野営地の見回りに行くという井伊殿を見送って、ひと息ついた。




