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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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19-6 伊勢 宇治 藤波本邸13 西対

 東雲が心配そうにこちらを見ている。孫九郎が、甘いだけの判断を下すとは思っていないのがわかる。

 大丈夫。見捨てるわけがないだろう。

「先陣が宮川を渡りました」

 戻ってきた弥太郎の報告は詳細だった。

 北畠軍の数は千を超えるそうだ。なかなかの数だ。

 宮川の水かさの低い場所を渡り、軍の先頭が外宮のある山田付近に迫っている。

 山田から宇治までの距離は近い。一里(四キロ)ほどだ。軍勢の足でもそう時間はかからない。

「外宮は?」

「今のところ、門を固く閉ざして様子を見ているようです。北畠勢も手を出してはおりません」

 積極的に受け入れていたらと危惧していたが、そんなことはなかったようだ。

 もちろん抗えといっているわけではない。外宮が北畠家に味方をすれば、ややこしいことになると思っただけだ。

 状況は良くはない。数だけなら今川軍のほうが多いが、防衛拠点となるような砦や城はなく、武装もしていないので、対処するのは難しかった。

 更には兵糧の問題があった。大湊から運ぶにしても、このままだと北畠軍の進軍ルートにあたってしまう。大湊への道を完全に塞がれれば、最悪、志摩方面へ退くしかなくなる。

 孫九郎は顎に手を当てた。庇の向こうはまだ青いが、庭に落ちる影はずいぶんと長くなっている。

「……井伊殿に伝言」

「はい」

 熟考の末のその言葉に、真っ先に反応したのは次郎三郎だった。

「できるだけ北畠殿を引き留めるように」

 東雲が顔を顰める。

 今なお漏れ聞こえる怒声は、誤解を解くというよりも、それを今川が邪魔をしていると責め立てるものだ。

「引き留めてどないする」

「祭主様から、兵を退くよう求めていただきましょう」

 すでに祭主様は、北畠殿が藤波邸で一線を越えたと考えている。武装した兵を敷地内に入れたことだけでも、腹に据えかねているようだ。

 こんな状況で千の兵が迫っていると聞いたら、北畠家は神宮に攻め入ろうとしていると思うかもしれない。いやそう断定まではしなくとも、心証は極めて悪いだろう。

「伝言ではなく、簡略なもので構いませんので、一筆書いていただけると確実です。北畠家は神宮を敵に回すつもりかと」

 すでにもう長年の付き合いは決裂しているが、北畠殿は認めようとはしないだろう。

 何故ならこれは、神宮を今川軍から守るための派兵だからだ。北畠殿は、その誤解を解きたいと思うはずだ。

 東雲が顔を顰めたまま言った。

「兵を退かせてどないする」

「改めて場を設けましょう」

 孫九郎はふっと唇をほころばせた。

「もう一度話を聞く用意がある。お互いに冷静になって考える時間が必要だと伝えてください」

 それまでの誠意として、宮川の対岸まで北畠兵を退かせる。

 そうすれば、大湊からの輸送路は確保できる。

 兵糧だけではなく、武具を運び入れることもできるが……それはしない方がいいな。

 いざというときに祭主様たちを安全に連れ出せるよう、退路の確保につとめるだけでいい。

 孫九郎は足早に去っていく東雲を見送って、ようやく顎から手を下ろした。

 皆が静かにこちらを見ている。

 ……やめろよお前ら。ここには参拝にきているだけだ。戦をするつもりはない。

 獲れるからと国を獲っても、その後の管理のほうが大変だろう。

「御屋形様」

 藤次郎が、ふと気づいたように口を開いた。

「兵糧はいかがいたします」

「北畠勢が宮川の向こうへ退いたのを確認次第、大湊から運ばせる」

「船の米を?」

「そうだ。安濃津を当てにするな。あちらがどう動くかは、まだわからん」

 船の米で足りないようなら、三河から運ぶ。補給路を塞がれない限り、兵糧の心配はない。

 だが、本当に安濃津から米が送られてきたら、大湊の商人たちはどうするだろう。今川と長野が手を結んだと思うだろうか。

 そして北畠殿は、その意味を察することができるだろうか。それに……。

「……先ほど、北畠殿が屋敷にきているとお伝えになられましたね」

 藤次郎は、誰に伝えたかまでは口にしなかった。

 孫九郎は笑った。

「これで安濃津は安泰だな」

 誰も笑い返してくれなかった。


 孫九郎は声が良く聞こえる場所でくつろぎながら、エスカレートしていく北畠殿と、「いやまことに」「ごもっとも」「よくわかり申す」と繰り返す井伊殿の会話に耳を澄ませていた。

 井伊殿は激しい怒号をいいようにあしらった。いいようにといっても適当にではなく、むしろ共感するような口ぶりで、普通に何度も頭を下げていたらしい。

 こういう仕事をやらせたら、井伊殿以上に上手い奴はいない。

 どれぐらいの間、聞き入っていただろう。

 白湯を二杯飲み切り、小腹がすいてきたなと考えたところで、延々と続いていた応酬がぴたりと止まった。

「……お」

 孫九郎の口から、思わず声が漏れた。

 四つ足門が開く重い音が聞こえたからだ。

 急に静かになったが、何が起こっているかはわからない。

 誰かに見に行かせようかとも思ったが、そのまま待つことにした。

 すぐに報告がくるとわかっていたからだ。

 井伊殿が戻ってきたのは、それから四半刻ほどたってからだった。

「うまそうですな」

 孫九郎は差し入れのゴマ豆腐を黒文字でつつきながら、顔を上げた。

 井伊殿はにやりと笑い、大股に部屋に入ってきた。

「祭主様からの書簡に目を通し、慌てて引き上げていきました。これでよろしかったでしょうか」

「充分だ」

 孫九郎は切り分けたゴマ豆腐を慎重に持ち上げながら言った。

「北畠軍の動きは追わせている。万が一に備えて、渋沢を呼ぶ。……食うか?」

 井伊殿は嬉しそうに頷いた。

「書簡に何が書かれているか聞いたか?」

「いえ、読むなり真っ青になって、挨拶もせず駆け去ったので」

 孫九郎より器用にゴマ豆腐を食べながら、井伊殿は言った。

 孫九郎が軽く内容を説明すると、あっと言う間に食べきってから、意味ありげな笑みをこぼした。

「北畠は引くと思うか」

 崩れたものをあきらめて小皿を下ろし、問うてみる。

 井伊殿はしばらく考え、「そうですな」と顎をさすった。ジョリと髭がこすれる音がした。

「もしかすると、このまま兵を進めるやもしれませぬ」

「それは困る」

 今川側には武具がない。数は多いので遅れは取らないだろうが、戦になれば無傷では済まない。

「ですがあのぶんだと、そんな度胸はございますまい」

 度胸か。

 孫九郎は、北畠殿の腕が頬に触れた時のことを思い返していた。

 あの時、北畠殿は驚いたような顔をしていた。そんなつもりはなかったという風に。

 あれは度胸云々というよりも、暴力に慣れていない反応だ。

 北畠家は公家とはいえ、武家と張り合って戦もする。だが少なくともあの男は、自分の手で誰かを殴ることは得意でないようだった。

ちなみに、孫九郎君も得意ではありません

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― 新着の感想 ―
井伊殿、クレーマー対処も上手いのか。頑張った井伊殿にゴマ豆腐渡って良かった。御屋形様の崩れたゴマ豆腐も裏の方で側近達が取り合ってたりするのかな。 御屋形様は自分が殴られる斬られる瞬間は基本目をつぶっ…
御屋形様が殴る前に周りが殴りかかるから…
そうかこの時期だとまだこっちの地方じゃ1000越えるだけでもまあまあ大軍か 清康が信秀討ちに行くのに数千だか一万だか集めて前代未聞の大軍と言われたくらいだし
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