19-5 伊勢 宇治 藤波本邸12 主殿5
ゆらり……と立ち上がった老祭主様を、誰もが注視した。
高座から一歩下りてくる。さらに数歩、足をすすめる。
このお方に、腕力はおそらくない。鍛え抜かれた鋼のような頑強さよりも、長い年月をかけて積み上げられた知性の鋭さがある。
そこから目をそらすことはできなかった。
なおも下座の方向に近づいてくる。
時任侍従はピクリとも動かなかったが、北畠殿は顎を引き、一歩後ろに足を下げた。
「父上」
明らかに激怒しているご老体に対して、温和な口調で声を掛けたのは先生だ。息子だから慣れているのか? あるいは怒りの矛先が向いていないからかもしれない。
「脇息は投げるものやありません」
それはもちろんそうだ。この場にいる全員が同意するだろう。
だがしかし、祭主様の怒りを浴びたくないその他の者たちは、無難に口を閉ざした。
祭主様は無言のまま、じろりと庭先を睨み据えた。
ガチャガチャと、無様に鎧が擦れる音がした。
孫九郎はそこで初めて、主殿の大広間に面した庭先に、思っていた通り北畠の兵が詰め寄ってきているのを見た。
彼らが鎧で武装しているのは知っている。西対に来た者たちは刀も帯びていた。改めて見た彼らは、刀を置いてくるどころか、短い槍を握っている者までいた。これは良くない。
「北畠殿」
孫九郎は静かに言った。
「この者たちを下げられよ」
「……っ」
息を飲む音がした。
孫九郎は、見たくないが、本当に見たくないのだが、室内に目を戻した。
祭主様が、飛んで行った脇息を拾い上げ、今度こそ北畠殿めがけて投げつける寸前だった。
ガン! と大きな音がした。
その時には、北畠殿は回避行動をとっていて、ギリギリでまた当たらなかった。
「父上」
先生は口では止めるが、立ち上がろうとはしない。東雲もだ。
孫九郎はどうしたものかと困惑した。侍従殿にならって、知らぬ顔をしておくべきか?
「祭主様。ご不快なのはわかりますが、まずはこの者たちを下がらせましょう」
仕方がないのでそう言うと、しわ深い顔の奥からギロリと刃のような目で睨まれた。
その手が腹の前でぎゅっと握られる。……まさか今度は拳で殴り掛かる気か?
孫九郎はとっさに前に出た。
祭主様がさらに一歩踏み出すのと、北畠殿が防御反応で腕を振るのとが、ほぼ同時だった。
「あっ」
誰かが声を上げた。
孫九郎が身体をねじ込めたのはギリギリだった。
危なかった。あのままだと北畠殿の振った腕が祭主様に当たっていたかもしれない。
もし祭主様が怪我でもしていたら、大ごとになっていた。
「御屋形様!」
だがしかし、少し離れた位置からこの様子を見ていた今川衆が、声を上げた。
勢いよく振られた北畠殿の腕は、孫九郎の横っ面をかすめ、踏ん張り切れずによろめいてしまったからだ。
硬い布地が当たっただけだ。痛みもなかった。むしろ、割って入った拍子に背中にぶつかった拳のほうが強かった。
孫九郎は急いで手を上げて振った。大丈夫だと。
誓って言うが、ダメージを負ったわけではない。大げさに痛い振りなどしていないし、うずくまったわけでも、手を顔に当てたわけでもない。
だが背後から腕を掴まれた。ぐいと引かれて、北畠殿との距離が開く。
振り返ると、ギラギラとあり得ないほど物騒な表情の祭主様が、北畠殿を睨み上げていた。
「……出て行け」
かすれた声が、怒りをこらえきれず吐き捨てられた。
「この屋敷で乱暴狼藉は許さん」
先に脇息を投げたのは祭主様では……とは、誰も言えなかった。
蓋を開けてみれば、北畠家と伊勢神宮との関係は決裂した。諍いというような単純なものではなく、もっと根本的な断絶だった。
祭主様はもともと、外宮に勢力を伸ばしていたことを許せないと考えていたようだ。言い訳があるなら聞くと場を設けたのに、最後の恩情を踏みにじられた。
「世渡りが下手ですね。素直に頭を下げていれば片が付いたのに」
呆れた口調でそう言ったのは、次郎三郎だ。
孫九郎はわずかに赤くなった頬を冷やしながら、肩をすくめた。
見るからにプライドが高い北畠殿が、簡単に非を認めるわけがない。最初から物別れになる可能性が高い対面だった。
門前でまだ喚いている声が聞こえる。
宥めている声は、井伊殿のものだ。
怒りが覚めるまで時間を置けと、親切な口ぶりで言っている。
「北畠兵を主殿の庭に入れたのは、井伊殿か?」
白湯を置いて去っていく弥太郎を見送りながら、小声で聞いてみる。
次郎三郎の隣で、藤次郎が苦笑しながら頷いた。
「はい。その直後に北畠様の大声が聞こえて……」
主君の怒声を聞いて、武器を手に駆けつけたのだろう。この屋敷には今川衆もいる。何かあってからでは遅い。
護衛としてあたりまえのその反応を、井伊殿に利用されたのだ。
孫九郎は溜息をついた。
相変わらずの狸だ。
「ですが御屋形様も上手く立ち回られました」
次郎三郎の、誰かに聞かれたら誤解を受けそうな台詞に咳ばらいをする。
いい加減黙れのその合図に、次郎三郎は心得たように口を閉ざした。
「孫九郎殿」
西対の廊下を足早に近づいてきた東雲が、白湯を飲む孫九郎を見てほっとしたように表情を緩めた。
たいした怪我などしていないとわかっているだろうに。
訝しく感じながら首を傾けると、東雲はさっと周囲を見て声を落とした。
「宇治に北畠の大軍が近づいて来とるそうや」
孫九郎はまじまじと東雲の整った顔を見た。
周囲の男たちが一斉に緊張する。
「大軍?」
どれぐらいの数だろう。北畠は安濃津をめぐって、長野家と睨み合いをしていたはずだ。その戦線は解いたのだろうか。
東雲や周囲の者たちと違って、孫九郎はさほど驚きはしなかった。
北畠殿がそうするかもしれないと、心のどこかで思っていたからだ。




