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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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19-4 伊勢 宇治 藤波本邸11 主殿4

 すっと風が通った。

 足音がしたわけではないのに、その場にいた全員が一斉に廊下の方を見た。

 一条家の時任侍従が、隙のない佇まいでそこにいた。

 濃縹(こいはなだ)の薄物の直衣。黒漆の烏帽子。

 華美な装いではない。それでも一目見れば、格の高い公家に仕える者だということがわかる。

 真っ先に孫九郎が頭を下げた。身分云々というよりも、長年の癖だった。……侍従殿の作法指導は非常に厳しいのだ。

 他の者たちは戸惑った様子で侍従殿を見て、一呼吸後に祭主様が渋々と口を開く。

「まだ先客がおる」

 渋い祭主様の口調に、北畠殿が取り繕ったように表情を改めた。

 侍従殿は泰然と室内を見回し、一度だけ、上座のほうに向かって礼を取った。

「存じ上げております」

 その声は平淡で、丁寧で……これは激怒しているときの声だ。

 ビシビシと叱られた記憶はさほど古いものではなく、意識する前に姿勢を正す。

 取次もなくいきなり現れるのは無作法には違いないが、この場にいる誰もが咎め立てはしなかった。顔を出す理由があることを、北畠殿ですらわかっていたからだ。

 北畠殿はきっと会いたくはなかっただろう。正直、孫九郎もそうだ。せめてもう少し話がまとまってからにしてほしかった。

「ですが、申し上げておかねばならぬことがございます」

「お待ちを」

 孫九郎はたまらず口を挟んだ。

「参拝の日取りについては改めて……」

「治部大輔殿」

 決定的な発言をする前にとめようとしたのだが、ぴしゃりと窘められてしまった。

 つまり、引っ込んでいろということだ。

 孫九郎はおとなしく口を閉ざした。

 これから繰り広げられるであろう舌戦に、胃がぎゅっと締め付けられる。

 侍従殿は痩せた身体をまっすぐに伸ばし、堂々と声を張った。

「一条家は、今後一切、北畠家とのおつきあいを遠慮させていただきます」

 相変わらず結論をずばりと言う。京訛りの柔らかさが、なおいっそう鋭い刃となって肝を冷やす。

 北畠殿が、ものすごい形相で睨んできた。赤黒かった顔色が、青白く変わっている。

 孫九郎は一瞬床に目を落とし、ため息を飲み込んだ。

 これは絶縁などという生易しいものではない。明確な敵対宣言だ。一条家と婚姻を結ぶ今川も、否応なく同じ側に立たされる。

 ……そこまで承知で言っているな。

 侍従殿の目が室内を一周見回し、北畠殿をさらりと素通りした。

「一姫様を側室に? えらい大きな口をたたきはる」

 そして、横を向いて毒を吐く。

「治部大輔殿。この男を捕えるのに力をお貸しください」

 侍従殿の声は冷たかった。吐いた息が白いのではと、目を凝らしてしまうほどに。

「そ、そのようなことが許されると思うておるのか!」

 北畠殿の声は上ずり、動揺が隠せていなかった。腰を浮かせ、今すぐこの場から離れたいと身体が逃げている。

「許されぬことをしはったのはそちらにございます」

 侍従殿はその様子をじろりと睨み、酷薄そうな唇を嘲笑にゆがめた。

「一条家の乗っ取りに加担したでしょう」

「知らぬ知らぬ知らぬ!」

「子供のように駄々をこねるなど見苦しい」

 北畠殿は片膝を立て、助けを求めるように藤波家の父子たちを見た。だが誰も動かない。東雲などは空気のように気配を消している。

 北畠殿の充血した目が孫九郎を見た。

 ……今、非力な子供だと思ったな。攻めるならここだと。

「やはり伊勢を奪う気やな!」

 孫九郎は無表情を保ち、少しだけ首を傾げた。北畠殿はさらに追撃しようとしたが、何かに気づいて息を飲んだ。

 背後だ。孫九郎の背後。開け放たれた部屋の外に、土を蹴る足音が聞こえる。

 荒いものではないが、数はそれなりにいる。

 がちゃりと鎧がこすれる音がした。つまり、北畠の兵だ。

 孫九郎は振り返らなかった。

「これはどういうことや」

 問いただす祭主様の声が、地を這うように低い。

 北畠殿もまた、何が起こっているのかわかっていない様子だが、責める目で見られてはっと息を飲んだ。

「こ、これは」

 違うと言うのだろうか。そんなつもりではなかったと。あるいは別の言い訳をするのだろうか。

 北畠殿は迷っていた。祭主様の顔に怒りが浮かぶ。それを見てまた動揺している。

 孫九郎はゆっくりと顔を上げた。

「孫九郎殿」

 東雲が小声で制止してくるのに、「大丈夫」と頷きだけを返す。

「兵を送り込むとは、どのようなお考えでしょう」

 孫九郎はまだ笑顔のままだった。

 北畠殿は、さすがにマズいと思ったようだが、上手く取り繕うことができなかった。

 わかりやすく、矛先を孫九郎に向ける。

 勢いよく立ち上がって、上背のある身体で胸を張りながら、まだ床に座ったままの孫九郎に扇子の先を向けた。

 北畠殿は怒鳴りつけようと息を吸った。孫九郎も受けて立つため視線を据えて見つめ返した。

その時。

 上座から、脇息が飛んできた。

 柔らかい部分が北畠殿の脇をかすめ、木の床に落ちて大きな音を立てた。

 孫九郎を含め、全員が祭主様のほうを見た。庭先にいる者たちもだ。

 時が止まる。

 片膝を立てた祭主様が、鬼の形相でこちらを睨んでいた。

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― 新着の感想 ―
祭主様の前でまさか時任侍従がドストレートに『治部大輔殿。この男を捕えるのに力をお貸しください』とおっしゃるとはビックリ。とんでもなく激怒なんですね。御屋形様も相当怒ってるけど笑う余裕があるもんねぇ…祭…
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ほんとに脇息投げてくるとは思わんやん・・・(・ω・`) 「こちらを」睨んでって、孫九郎様も同一視されてないか若干心配です。 違うヨ?侍従殿は仕込みじゃないヨ?
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