19-4 伊勢 宇治 藤波本邸11 主殿4
すっと風が通った。
足音がしたわけではないのに、その場にいた全員が一斉に廊下の方を見た。
一条家の時任侍従が、隙のない佇まいでそこにいた。
濃縹の薄物の直衣。黒漆の烏帽子。
華美な装いではない。それでも一目見れば、格の高い公家に仕える者だということがわかる。
真っ先に孫九郎が頭を下げた。身分云々というよりも、長年の癖だった。……侍従殿の作法指導は非常に厳しいのだ。
他の者たちは戸惑った様子で侍従殿を見て、一呼吸後に祭主様が渋々と口を開く。
「まだ先客がおる」
渋い祭主様の口調に、北畠殿が取り繕ったように表情を改めた。
侍従殿は泰然と室内を見回し、一度だけ、上座のほうに向かって礼を取った。
「存じ上げております」
その声は平淡で、丁寧で……これは激怒しているときの声だ。
ビシビシと叱られた記憶はさほど古いものではなく、意識する前に姿勢を正す。
取次もなくいきなり現れるのは無作法には違いないが、この場にいる誰もが咎め立てはしなかった。顔を出す理由があることを、北畠殿ですらわかっていたからだ。
北畠殿はきっと会いたくはなかっただろう。正直、孫九郎もそうだ。せめてもう少し話がまとまってからにしてほしかった。
「ですが、申し上げておかねばならぬことがございます」
「お待ちを」
孫九郎はたまらず口を挟んだ。
「参拝の日取りについては改めて……」
「治部大輔殿」
決定的な発言をする前にとめようとしたのだが、ぴしゃりと窘められてしまった。
つまり、引っ込んでいろということだ。
孫九郎はおとなしく口を閉ざした。
これから繰り広げられるであろう舌戦に、胃がぎゅっと締め付けられる。
侍従殿は痩せた身体をまっすぐに伸ばし、堂々と声を張った。
「一条家は、今後一切、北畠家とのおつきあいを遠慮させていただきます」
相変わらず結論をずばりと言う。京訛りの柔らかさが、なおいっそう鋭い刃となって肝を冷やす。
北畠殿が、ものすごい形相で睨んできた。赤黒かった顔色が、青白く変わっている。
孫九郎は一瞬床に目を落とし、ため息を飲み込んだ。
これは絶縁などという生易しいものではない。明確な敵対宣言だ。一条家と婚姻を結ぶ今川も、否応なく同じ側に立たされる。
……そこまで承知で言っているな。
侍従殿の目が室内を一周見回し、北畠殿をさらりと素通りした。
「一姫様を側室に? えらい大きな口をたたきはる」
そして、横を向いて毒を吐く。
「治部大輔殿。この男を捕えるのに力をお貸しください」
侍従殿の声は冷たかった。吐いた息が白いのではと、目を凝らしてしまうほどに。
「そ、そのようなことが許されると思うておるのか!」
北畠殿の声は上ずり、動揺が隠せていなかった。腰を浮かせ、今すぐこの場から離れたいと身体が逃げている。
「許されぬことをしはったのはそちらにございます」
侍従殿はその様子をじろりと睨み、酷薄そうな唇を嘲笑にゆがめた。
「一条家の乗っ取りに加担したでしょう」
「知らぬ知らぬ知らぬ!」
「子供のように駄々をこねるなど見苦しい」
北畠殿は片膝を立て、助けを求めるように藤波家の父子たちを見た。だが誰も動かない。東雲などは空気のように気配を消している。
北畠殿の充血した目が孫九郎を見た。
……今、非力な子供だと思ったな。攻めるならここだと。
「やはり伊勢を奪う気やな!」
孫九郎は無表情を保ち、少しだけ首を傾げた。北畠殿はさらに追撃しようとしたが、何かに気づいて息を飲んだ。
背後だ。孫九郎の背後。開け放たれた部屋の外に、土を蹴る足音が聞こえる。
荒いものではないが、数はそれなりにいる。
がちゃりと鎧がこすれる音がした。つまり、北畠の兵だ。
孫九郎は振り返らなかった。
「これはどういうことや」
問いただす祭主様の声が、地を這うように低い。
北畠殿もまた、何が起こっているのかわかっていない様子だが、責める目で見られてはっと息を飲んだ。
「こ、これは」
違うと言うのだろうか。そんなつもりではなかったと。あるいは別の言い訳をするのだろうか。
北畠殿は迷っていた。祭主様の顔に怒りが浮かぶ。それを見てまた動揺している。
孫九郎はゆっくりと顔を上げた。
「孫九郎殿」
東雲が小声で制止してくるのに、「大丈夫」と頷きだけを返す。
「兵を送り込むとは、どのようなお考えでしょう」
孫九郎はまだ笑顔のままだった。
北畠殿は、さすがにマズいと思ったようだが、上手く取り繕うことができなかった。
わかりやすく、矛先を孫九郎に向ける。
勢いよく立ち上がって、上背のある身体で胸を張りながら、まだ床に座ったままの孫九郎に扇子の先を向けた。
北畠殿は怒鳴りつけようと息を吸った。孫九郎も受けて立つため視線を据えて見つめ返した。
その時。
上座から、脇息が飛んできた。
柔らかい部分が北畠殿の脇をかすめ、木の床に落ちて大きな音を立てた。
孫九郎を含め、全員が祭主様のほうを見た。庭先にいる者たちもだ。
時が止まる。
片膝を立てた祭主様が、鬼の形相でこちらを睨んでいた。




