12-3 志摩 神島3
さっと風が動いた。
静かに障子がスライドして、ふわりといい匂いがした。
そのお香の匂いは、孫九郎にとってひどく懐かしいものだった。
「やあ、お勝殿。いや孫九郎殿と呼ぶべきやな」
鶸が開けた障子の向こうから入ってきたのは東雲だった。
相変わらずの、まばゆいばかりの白系の装束。薄暗い室内では、その白さがまるで発光しているように見える。
「愛姫、あんまりええもんは用意できへんかったけど、女手と着替えを持ってきた」
顔を俯けていた愛姫が、ぴくりと肩を揺らした。
わずかに見える表情は陰に沈んでいる。以前の姫からは想像もできない、追い詰められた者の顔だ。
一瞬目が合った気がしたが、すぐにそらされてしまった。
強く胸が痛んだ。
「支度をしておいで」
東雲の声は、覚えている通りの柔らかな京訛りだった。
それに救われた気がしたのは、孫九郎だけではないだろう。
愛姫は小さく「はい」と声を落とした。
床に向けて。細い声で。
東雲の背後から現れた女性は、この場には少し場違いな気がするにこやかな表情をしていた。身にまとっているのも目をひく色味の小袖で、帯も華やかだ。
それはあまりにも、今の愛姫と対照的な装いだった。
いや東雲が連れてきた人だからと、その違和感を退ける。
「万千代君はどないですか」
愛姫が部屋の奥に向かうのを見送ってから、東雲が言った。
その声は、先ほどよりもトーンが落ちて、硬い。
愛姫に気をつかって、わざと明るくしていたのだろう。
「熱が下がらぬ」
返す寒月様の声色は静かで、フラットなものだった。感情を奥深くに押し込めたような。
東雲はすっと寒月様に視線を戻し、励ますように頷いた。
「すぐにようなります」
「……そうやな」
続く沈黙は重い。
回復を願ってはいるが、万が一を受け止める覚悟をしているようにも見えた。
孫九郎は弥太郎に目を向ける。
この男には、虚弱だった孫九郎をここまで回復させた実績がある。
弥太郎は孫九郎と視線を合わせず、万千代君の脈をとるのをやめて少し身を下げた。
それは明らかに、よくない結果を意味していたが、認めるわけにはいかなかった。
万が一などない。絶対にない。
「ぜひ今川領内でご静養ください。万全を期します」
孫九郎は、自身の危惧を振り払う強い口調で言った。
間違いなく、このまま三河に移るのがお二方にとって最も安全だ。長距離の移動は負担になるだろうから、近場で安全な静養先を探さなければ。
「お勝」
どこがいいかと思いを巡らせていると、寒月様が孫九郎に目を向けた。
「土佐に、行かねばならぬ」
「……それは」
「行かねばならぬのや」
高熱を出して寝込んでいる子供を連れて行くというのか? 命からがら逃れてきたお二方を、再び危険な場所に向かわせると?
湧き上がる否定的な感情を、ぐっと飲み込む。
「わかりました」
寒月様のお気持ちは理解できる。
だからといって、ではどうぞと下がる気にもなれなかった。
「ですが、せめて熱が高いうちは休ませてあげてください」
「そなたは熱があろうが退かなんだ」
孫九郎は少し目を見開く。
武家の嫡男と、公家の御曹司とを比較してはいけない。
そう言おうとして、違うのだと思い直した。
退けない場所があるのは、公家も武家も同じだ。
「大内と戦うのですか」
―――公家である一条家が?
言外にそういう意味を込めた孫九郎の台詞に、とがめだてするのは東雲だ。
「孫九郎殿」
非礼だということはわかっている。
だが、西国随一の大大名である大内家を相手に、真正面から戦って勝てるわけがない。
「寒月様」
孫九郎は居住まいをただし、はっきりとした口調で言った。
「闇雲に攻めても勝てませぬ。勝ち目のある戦に持ち込むべきです」
寒月様の目が、真正面から孫九郎を射た。
幼いころからの長年の付き合いだが、こんな目で見られたことはなかった。
さぞ不快に思われただろう。そんな事はわかっていると言いたいのだろう。
だが、寒月様や愛姫様や万千代君を、このまま死地に向かわせるわけにはいかない。
「まずは中納言様の所在を確認しましょう」
寒月様は、長年武士と同じ土俵で戦ってこられたお方だ。
だがその根本は、武士ではなく公家なのだ。
土佐に向かえばなんとかなる、事は収まると思っているのなら、待ち構えている大内家の巨大な顎に呑まれるだけだ。
「今の土佐一条家の内情が、どのような勢力図になっているかも調べるべきです」
果たして、寒月様たちの味方はまだいるのだろうか。
半々以上の確率で、ほとんどの家門が大内側についているのではないか。
「その上で、負けぬ戦をするのです」
我ながら、随分と簡単に言う。
孫九郎は内心で自嘲しながら、寒月様の凝視を受け止めた。
「失礼いたします」
表から、土井の声がした。
部屋の入口のところに控えていて、障子をスッと開けたのは、鶸だ。
土井は廊下にはおらず、更にその向こうの庭先で両膝をついていた。
「御屋形様に申し上げます。英虞衆が降伏しました」
孫九郎は小さく頷きを返した。
こうなることを疑っていなかった。負けない為の準備を怠らなかったからだ。
だが、喜びを感じたりもしなかった。
ジワリと腹の底が焼ける。
連中が人質を取ろうとしなければ、お二人をもっと早く保護できたのだ。
姫が泥道を這い、走って逃げるなどということにはならなかった。
万千代君が高熱で苦しむ中、海に飛び込むことにもならなかった。
「御前、失礼いたします」
孫九郎は一礼した。
「すぐに戻ります」
お二人を苦しめた奴らの顔を、見ておきたかった。




