12-2 志摩 神島2
背筋を伸ばすと、食道の半分ほどまでせり上がってきたものが自然と胃に落ちた。
孫九郎は深く息を吸い、肺に潮風を満たした。
風は弱い。波も高くない。
だが、視線の先に浮かぶ船の上は、嵐の前のように慌ただしい。
孫九郎たちを乗せてきた清水九兵衛の船が、威勢の良い掛け声とともに帆の向きを変えた。
こちらは商船に近いつくりの船だ。櫓の数は少なく、姿もほっそりとしている。
そのほかの船は腹がどっしりと重そうな、重心が低めの船で、切り回しがしやすそうだ。
これまでは神島の西側にいた船が、一斉に動き始めた。
ゆっくりな動きではない。
海戦には詳しくないが、きっと旗などで意思伝達をしているのだろう。
見事な連動を見せるのは興津水軍。
その後に続くのは三河衆。
青空を背に、波をかき分けて走る船団の姿は、壮大な物語の一場面のようだった。
この時代には、まだ鉄砲はない。だが、焙烙玉はある。
遠くから狙うのではない。近くまで寄せ、投げ込むのだという。
つまり、遠距離攻撃が主ではなく、近接で殴り合いをするのがこの時代の海戦なのだ。
そのためには、操舵技術が重要になってくる。船を敵に寄せなければならないからだ。
あっという間に、孫九郎の視界から、あれだけたくさんあった船が消えた。
湊は北向きにあるので、島の南に回られると見えなくなる。
孫九郎は激しく脈打つ鼓動をなだめ、息を吐いた。
負けはしないだろう。それだけの支度をした。
だが、何事にも絶対はない。
戦況の分かる高台に向かうべきだろうか。
孫九郎は一瞬、どちらに足を向けるべきか迷った。
島の東側に向かえば、志摩方面が見えるだろう。
山の上のほうに、見晴らしがいい場所があるかもしれない。
「御屋形様!」
弾むような少女の声がした。
周囲のあちらこちらから、息を飲む音がする。
上り坂の参道の上、鳥居の先に彼女はいた。
こちらに向かって手を振っている小柄な少女。明るい色の着物を着て、ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねている。
鈴。鈴だ。
容姿までは見えないが、遠くにあっても彼女だとはっきりわかった。
元気そうだ。怪我をしている様子もない。
それはつまり、愛姫様や万千代君の無事を示唆している。
……間に合ったのだ。そうわかった瞬間、鼻の奥がツンと痛んだ。
十年近く会っていなかった少女は、記憶の中にあるよりずっと大きくなっていた。
相変わらずのそばかすと、邪気のない満面の笑みが、ひどく懐かしかった。
近づくまでは弾むような足取りだった鈴は、少し離れた位置で立ち止まり、片膝をついた。ニコニコ笑顔を無理やりに真顔にして、ひょこりと頭を下げる。
そんなことはしなくていいのに。
そう言いそうになって、言葉を飲みこんだ。
「頭が、社のほうにおいで下さいとのことです」
弥太郎のことだろう。お二方の体調を診てくれているのだろうか。
孫九郎は頷いた。
「案内を」
「はいっ!」
鈴は元気よくそう言って、立ち上がった。
向かい合い、きっと同時に思ったのが背丈の事だが、お互い様なので何も言わず笑顔を交わす。
「久しいな」
「はいっ!」
「息災だったか」
「はいっ!」
繰り返される元気な返事と満面の笑みが、心の奥で軋んでいたものをわずかにほぐした。
この子がこんなにも嬉しそうにしているのだから、きっと大丈夫だ。
孫九郎はそこで安心してしまった。
鈴の大丈夫と、公家の姫君の大丈夫が、どれほど乖離しているかなど考えもしなかった。
明るい昼間でも、庇の長い社の中は薄暗い。
孫九郎が案内された部屋には、寝床があって、枕元に寒月様が座っているのが見えた。
その奥に弥太郎。そして……
孫九郎が室内に入った瞬間、さっと顔を背けたのが、愛姫だとはすぐにはわからなかった。
命からがら逃げ切った直後で、この場所に着替えなどはないのだから、当たり前のことだ。
孫九郎の頭の中には、美しい装束を身にまとった一条家の姫君のイメージがあったので、擦り切れた地味な小袖に袴姿の姫の姿に、衝撃を受けてしまった。
しかも顔には布が当てられ、短い髪が無造作にひとくくりにされている。
とても、摂家の姫君とは思えないお姿だ。
「姫」
孫九郎は、込み上げてくる怒りを飲み込み穏やかに微笑んだ。
「ご無事で本当に良かった」
「……はい」
返事は聞き取れないほどに小さい。
孫九郎は、元気者だった姫君のしおれたお姿に胸を突かれたが、それを彼女に察してほしくはなかった。
「もう何も心配なさることはございませぬ」
背けられた肩が、わずかに震えた。
「……っ」
泣いているのだと、気づいた時にはひどく狼狽した。
「お勝」
寒月様が口を開いた。
「愚息は土佐におるそうや」
「中納言様が?」
孫九郎は首を傾けた。今の時期にかの御方が土佐に下向していたというのは意外だった。
「御所で火事があった後、万千代ではなく側室の子を嫡子にすると朝廷に届けがあったそうや」
「……そのようなことができるのですか?」
「大内家の娘の子だ。務まらないという者はおらぬやろう」
非常にきな臭いその状況に、孫九郎は渋い顔をした。
愛姫と万千代君が土佐に向かおうとした理由がわかった。
中納言さまの真意を聞きに行こうとしたのだろう。
届け出が有効になる期日のようなものもあったのかもしれない。
「ですが万千代君は」
孫九郎はそっと、臥所で眠っている赤い顔の子供に目を向けた。
線が細い子だ。身体も丈夫ではないのかもしれない。だが、お母上の血筋は宮家とのことだから、おいそれと退けることはできないはずだ。
「中納言様は、ご無事なのでしょうか」
あのお方が、土佐からの書簡ひとつで嫡子を挿げ替えようとするだろうか。
孫九郎のそんな不用意なひと言に、愛姫の唇から再び震えるような嗚咽がこぼれた。




