第285話 社畜と勇者伝説の痕跡
ドラゴンステーキをクロと一緒に堪能したあとは、ふたたび険しい山道を進んでゆく。
ギルドで支給された地図によれば、このあと山道は高度を上げ、尾根筋に出るらしい。
そういえば、少し前から周囲に霧が立ち込めるようになった。
おそらく雲の中に入ったのだろう。
すでに谷底は白い闇に覆われ見えなくなっていた。
「…………」
それにしても、湿度が高い。
岩肌が濡れているところが多くなったし、ところどころ流れ落ちる水で小川ができている。
それよりなにより、じっとりとした汗がいつまでたっても乾かない。
クロは無言だったが、額に汗を浮かべ、煩わしそうにパタパタと襟元を動かし風を送っている。
「……暑いな」
「この湿度は不快だ。ここで狼姿には戻りたくないな」
「確かに、あの毛量だとなぁ」
などと言いながらも、この湿度でもっさもさになったクロの巨狼姿を想像し、思わず口元が緩んでしまう。
正直その姿は絶対に可愛いと思うのだが……本人(狼?)にしてみたら堪ったものではないだろう。
そういえば、彼女はまだ日本の夏を――あの灼熱の世界を体験していないな、とふと気づいた。
「クロ、人の姿を維持できるようになってよかったな」
「……? そうだな?」
俺の言葉に込められた意図を知る由もないクロが、小首を傾げた。
◇
霧で濡れた砂利道や岩肌の上を、足を滑らせないように慎重に歩いてゆく。
ところどころ崩落した道を迂回せざるをえない場面もあったが、俺もクロも通常の人間の身体能力ではない。
もとより異世界では軽く跳躍しただけで2メートル近くは飛べてしまう。
ここまでずっと危険な道を進んできたせいで恐怖感が良い感じに麻痺していたのもあって、ちょっとした崩落個所ならすでにアスレチック感覚で乗り越えられるようになっていた。
山道は谷筋から逸れると、急に険しくなった。
時には岩肌にしがみつくようにして、あるいは崖に生えた木の根を掴んで身体を引き上げたりして、どんどんと高度を上げてゆく。
すでに馬にはとても登れないような道が現れていた。
もしかしたら往時は迂回路があったのかもしれないが、今進んでいる道は、行商人でも通行が難しいほど険しくなっている。
そして、そんな急峻な道を登ること数十分。
突然霧が晴れ、周囲の光景が一変した。
真っ青な空が頭上に現れ、視界を遮るものがほとんどなくなった。
俺は目に差し込む強い陽光に目を眇めつつ、周囲を見渡した。
荒涼とした尾根が、前方にうねうねと伸びている。
その様子は、岩の波濤か巨大な龍の背中を思わせた。
「おお、クロ見てみろ。下に雲海が見えるぞ」
「うんかい?」
「雲の海、だ。俺たち、雲より高い場所に出たんだ」
「おお……」
後ろを歩いていたクロはその場で立ち止まると、目を見開いた。
ぽかんと口を開き、そのまま遠くを見つめている。
しばらく彼女はそうしていたが、やがて我に返ったようだ。
「すごいぞ主よ。雲が遥か下に見える」
「ああ、すごいよな」
キラキラした目でそう訴えるクロに俺もそう頷き返す。
俺たちの立つ岩場の100メートルほど下が、見渡す限り真っ白な雲に覆われている。
吹き付ける風は乾いていて、高地特有の冷涼な匂いを含んでいた。
そいつを胸いっぱいに吸い込み、それからゆっくりと吐き出した。
身体の隅々に心地よい達成感がしみわたってゆく。
俺たちは絶景を前にしばらく立ち尽くしていたが、やがて我に返った。
この尾根を数キロほど進み、そこから少し降り雲の下に出れば、そこから『霧の樹海』の全景が見渡せるはずだ。
「……さ、あともう少しだ」
尾根に続く道をさらに進むと、荒涼とした岩場の横に、突如小さな池と小さな森が現れた。
尾根筋から少し外れた斜面の途中で、ちょうど窪地になった場所に雨水や雪解け水が溜まってできたものだろう。
池はきれいな円形で、幅は30メートルほど。
水は澄んでいて浅く、尾根から見下ろすと底が見えるほど透明度が高い。
森は鬱蒼としているが規模は小さく、せいぜい幅も奥行きも数十メートルほど。
それが池のほとりの3分の1程度を覆っている。
「なんだか、見たことのある光景だなぁ」
ふと立ち止まり、呟いた。
その森の様子が何となく気になった。
周囲は荒涼とした岩場ばかりが広がっている。
おそらくこの尾根は森林限界を超えている。
だというのに、こんな生い茂った森があるものなのか。
それに、妙な既視感がある。
例えるならば、神社の境内のような静謐な雰囲気だ。
「クロ、ちょっとあそこで休憩しないか」
言って、俺は斜面をおりてゆく。
クロは『うむ』と頷き、俺のあとをついてきた。
池のほとりの森の中に入ると、はたしてその中心には小さな祠が建っていた。
古くて崩れかけた、岩を積み上げただけの簡素な祠だ。
祠の岩には古代語と思しき文字が刻まれていた。
『鑑定』の結果、ここは古代山岳信仰の神様……というか精霊が祀られていたものだと分かった。
精霊の名前は『トリモ=ク』というらしい。
とても気まぐれで、嫌いな人間が近づくと霧で道に迷わせたり雷を起こして追い払うのだとか。
けれども精霊が気に入った者には加護を与えたり、時には小動物の姿を借りて歓迎することもあるらしい。
だとすれば、俺たちはその精霊様に呼ばれたのだろうか。
もっとも、肝心のご神体はすでになかった。
空っぽになった祠の中に、木屑や枯れ枝、それに落ち葉などが溜まっているだけだ。
「……ん?」
それともうひとつ。
その祠の横に、朽ちかけた護符が落ちていた。
いや、正確にはお供えしてあったものが風雨にさらされて転がり落ちたのだろう。
それがどうにも気になって、俺は拾い上げた。
金属の枠にはめ込まれた、手のひらサイズの木板だ。
そこに書かれた文字に、俺は釘付けになった。
『魔王討伐が成功して、皆で無事帰還できますように 駒田ユウ』
「む……これは主の世界の言葉ではないか」
クロが俺の手元を覗き込んで、驚いたようにそう呟く。
「ああ、そうだ。日本語だ。これは……絵馬だ」
勇者の伝説では、彼の名前までは伝えられていなかった。
もしかしたら伝わっていたのかもしれないが、俺が聞いた話には、彼の名前は出てこなかった気がする。
ただ、別の世界から召喚された、とだけ聞かされていた。
まあ、一般人の感覚なんてそんなものだとは思うが。
だが、魔王を討伐するヤツが勇者でなくて何だというのか。
……では、彼のお供として、前世の美祢ちゃんは魔王討伐に向かったのだろうか。
残念ながら、この絵馬には彼女らしき名前は書かれていない。
だが、『皆』というのならば駒田君1人で討伐に向かったわけではないだろう。
俺はこの『絵馬』を持ち返るかどうか逡巡したあげく、結局もとに戻すことにした。
なんとなく、これはここでそっとしておいた方がいいと思ったのだ。
その代わりに、持ってきたスマホで『絵馬』と祠の写真を撮って保存した。
――『鑑定』先生は、『かつての勇者が願いを綴ったタリスマン』とだけ教えてくれた。
「……やっぱり呼ばれたのかな」
そう呟いて、空っぽの祠を見つめた。
ただ祠が俺の疑問に答えるはずもない。
ただ、森の間を、冷たい風が吹き抜けただけだ。
そのときだった。
――ちゃぽん。
森の外で水の跳ねる音がした。
思わず音のした方を見る。
風に揺れる木々の向こう側、池の中心部分が小さな波紋を描いているのが見えた。
こんな場所に、魚……?
「主よ、何を固まっておる」
「あ、ああ」
クロに肩を叩かれて、我に返る。
「どうしたのだ? 何か池にいるのか?」
「……この池、魚っているのかな」
「そんなわけがないだろう。我の目は、池に魚影があれば見逃さない」
「……だよな」
おそらく、突風で水面に波が立っただけだろう。
たぶん、そうだ。
気が付けば、森に差し込む陽光がわずかに橙へと変化していた。
できれば今日中に山を抜け、『霧の樹海』を確認しておきたかった。
日が暮れれば、それも難しくなる。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「うむ。それで、主よ。今日の夕食は何にするのだ? 目的を果たしたら一度日本に戻るのだろう」
クロはいつも変わらないな……!
まあ、そこがいいんだが。
「……そうだな」
俺は少しだけ考えてから、言った。
「今日は魚じゃなく……肉の気分だ」




