第6話
冷え切った朝の空気が、肌をちくちくと刺していた。
砦の北側外郭、日陰になった崖下に佇む水車小屋は、何年も放置されていたためか、湿った土と腐葉土の匂いに包まれている。見上げるほど巨大な木組みの水車輪は、緑色の苔に厚く覆われ、長い眠りについた獣のように静まり返っていた。
「……まずは、崖上から水を落とす導水樋の確認ですね」
私が作業着の袖をまくり、小屋の壁面に立てかけられた木製の梯子に足を掛けた時だった。背後から伸びてきた無骨で厚みのある手が、梯子の支柱を両脇から力強く挟み込んだ。
振り返ると、ハロルド様が鋭い双眸で私を見上げていた。手甲越しにも伝わる力強さで、ぐらつく梯子を地面へと縫い留めている。
「俺が支える。お前が落ちれば、砦の希望が消える」
「あ、ありがとうございます……でも、団長様自らそのような雑務をされなくても……」
「雑務ではない。お前の安全を確保することは、今のこの砦において最優先の軍務だ」
有無を言わせぬ低い声に、私は首筋を赤く染めながら梯子を登った。足元が驚くほど安定しているのは、下で支えてくれている彼の力のおかげだった。
水車輪の真上、高さ三丈ほどの位置に掛けられた木製の樋に手を伸ばす。手のひらで木肌を叩き、指先で継ぎ目をなぞると、乾いた音ではなく、湿った鈍い感触が返ってきた。
「グンターさん! 崖上からの本樋、松の板材が湿気で芯まで腐っています! 継ぎ目の留め釘も錆びて脱落していて、このまま水を流せば、水車に届く前に途中で底が抜けて漏水します!」
下で腕組みをして見上げていた工兵長が、太い眉を跳ね上げて野太い声を張り上げた。
「チッ、やっぱり樋からお釈迦かい! 野郎ども、聞いたな! 資材庫から予備の厚板と防水粘土、それと樫のクサビをありったけ担いできな! 技師長の指示通りに全部すげ替えるぞ!」
集まっていた屈強な工兵たちが、気合の入った掛け声を上げて一斉に動き出した。井戸の復旧を経て、彼らの瞳には迷いが一切なかった。
陽が高くなり始めた頃、補修作業は熱を帯びていた。
崖の岩肌に沿って伸びる導水樋に足場を組み、工兵たちと並んで木材の補強に取りかかる。古代暗渠から試験的に逃がした少量の水が樋の底を舐めるように流れており、跳ね返った泥水が作業着と頬を容赦なく濡らした。
「ここ、三寸の継ぎ木を当てます! クサビを斜め四十五度で打ち込んで、隙間には麻布を噛ませた防水粘土を押し込んでください!」
「応よっ! おい、そっちの端をしっかり押さえてろ!」
工兵たちの槌音が谷間にリズミカルに響き渡る。私も泥にまみれた麻布を指先で樋の割れ目に詰め、粘土を掌でしっかりと押し均していった。泥が爪の間に入り込み、指先がかじかんでいくが、水の通り道が塞がれていく感覚は何物にも代えがたい。
最後の一角を締め直そうと、少し身を乗り出した瞬間だった。濡れた足場の板が微かに軋み、靴底が外側へ滑った。
「あっ――」
支えを失いかけた身体が、宙へ浮きかける。
だが、落ちる隙など最初からなかった。下からすさまじい速度で駆け上がってきた剛腕が、私の腰を抱きすくめるようにして、確固たる力で引き寄せたのだ。
「……無茶をするな」
耳元に落ちてきたのは、焦燥を含んだハロルド様の硬い息遣いだった。彼の頑強な胸板に押し当てられた額から、革鎧の冷たい感触と、その奥にある熱い体温が伝わってくる。
「す、すみません……! 油断いたしました……」
「謝るな。怪我はないか」
「はい、どこも……団長様が受け止めてくださったので」
私が息を整えて答えると、彼は僅かに安堵の息を吐き、足場が安全な位置に戻るまで決してその腕を緩めようとはしなかった。
「よし……! 技師長、樋の補強、全部終わったぜ! 古代水路の弁を全開にしていいか!」
上流から工兵の叫び声が響く。私はハロルド様の腕からそっと身を離し、一つ頷いた。
「お願いします! 通水してください!」
轟という地鳴りのような水音が崖上から迫ってきた。澄んだ奔流が、新しく補強された木樋を一気に駆け下りてくる。継ぎ目からは一滴の水も漏れず、美しい放物線を描いて巨大な水車の頂部へと勢いよく注ぎ込まれた。
「おおっ! 水が届いたぞ!」工兵たちが歓声を上げる。
だが――。
大量の水が落下の衝撃とともに水車の羽板を叩きつけているにもかかわらず、水車輪はピクリとも回らなかった。ギリッ、ギギギ……と、心臓を抉るような不気味な軋み音が、木組みの深部から響いてくるだけだ。
「な、なんだ……!? これだけの水勢があんのに、びくともしねえぞ!」
グンターさんが慌てて駆け寄る。私は水車の根元へと走り寄り、主軸の覆い木を外して内部を覗き込んだ。そして、息を呑んだ。
「そんな……心棒が……」
水車を支える直径三尺もの大木――その中心部が、長年の湿気で完全にスカスカの黒い土のようになっていた。外皮のわずかな部分だけで辛うじて形を保っている状態であり、回転の負荷に耐えられる強度はどこにも残っていなかったのだ。
水流を止めさせ、私は呆然と冷え切った自分の指先を見つめた。樋を直せば回ると信じていた。だが、本当の難所は、この砦の何十年もの歴史そのものが腐り落ちていたことだった。
震える私の両手を、不意に大きな温もりが包み込んだ。ハロルド様が、泥と氷のような水で凍りついた私の手を、彼の手のひらで包み込み、ゆっくりと擦り合わせていた。
「手が冷え切っている。まずは火に当たれ」
「で、でも……心棒がこれでは、兵士の皆さんに粉を挽くことが……」
「焦るな。お前がここまで水を導いてくれた。道は見えている」
感情を表に出さないその瞳の奥に、揺るぎない熱が宿っていた。私の荒れた指先を包む彼の体温が、萎えかけた心にじんわりと染み込んでいく。
◆ーーーー◆
同じ頃、王都の貴族街外縁に位置する巨大な製粉給水施設では、濁った沈黙が支配していた。
普段であれば数十基の魔導水車が轟音を立てて回転し、王都中のパン屋へ運ばれる純白の小麦粉を挽いているはずの場所だった。だが今、水路の水位は干からびた小川のように下がり、巨大な水車群は完全に沈黙している。
「……どういうことだ、ウルリヒ」
金糸の刺繍が施された礼装の裾を汚泥がつかないよう引き上げながら、セドリックは眉間を激しく吊り上げていた。手入れの行き届いた金髪の下で、端正な顔立ちが苛立ちに歪んでいる。
水道局の老棟梁、ウルリヒは深く腰を曲げ、沈砂池の底を指差した。
「申し訳ございません、セドリック様。上流の沈砂池に、これだけの土砂が堆積しております。以前は……ブランシェ家のミレーユ様が、週に一度は暗渠に入られ、水の流れを読みながら人手を割いて泥を掻き出しておられました。その定期的な手入れが途絶えたため、水路の底に砂利が詰まり、水車へ送る水量が激減しているのです」
「下民の言い訳は聞き飽きた!」
セドリックは履き慣れた革靴で石畳を苛立たしげに踏み鳴らした。
「泥を掻き出すなどという泥臭い手作業に頼っていたから、そのような前時代的な停滞が起きるのだ! あのような泥いじりしか能のない女の手など借りずとも、我が魔導技術の粋を集めれば全て解決する!」
「しかし、セドリック様! 土砂が詰まったまま無理に水を引き込もうとすれば、配管の継ぎ目に尋常でない負荷が――」
「黙れ! 貴様ら現場の能無しが作業を怠るから水が止まるのだ! 魔導技師たちを呼べ! 新式の魔導増圧ポンプを起動し、出力を最大にするのだ! 水路の泥ごと、魔力の圧力で一気に押し流してしまえば済む話だ!」
ウルリヒの顔から血の気が引いた。職人たちの悲鳴のような視線を背に、豪奢な杖を構えた魔導士たちが、青白い魔力光をポンプへと注ぎ込む。
グオオオオオオン――!
耳を劈くような高周波の駆動音が響き渡り、魔導ポンプが過負荷の火花を散らしながら激しく回転を始めた。だが、吸い上げられたのは僅かな汚泥混じりの水だけで、金属の羽根車は甲高い摩擦音を立てて空回りするばかりだった。
ドズン……ゴゴゴゴ……。
やがて、石畳の遥か深部から、配管が軋み悲鳴を上げるような不気味な管鳴りが響いてきた。魔導の強引な圧力は土砂を抜くことなく、見えない地中の石組み水道管を内側から押し広げ、決定的な亀裂を刻みつけていた。
「なぜだ……! これほどの魔導圧を加えても、水車が回らないというのか!?」
叫ぶセドリックの足元で、舗装の隙間からシューという蒸気のような異音が微かに漏れ始めていた。
◆ーーーー◆
夕暮れが砦を茜色に染める頃、私は旧水車小屋の片隅に置かれた粗末な作業机に向かっていた。
羊皮紙の上に木炭を走らせ、激しく腐朽した水車の心棒の構造図を書き殴る。指先にはまだ微かに黒い泥が残っていたが、それを気にする暇はなかった。
「……普通の補修じゃ無理だ。軸が完全に死んでいる」
図面を覗き込んだグンターさんが、腕を組みながら重々しく唸った。
「ああ。これだけの巨木を森から切り出して、丸ごと削り直して心棒にするにゃ、何ヶ月かかるか分からねえ。だが、それまで兵士たちに硬い穀物を噛ませ続けるわけにもいかねえしな……」
「いえ、丸太を丸ごと交換する必要はありません」
私は木炭を置き、図面の中央を指差した。
「心棒の腐った中心部を綺麗に削り落とし、砦の貯木場にある頑丈な堅木を、複数の部材に分割して組み合わせます。金属の釘は錆びて木を腐らせる原因になりますから一切使いません。木と木に凹凸を彫り込み、互いに噛み合わせることで水圧を分散させる『釘なし継手』を用います」
グンターさんの目が丸くなった。職人としての直感が、その提案の突拍子のなさと、恐るべき合理性を瞬時に理解したようだった。
「……継手だと? おいおい、水車の回転軸にかかる負荷は半端じゃねえぞ。寸分の狂いもなく木を組まなきゃ、水流を受けた瞬間にバラバラに弾け飛ぶぞ」
「ええ。だからこそ、私がすべての墨付けを行います。砦の皆さんの手をお借りできれば、絶対に頑丈な軸を組み上げられます」
私が顔を上げると、グンターさんは呆れたように、けれど獰猛な笑みを浮かべて太い首を鳴らした。
「上等だ! 資材庫の樫と楢の古材、一番締まったやつを俺が見繕ってきてやるよ!」
工兵長が小屋を飛び出していくのと入れ違いに、背後の扉が静かに開いた。
冷え込む小屋の中に、香草の温かい香りが漂う。振り返ると、ハロルド様が湯気を立てる木椀を携え、もう片方の腕に厚手の羊毛毛布を抱えて立っていた。
「根を詰めるなと言っても、聞く気はないようだな」
「あ……申し訳ありません、団長様。図面を引いておかないと、明日の作業が進みませんから」
ハロルド様は静かに歩み寄ると、私の肩にふわりと毛布を掛けた。ずっしりとした温もりが、冷えた身体を包み込む。そして、私の泥で汚れた指先の横に、木椀をそっと置いた。
「熱いうちに飲め。マルタが作った滋養の茶だ」
「いただきます……」
木椀を両手で包み、一口含む。香草の爽やかな苦味と蜂蜜の甘さが、疲れた喉をじんわりと潤していった。
ハロルド様は私の机の前に立ち、炭で黒々と引かれた図面をじっと見つめていた。
「お前がこの砦に来てから、兵士たちの顔つきが変わった。水が出たことだけではない。お前が泥にまみれ、額に汗して砦の明日を拓こうとする姿に、全員が救われているのだ」
「私など……ただ、目の前にある壊れたものを放っておけないだけの、不器用な職人にすぎません」
「その不器用さが、どれほど尊いか」
彼は短くそう告げると、私の汚れた手元を一瞬だけ愛おしげに見つめ、それ以上は何も言わずに小屋の出口へと向かった。扉を開ける直前、彼は背中越しに静かな言葉を落とした。
「明日、俺も作業に出る。お前の描く線の通りに、木を削らせてくれ」
扉が閉まり、小屋には再び静寂が戻った。
手元の椀から立ち上る湯気を見つめながら、私は毛布をぎゅっと引き寄せた。導水樋は直り、水は届いた。けれど、水車を支える心棒の全面改修という難工事は、砦の職人たち総出であっても、一歩間違えれば大事故に繋がりかねない危険を孕んでいる。
窓の外を見上げると、夜の帳が下りた谷間に、巨大な水車の黒い影が聳え立っていた。
動かなくなった巨木は、果たして明日、再び命を宿して回ってくれるのだろうか。暗闇の奥で静まり返る巨大な車輪を見つめながら、私は冷たい風の音に耳を澄ませていた。




