第5話
崩落した石壁の亀裂から吹き込む風は、地下特有の淀んだものではなかった。どこか遠い外気を含んだ湿り気と、微かな冷涼さを帯びている。
私は松明を高く掲げ、身を乗り出してその裂け目の奥を覗き込んだ。炎の揺らめきが照らし出したのは、荒削りな岩肌ではない。人工の切石ではない自然石が、隙間なく組み合わされた見事なアーチ構造だった。
「……待て。不用意に近づくな」
背後から伸びてきたたくましい腕が、私の肩をしっかりと引き戻した。ハロルド様だ。その厳格な横顔は緊張に強張っており、濡れた前髪の隙間から覗く双眸が暗渠の奥を警戒するように見据えている。
「二次崩落の恐れがある。この奥が空洞なら、地盤全体が抜ける危険もある」
「いえ、ハロルド様。崩れることはありません」
私は肩にかかる彼の大きな手の重みを感じながら、そっと首を横に振った。指先を伸ばし、アーチの頂点に嵌め込まれた楔石――要石を指し示す。
「見てください。この組み方は現在の王都の工法よりも遥かに古い、古代のアーチ石組みです。天井にかかる荷重をすべて側壁の岩盤へ逃がす構造になっています。むしろ、この暗渠が水圧の抜け道になっていたからこそ、これほどの水圧でも貯水槽の底が完全に抜けずに済んだのです」
「古代の、暗渠だと……?」
追いついてきたグンターさんが、松明を翳しながら目を丸くして身を乗り出した。無骨な指先で継ぎ目の漆喰を擦り、しきりに唸り声を漏らす。
「おいおい、冗談だろ……目地に一切の隙間がねえ。現代の石工じゃこんな真似はできねえぞ。それにこの勾配、外へ向かって緩やかに落ちてやがる。ただの抜け穴じゃねえ、放水路だ」
「はい。貯水槽の水位が限界を超えた際、余剰な水圧を安全に砦の外へと逃がすための放水バイパスです。この先を辿れば、必ず地上側の排水口に繋がっているはずです」
私が確信を込めて告げると、工兵たちの間に張り詰めていた重苦しい空気が、潮が引くように解けていった。未知の崩落への怯えは消え、先人たちの遺した精緻な構造に対する安堵と敬意が、男たちの粗い息遣いに混ざり合っていく。
「……生き延びた、のか。俺たちは」
工兵たちが次々と道具をまとめ、地上を目指して階段へと歩き出した。
地下から地上へと続く階段を上り、中庭へと出た瞬間、白み始めた朝の光が視界を刺した。
未明までの張り詰めた闇は払われ、空は薄青から茜色へと静かに移ろっている。冷たく澄んだ朝の大気の中、砦の中央広場には、夜通しの作業と不安に耐えていた兵士たちが密集していた。
広場の中央、地下の貯水槽から導かれた給水所から、滾々と清冽な水が溢れ出していた。
木組みの釣瓶が軋みながら引き上げられるたびに、朝日を浴びて水晶のように輝く飛沫が飛び散る。並んだ木樽へと注ぎ込まれる水音は、絶望の淵にあった砦に響く何より力強い鼓動だった。
「水だ……! 本当に、澄んだ水が湧き続けてるぞ!」
「飲める! 泥臭さの欠片もねえ、冷たくて美味い水だ!」
誰かが掲げた鉄の盃を皮切りに、広場を揺るがすようなどよめきが轟いた。汲みたての水を浴びるように喉へ流し込み、互いの肩を叩き合って叫ぶ者、地面にへたり込んで涙を流す者。その歓喜の波が、地下から這い出してきたばかりの私と工兵たちを捉えた。
「おい、あの方だ!」
「地下の崩落を止めて、水を蘇らせてくださったんだ!」
「砦の聖女様だ! 聖女様万歳!」
怒号のような歓声が一斉に私へと注がれる。数え切れないほどの兵士たちが一斉に膝を突き、あるいは両手を掲げて私を称え始めた。その熱気に気圧され、私は思わず半歩後ずさった。
(せ、聖女様……!?)
今の私の姿といえば、作業用の粗末な服は泥と冷水でぐっしょりと濡れそぼり、髪は乱れ、爪の先まで黒い泥炭で汚れている。王都の夜会であれば、貴族たちから眉をひそめられ、汚らわしいものを見る目で追いやられるような身なりだ。
「あ、あの、私はただ、石を積んで泥を掻き出しただけで……っ」
弁解しようと手を振ったが、顔に上った熱のせいで言葉がうまくまとまらない。居たたまれなさに縮こまりそうになったその時、どっしりとした体躯が私の前に立ちふさがった。
「まったくもう! 男どもはどいつもこいつも騒ぎ立てるんじゃないよ! この子が凍えちまってるのが見えないのかい!」
怒声を響かせて割って入ってきたのは、エプロン姿のマルタさんだった。厨房の主である彼女は、気圧される兵士たちを一喝して掻き分けると、泥だらけの私をその大きな胸の中にぎゅっと抱きしめた。
「よく頑張ったねえ、本当によくやってくれたよ……」
耳元で囁かれた震える声と、温かな体温。マルタさんの手には、湯気を立てる木椀が握られていた。
「ほら、熱い麦湯だよ。泥だらけになって、こんな冷たい水に浸かって……風邪でも引いたらどうするんだい。あんたはあたしたちの命の恩人なんだからね」
「マルタさん……ありがとうございます。冷え切っていたので、本当に助かります」
差し出された木椀を両手で受け取ると、じんわりとした温もりが悴んだ指先から全身へと染み渡っていく。ただ道具を直し、水の通り道を均しただけなのに。王都では「泥いじり」と唾棄された手仕事が、ここでは誰かの命を繋ぎ、こうして温かな涙で報われている。
胸の奥が熱く締め付けられ、私は俯いて麦湯を一口啜った。香ばしい穀物の香りが、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていった。
朝日が完全に昇り、砦が新たな活気に包まれる中、私は司令執務室へと通されていた。
泥だらけの作業着から着替え、水で顔と手を洗い流したものの、爪の間や指の節々にはどうしても落としきれなかった土の色が微かに残っている。皮が剥けた掌を膝の上で隠すように握りしめていると、重厚な扉が開き、正装をまとったハロルド様が入ってきた。
甲冑を解き、黒の軍服に身を包んだ彼の佇まいは、最前線を束ねる指揮官としての威厳に満ちている。だが、その瞳に宿る光はどこまでも静かで、私を射すくめるように真っ直ぐだった。
彼は机の上に一枚の羊皮紙を置いた。そこには、砦の公印とともに、私の名が記されていた。
「ミレーユ。これは全軍の名において発行した、お前を当砦の専任土木技師長に任命する任官状だ」
「技師長、ですか……? 私のような、追放された身の者が……」
「王都の処分など関係ない。この砦で兵を生かしたのはお前の確かな技術だ」
ハロルド様は私の言葉を低く遮ると、机を回り込み、私の前に片膝をついた。突然のことに息を呑む私を見上げ、彼はためらうことなく、私の膝の上に置かれていた両手を取り上げた。
傷だらけで、泥の落ちきっていない私の手を、彼の武骨で熱い手のひらが包み込む。
「お前が泥を厭わず、冷水に飛び込んでくれなければ、今朝この砦は崩壊し、部下も俺も全滅していた。お前の手仕事が、数百の兵の命を救ったのだ」
「ですが、私の手は……淑女の掌ではありません。こんなにも荒れて、泥が染み付いて……」
王都でセドリック様から投げつけられた侮蔑の言葉が、呪いのように脳裏をかすめる。だが、ハロルド様は私の手を握る力を緩めず、むしろ慈しむように親指で私の甲を優しく撫でた。
「二度と誰にも泥などと蔑ませない。俺のすべてを懸けてお前を守る」
迷いのない、鋼のように堅い声音だった。
「お前が誇りを持ってその手で道を切り開くなら、俺はその背中を全軍の剣となって支えよう。お前の尊厳も、居場所も、何者にも脅かさせはしない」
その言葉が、胸の奥深くに突き刺さった。爪に土が入っていると嘲笑われ、家族からも見捨てられ、ただ冷たい暗渠の底だけが私の居場所だった。そんな私の手仕事を、この人は汚れではなく、誇りとして認めてくれたのだ。
視界が滲み、温かい雫が私の頬を伝って、ハロルド様の手の甲へと落ちた。
「……ありがとうございます、ハロルド様。私、この砦のために……私の持てる技術のすべてを尽くします」
私が声を絞り出すと、ハロルド様は安堵したようにわずかに目元を緩め、立ち上がった。
「日当たりの良い上等な私室を用意させた。専任の護衛もつける。だが、まずは身体を休めてくれ……と言いたいところなのだがな」
苦笑を浮かべたハロルド様が視線を向けた扉の向こうから、慌ただしい足音が響いてきた。
「技師長殿ーっ! 団長ーっ! 大変っす、ちょっと来てください!」
勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、伝令兵のバスティアンだった。息を切らしながらもその表情は極めて明るく、興奮を隠しきれない様子で身振りを交える。
「古代水路の出口、見つかりましたぜ! 北側の外郭、涸れ水路の崖下にドバドバと水が抜け始めてるんすけど、その先に……とんでもねえもんが埋もれてやがったんです!」
私たちは顔を見合わせ、バスティアンの案内に従って砦の北側外郭へと向かった。
切り立った断崖に沿って伸びる涸れ水路の底へ降りると、冷たい風とともに湿った木材の匂いが漂ってきた。古代暗渠から吐き出された澄んだ水が、岩肌を滑り落ちて自然の小川のように流れている。そしてその水流の先に、巨大な影が聳え立っていた。
「……これは、すごいわ」
私は思わず感嘆の声を漏らし、駆け寄った。
崖下に佇んでいたのは、長年の風雨に晒されて苔むし、半ば蔦に覆われた規格外の巨大水車だった。直径は優に建物の三階分に匹敵する。分厚い樫の木組みで作られた巨体は、外周に複雑な水受け板を備え、中心部には頑強な木の心棒が通されていた。
「昔、この砦が築かれた当初に使われていた粉挽き水車だ」
背後から追いついてきたハロルド様が、水車を見上げながら低く呟いた。
「だが、水路の枯渇とともに稼働を止め、もう数十年も放置されている。今や砦の兵士たちに配給される糧秣は、硬いままの未加工の穀物ばかりだ。噛み砕くのにも一苦労し、胃を痛める者も多い」
ハロルド様は苦渋に満ちた視線を水車から私へと向けた。
「水が出た今、この粉挽き水車を再稼働させることができれば、兵士たちに挽きたての粉で焼いた温かいパンを腹一杯食わせてやれる。だが……見ろ、ミレーユ」
言われて目を凝らすと、私の技術者としての目が、構造物の危険信号を即座に捉えた。
水車を支える主軸の根元は、長年の湿気で激しく腐朽し、黒ずんだ木肌に無数の亀裂が走っている。上部から水を導く木樋もあちこちが朽ち落ち、いま無理に水流を当てれば、水車の自重と水圧に耐えきれず、轟音とともに主軸ごとへし折れて倒壊しかねない。
水を取り戻しただけでは、兵士たちの真の飢えと疲弊は救えない。だが、この巨大な構造物を修繕するには、並大抵の補修では到底追いつかない難工事になるはずだ。
「……動かせそうか?」
ハロルド様の問いかけに、私は腐りかけた巨木の軸にそっと手を触れた。木肌の冷たさと脆い感触の奥に、かつてこの砦を支えていた強大な構造の息吹が、微かに眠っているのを感じながら。




