第4話
一段また一段と石段を駆け下りるたびに、足の裏から伝わる震動が肌を粟立たせた。湿り気を帯びた地下の冷気が、ランプの炎を激しく揺らしている。
「ミレーユ、下がっていろ。基礎が抜ければ、この地下通路ごと押し潰されるぞ」
先行するハロルド様が、大剣の鞘を手で押さえながら低く唸るように言った。しかし、私は首を横に振り、乱れかける足元を必死に踏みしめて彼の背を追った。
「手遅れになります! この音は、石と石の噛み合わせが水圧に耐えかねて擦れ合っている音です。崩落が始まってからでは、どんな手を打っても止められません!」
最下層の鉄扉を押し開けた瞬間、ごうごうと逆巻く水音とともに、飛沫が霧となって顔を叩いた。
砦の地下大貯水槽――かつて数千の兵の喉を潤すために築かれたという巨大な地下空洞は、いまや異様な濁流の坩堝と化していた。天井近くまで届く頑丈な切石の壁面、その中腹から下にかけて、稲妻のような黒い亀裂が幾筋も走っている。裂け目からは、鋭い槍のような勢いで泥水が噴き出していた。
「……これは酷いな。壁全体が前に押し出されている」
ハロルド様が手にした松明を掲げ、険しい面持ちで舌打ちした。
私は裾をたくし上げ、足首まで満ちた冷たい水の中へ躊躇なく足を踏み入れた。凍えるような冷たさが革靴を突き抜けてくる。壁面に駆け寄り、激しく噴き出す亀裂の縁へと右手を伸ばした。
「待て、危険だ!」
ハロルド様の鋭い制止を背に受けながらも、私は指先を裂け目の奥、激流の隙間へと押し込んだ。指の腹で石肌のぬめりを確かめ、流れ出る泥の粒度を探る。
「ただの水じゃありません。石の背後にある裏込め土が、水圧で泥水となって吸い出されています。粒の粗い砂利まで混ざっている……背後の地盤に大きな空洞ができ始めています!」
もし裏込めの土砂が完全に流出すれば、外壁の巨石を支える圧力が失われ、壁石は一気に内側へと倒壊する。そうなれば、この貯水槽の上にある砦の主郭の地盤ごと、すべてが陥没してしまうのだ。
そのとき、通路の奥から激しい水しぶきを跳ね上げる足音が響いてきた。
「だ、団長! ミレーユ様!」
駆け込んできたのは、肩で息をする伝令のバスティアンだった。息を乱し、革鎧のあちこちを泥で汚している。
「報告っす! 外郭の北側土台、外壁の石垣が一文字に孕み出してきたって見張りから連絡がありました! 地面の裂け目からも水が噴き出していて、このままだと夜明け前に外壁ごと滑り落ちるって工兵たちが騒いでます!」
「何だと……。外壁の基礎まで浸潤しているのか」
ハロルド様の瞳に、冷たい危機感が宿った。最前線の外壁が崩れれば、魔物の侵入を許す決定的な隙ができる。この砦の命運は、文字通り数時間の猶予しか残されていない。
「工兵全員を叩き起こせ」
「もう集まってます! 上の通路でグンターの親父が待機させてるっす!」
「案内しろ。ミレーユ、一度上へ戻るぞ」
ハロルド様に腕を引かれ、私たちは貯水槽の直上に位置する工兵詰所へと取って返した。
詰所の中は、詰めかけた工兵たちの荒い息遣いと怒号で騒然としていた。中央の作業台を取り囲む屈強な男たちの中心で、工兵長のグンターさんが図面を睨みつけながら頭を抱えている。
「クソッ、外壁の根元が孕んじまったら、外から土嚢を積んだところで焼け石に水だ! 貯水槽の水を全部抜くしかねえが、放水路の鉄格子はサビで固まって開きやがらねえ! 万事休すだ……!」
「諦めるのは早いです、グンターさん!」
私の声に、詰所内の視線が一斉にこちらへと突き刺さった。ずぶ濡れの私を見て、グンターさんが目を剥く。
「お、お嬢ちゃん……いや、棟梁! だがな、あの貯水槽の壁は高さ三丈もあるんだぞ。下手に手を出して壁が弾け飛んだら、作業に入った奴はひと呑みに圧死だ!」
「壁を内側から支えようとするから無理が生じるのです。必要なのは、水圧を押し返すことではなく、逃がしながら隙間を塞ぐことです」
私は作業台の上に広げられた古い羊皮紙の図面を引き寄せ、手元にあった炭の欠片を握りしめた。黒い線で、貯水槽の断面図を迷いなく書き換えていく。
「亀裂のすべてを一気に塞いではいけません。圧力が逃げ場を失い、別の箇所を粉砕します。まず、最下層の最も水圧が集中している一点に、硬質の樫の木と三角に削った石楔を打ち込みます。水みちを一本に絞り込むのです」
息を呑む工兵たちを見回しながら、私は言葉に力を込めた。
「絞り込んだ水流の周囲から、繊維質の乾草を練り込んだ耐水粘土を詰めます。粘土が水を吸って膨張する性質を利用して、裏込めの土砂流出を食い止める。その上で、石楔の頭を互い違いに噛み合わせ、アーチの原理で水圧を左右の健全な岩盤へと分散させるのです。二重の止水を行います」
私の淀みない指示に、詰所内が水を打ったように静まり返った。荒くれ者の工兵たちが、顔を見合わせる。
「……石の楔を、あの激流の中で打ち込むってのか。気の遠くなるような力技と、狂ったような精密さが必要だぞ」
グンターさんが低く唸った。その太い腕が、わずかに震えている。
「私が現場で直接指示を出します。石の性質と水圧の向きを見極められるのは、私だけです」
「ダメだ」
遮ったのはハロルド様だった。その声音は低く、しかし有無を言わさぬ重みがあった。
「お前をそんな死地へ行かせるわけにはいかない。危険すぎる」
「ハロルド様。この砦が崩れれば、ここにいる全員が命を落とします。私には、水の流れがどこを壊そうとしているのかが手にとるように分かるのです。お願いです、私に手仕事をさせてください」
私の目を見つめ返すハロルド様の漆黒の瞳が、激しい葛藤に揺れた。やがて彼は、悔しそうに奥歯を噛み締めると、詰所の工兵たちに向き直った。
「総員、棟梁の指示に従え。資材を搬入し、作業路を確保しろ。俺が先頭に立つ」
「応ッ!」
グンターさんの怒号のような返答が響き、工兵たちが一斉に資材置き場へと駆け出していった。
◆ーーーー◆
同じ時刻、王都の一角にあるセドリック邸の私室には、狂気じみた怒声が響き渡っていた。
「下民どもめ! どいつもこいつも無能揃いではないか!」
床には、夜会で汚泥を浴びた豪奢な外套が無残に投げ捨てられていた。セドリックは青筋を浮かべ、乱れた金髪を乱暴に掻きむしりながら部屋を歩き回っている。
部屋の隅の長椅子では、泥にまみれた晴れ着のままのアデーレが、ヒステリックにしゃくり上げていた。
「あんな……あんな恥をかかされて! 社交界中の貴婦人たちが私を指差して笑ったのよ! セドリック様、どうにかしてくださるとおっしゃったではありませんか!」
「黙っていろ! 僕のせいではない! あの噴水は、下級の水道職人どもが勝手に水圧をいじってサボタージュを働いたに決まっているのだ!」
セドリックは机を激しく叩き、呼び出されて直立していた水道局の老棟梁ウルリヒを血走った目でにらみつけた。
「ウルリヒ! 貴様、直ちに中央噴水の泥を完全に排出し、元の清流に戻せと命じたはずだ! なぜまだ泥水が出続けている!」
白髪交じりのウルリヒは、深く頭を下げたまま、絞り出すように答えた。
「セドリック様……申し上げます。幹線水路の各所に設置されていた石製の減圧升が、先日の高圧稼働によって次々と内部崩壊を起こしております。手作業による泥の掻き出しと、石組みの修繕を行わなければ、これ以上の通水は危険です。最悪の場合、中央通り全体が――」
「言い訳は聞き飽きた!」
セドリックはウルリヒの胸倉を掴まんばかりに身を乗り出した。
「泥を掻き出すなどという泥臭い手仕事など、我が魔導技術の風上にも置けん! 詰まっているなら吹き飛ばせばいいのだ! 魔導ポンプの魔力炉を限界まで加圧しろ。全出力を以て、管内のヘドロごと外郭の川へ強制排水するのだ!」
「な、何を仰いますか! それでは管内の接合部が内圧に耐えきれず、大石橋の基礎まで吹き飛びますぞ!」
「僕に指図する気か! 僕の政策に泥を塗る者は誰であれ反逆とみなす! 今すぐ魔導ポンプを最大出力で起動しろ! いけッ!」
セドリックの狂乱した怒声に、ウルリヒは絶望の色を瞳に浮かべ、震える足で私室を辞去するしかなかった。
誰もいない部屋で、セドリックは荒い息を吐きながら冷笑を浮かべた。
「見ていろ……魔導の力こそが絶対なのだ。あの泥いじり女のくだらない手仕事などなくとも、僕の力で王都を動かしてみせる……!」
その足元で、壁の奥の配管が、悲鳴のような甲高い金属音を立てて微震していることに、彼はまるで気づいていなかった。
◆ーーーー◆
冷水は、すでに私の膝の高さまで達していた。
凍えるような水圧に足を取られそうになりながら、私は貯水槽の壁面に張り付いていた。周囲では、たいまつを持った工兵たちが命綱を張り、グンターさんが大槌を構えて控えている。
「棟梁、楔の位置はそこか!」
「はい! この亀裂の交差点です! ここが水圧の要です!」
激流が私の顔に泥混じりの飛沫を叩きつける。私は両手で鋼の鏨と、三角に加工された硬質な石楔を抱え、噴き出す亀裂の芯へと押し当てた。水圧がすさまじく、腕の骨がきしむような抵抗を受ける。
激しい水流に足をすくわれ、体がふわりと浮きかけた――その瞬間。
「――動くな!」
背後から伸びてきた分厚い鉄甲の腕が、私の腰を乱暴なまでに強く抱きすくめた。ハロルド様だった。彼は膝まで濁水に浸かりながら、仁王立ちになって自らの頑強な肉体で私の背後を支え、押し寄せる激流の盾となってくれた。
「ハロルド様……!」
「余計なことを考えるな。手元だけに集中しろ。お前の体は俺が支える」
耳元に落ちてきた低く掠れた声には、かつてない熱が籠もっていた。彼の手のひらが、冷え切った私の腹部を通して確かな体温を伝えてくる。
恐怖が消え去った。私は歯を食いしばり、石楔を亀裂の急所へと深く押し込んだ。
「グンターさん、叩いて! 三寸打ち込んだら、左へ半寸捻って!」
「おうりゃああああっ!」
グンターさんの振るう大槌が、唸りを上げて石楔の頭を捉えた。甲高い衝撃音が地下空間に反響する。一度、二度、三度。
楔がめり込むたびに、噴き出していた水流が向きを変え、鋭い一本の奔流へと収束していく。
「今です! 粘土を! 周囲の隙間に詰め込んで!」
待ち構えていた工兵たちが、乾草を練り込んだ硬い耐水粘土の塊を、次々と亀裂の縁へと力任せに押し込んでいく。粘土が水を吸って重く締まり、裏込めの土砂が噴き出すのを防ぎ止める。さらに補助の石楔が打ち込まれ、噛み合った石同士が軋み声を上げながら、押し寄せる水圧を左右の岩盤へと逃がしていった。
ごうごうと鳴り響いていた濁流の音が、次第に弱まっていく。
激しい噴出は止まり、壁面から滴る程度にまで水勢は抑え込まれた。外郭の基礎を脅かしていた土砂の流出は、完全にせき止められたのだ。
「……止まった。止まったぞ!」
工兵の一人が叫び、地下の空洞にどっと歓声が上がった。男たちが互いの肩を叩き合い、泥だらけの顔を見合わせて笑い崩れる。
全身の力が抜け、私の膝ががくりと折れた。しかし、冷たい水底に落ちることはなかった。ハロルド様の両腕が、倒れかける私の体を宙でしっかりと受け止めたからだ。
「ハロルド、様……なんとか、食い止められまし……」
言いかけた私の言葉は、彼の厳しい表情によって遮られた。ハロルド様は無言のまま、冷水から私を抱き上げ、一段高い乾いた足場へと私を下ろした。
そして彼は、自身の胸元に手を差し入れると、きれいに折り畳まれた私物の白い拭布を取り出した。
「あ……いけません、そんな綺麗な布、私の泥手で汚してしまいます……」
私が慌てて引っ込めようとした手を、ハロルド様は逃がさなかった。大きな、傷だらけの手が、私の手首を強く、痛いほどの力で握り締める。
「構うものか」
ハロルド様は膝をつき、泥水と寒さで紫色に変色した私の指先を、その柔らかな布で一片の躊躇もなく包み込んだ。爪の間に詰まった泥を、手の甲にこびりついた汚れを、恐ろしいほどの執着を込めて、一指ずつ丁寧に拭い去っていく。
「お前が無事でよかった。……二度と、こんな危険な真似はさせない」
その声は低く震えていた。怒りではない。胸の奥底を掻きむしられるような恐怖と、痛切なまでの慈しみが、その瞳に渦巻いていた。
「ハロルド様……」
熱い気配が指先から胸へと逆流し、私は言葉を失った。この人は、泥にまみれた私の手を、誰よりも尊く、失ってはならない宝物のように扱ってくれている。
工兵たちの歓声が遠のき、地下の冷気の中で、二人の呼吸だけが重なり合う。
――だが。
安堵が満ちかけたその静寂を、不気味な異音が破った。
ヒュゥゥゥ……。
それは、水音ではなかった。冷たい風が、狭い隙間を通り抜けるような、甲高く乾いた口笛のような音。
「……何の音だ?」
ハロルド様の手がぴたりと止まり、鋭い視線が貯水槽の最奥を射抜いた。
応急止水によって水位が下がったことで、これまで水面下に隠れていた貯水槽の最深部――崩れかけた古い石組みの隙間が露わになっていた。そこから、砦の内部には存在しないはずの、身を切るような異様な冷気が吹き荒れている。
私はハロルド様の手から身を起こし、壁の松明を手に取って暗がりを照らした。
石組みの崩落した隙間の向こう側に、広大な闇が口を開けていた。砦の図面には一切記載されていない、人工の切石ではない滑らかな岩肌で覆われた、底知れぬ空洞。
その奥底から、人工の水路とは比べ物にならない、巨大な水流が地中深くを脈打つ重苦しい反響音が響いてきた。
「これは……古代の、水路……?」
私の呟きは、湿った闇の中に吸い込まれていった。外壁の崩壊は免れた。しかし、私たちが触れてしまったのは、この砦が築かれる遥か昔から封じられていた、未知の暗渠の入り口だったのだ。
吹き抜ける冷風が松明の炎を激しく躍らせ、私たちの影を、巨大な闇の底へと長く引き伸ばしていた。




