第3話
夜が明けると同時に、私は羊皮紙の切れ端を広げていた。
昨日、急造の木樋でなんとか泥水を逃がしたものの、あれはただの場当たり的な処置にすぎない。水脈から勢いよく溢れ出した清らかな水を生かすには、泥を取り除き、兵士たちが日常的に使える場へと整える必要があった。
「おい、嬢ちゃん……いや、ミレーユ様。朝っぱらから何を描いてるんだ?」
砦の中庭、水路の合流点に現れた工兵長のグンターさんが、太い眉を寄せて覗き込んできた。その手には使い込まれた鉄の金槌が握られている。昨日の頑なな態度はどこへやら、その眼差しには確かな警戒の解けた色が混ざっていた。
「おはようございます、グンターさん。昨日流した水の引き先ですが、ここに三層濾過層を備えた洗い場を造りたいんです」
私は地面に広げた図面を指先でなぞった。木炭の粉で黒ずんだ爪を咄嗟に隠そうとしたが、思い直してそのまま説明を続ける。
「水路の落差を利用して、最初に粗砂利、次に細砂、一番下に砕いた木炭を敷き詰めます。大きなゴミや泥の粒を順に引っ掛け、木炭で微細な汚れと匂いを吸着させるんです。そうすれば、汲み上げたばかりの澄んだ水を常に洗い桶へ注ぎ込めます」
グンターさんは図面を凝視したまま、太い指で無精髭を撫でた。職人特有の鋭い視線が、勾配の傾斜角度や石組みの継ぎ目を丹念に追っていく。
「……粗砂利で砕波させて流速を落とし、砂と炭で受けるってわけか。石の噛み合わせも、ただ積み上げるんじゃなくて水圧を外へ逃がす控え積みになってやがる。へっ、机の上で指図するだけの貴族様が引ける図面じゃねえな」
グンターさんは大きく息を吐き出すと、腰の革袋から手拭いを取り出し、頭の汗を乱暴に拭った。それから、鉄槌を地面に突き立てて深々と頭を下げる。
「昨日は悪かった。あんたの手は、本物の石工のそれだ。なあ、俺たちのことを指図してくれねえか。今日からあんたを、現場の棟梁と呼ばせてほしい」
「と、棟梁だなんて、そんな大層な呼び方は……!」
慌てて手を振る私の前に、大きな影が割り込んできた。
「おやおや、朝から精が出るねえ!」
抱えきれないほどの布の山を抱えたマルタさんが、湯気を立てる大鍋のような勢いでやってきたのだ。白い割烹着の裾を揺らし、山積みの布を木箱の上にどさりと置く。
「見ておくれよ、これ全部、昨日の哨戒で怪我した子たちの包帯と上着さ。今までは濁った泥水ですすいでたから、傷口が膿んで熱を出す子が後を絶たなかったんだ。ミレーユ様、本当に綺麗な水でこれが洗えるようになるのかい?」
「はい、夕方までには必ず。石と炭さえ揃えば、今日中に通水できます」
私が頷くと、マルタさんは丸い顔をくしゃくしゃにして笑い、背後を振り返って怒鳴った。
「聞いたかい、野郎ども! ぐずぐずしてたら昼飯抜きだよ! 川原から手頃な石を片っ端から運んでおいで!」
炊事場周辺に集まっていた若い工兵たちが、一斉に威勢のいい返事を上げた。男たちが木枠や背負子を担いで駆け出していく。乾ききっていた砦の空気が、まるで春の雪解け水のように活気づいていくのを肌で感じた。
◆ーーーー◆
夕暮れに染まる王都の貴族街では、豪奢なランタンの明かりが石畳を華やかに照らし出していた。
中央広場の噴水を望む特設の夜会会場には、着飾った貴族たちが集い、硝子杯を傾けている。その中心に立っていたのは、セドリックだった。金糸の縫い取りが眩しい上着の襟を正し、得意げに胸を反らせている。
「皆様、ご覧ください! これこそが我が魔導技術の粋を集めた最新式加圧ポンプの力です!」
セドリックの言葉に合わせ、噴水の天頂から高く清らかな水柱が立ち上った。周囲から感嘆の拍手が沸き起こる。その隣で、薔薇色の豪奢なドレスを纏ったアデーレが、誇らしげに扇を揺らした。
「まあ、素晴らしいですわ、セドリック様! 泥臭い平民の手作業などに頼らずとも、魔力さえあれば王都はいつでも美しく潤うのですものね」
「その通りだとも、アデーレ。泥にまみれて石を弄るしか能のない女を追放したことで、王都の水道行政は真の進歩を遂げたのだ」
セドリックは広間の隅で青ざめている老職人たちの視線をあざ笑うように見下ろした。昼間、職人の頭領が「減圧用の升を塞いだまま加圧を続ければ配管が破裂する」と泣きついてきたが、一喝して追い払ってやったのだ。現場の愚民どもが自分の手柄を妬んでいるにすぎない。
だが、その時だった。
足元の石畳から、ズズ……と鈍い振動が伝わってきた。
「……セドリック様? 何か、変な音がいたしませんこと?」
アデーレが眉をひそめた瞬間、噴水の水柱が不自然に激しく震え、ゴボゴボという奇怪な濁流の音が響いた。配管の奥底で、何かが詰まり、押し戻されるような金属の悲鳴。
「な、なんだ? 出力弁の魔導水晶が……過熱している……?」
セドリックが操作盤へ手を伸ばした刹那、噴水の吐出口が激しい衝撃音とともに砕け散った。
天高く噴き上がったのは、清流などではなかった。長年、暗渠の底に沈殿していた腐敗汚泥とヘドロが、圧縮された空気とともに真っ黒な濁流となって夜空へ炸裂したのだ。
「きゃあああああっ!?」
広場に降り注いだのは、強烈な腐敗臭を放つ黒い泥の雨だった。
逃げ惑う貴族たちの悲鳴が響き渡る中、中央にいたアデーレの頭上へ、大量の汚泥が容赦なく降り注ぐ。金糸をふんだんに使った特注のドレスも、結い上げた金髪も、一瞬にして悪臭を放つヘドロまみれとなった。
「嫌っ! 嫌あああっ! わたくしのドレスが! 臭い、臭いわセドリック様! 何とかして!」
「ひ、ひぃっ! 来るな、近寄るなアデーレ! 服に泥がつくだろうが!」
顔中を真っ黒な泥で覆われた婚約者を、セドリックはなりふり構わず突き飛ばした。飛び散った泥水が自身の白い絹の手袋を汚したのを見て、セドリックの顔が怒りと恐怖で歪む。
「おのれ、下級職人どもめ……! 僕を陥れるために細工をしたな!? サボタージュだ! 全員地下牢に叩き込んでやる!」
喚き散らすセドリックの足元で、破裂した配管から噴き出す汚水が、王都の美しい石畳を刻一刻と黒く呑み込んでいった。
◆ーーーー◆
陽が完全に落ちた頃、砦の共同洗い場には、澄み切った清流が静かに湛えられていた。
三層濾過層を通過した水は、月明かりを浴びて青白く輝いている。昼間の泥水が嘘のように、底に敷いた白い玉砂利の粒までくっきりと見通せた。
「すげえ……本当に透き通ってる!」
「傷口を洗っても全然沁みねえぞ! 泥の臭いが綺麗さっぱり消えてやがる!」
新設された石組みの洗い場の周囲には、松明を手にした兵士たちが押し寄せていた。血と泥にまみれた包帯を水に浸すと、赤黒い汚れがみるみるうちに洗い流され、清らかな白さを取り戻していく。
マルタさんが、洗い立ての布を両手で高く掲げ、涙ぐみながら笑った。
「これなら、怪我人たちの傷もすぐに塞がるよ。あんたのおかげだ、ミレーユ様。この砦に、本当に命の水が戻ってきたんだねえ」
兵士たちから次々と感謝の歓声が上がる。誰もが屈託のない笑顔で私を取り囲み、口々に礼を言ってくる。王都にいた頃、私の泥だらけの手を見て向けられていたのは、嘲笑と蔑みだけだった。こんな風に、自分のした仕事で誰かが心から笑ってくれるなんて、夢にも思わなかった。
胸がいっぱいになり、何を返せばいいのか分からずに立ち尽くしていると、冷え切っていた指先を、ふわりと温かい毛皮が包み込んだ。
「……全員、下がれ。彼女を休ませる」
低く静かな、だが砦の誰もが背筋を正す威厳を帯びた声。
振り返ると、騎士団長のハロルド様が立っていた。分厚い漆黒の外套の前をわずかに開き、私の肩を抱くようにして兵士たちから遮る。兵士たちは一瞬で恐縮し、敬礼を返しながら散っていった。
「あ、あの、ハロルド様……私はまだ片付けが……」
「言ったはずだ。無茶はするなと」
ハロルド様は私の言い訳を聞き流すと、私の手首を痛くない程度の力加減で握り、歩き出した。引き留める間もなく連れて行かれた先は、中庭に面した石造りの騎士団長執務室だった。
分厚い木製扉が閉ざされると、外の喧騒がふっと遠のいた。部屋の中央に据えられた暖炉には赤々と薪が燃え、柔らかな熱気を放っている。
「座れ」
促されるまま革張りの長椅子に腰掛けると、ハロルド様は卓上に置かれていた木椀を私の前に置いた。立ち上る湯気とともに、香草と干し肉の豊かな香りが鼻腔をくすぐる。
「マルタに作らせた。根菜と獣肉の滋養スープだ。冷めないうちに飲め」
「ありがとうございます……いただきます」
木匙ですくって口に運ぶと、濃厚な出汁と野菜の甘みが冷え切った胃の腑にじわりと広がっていく。一日中、冷たい水と泥に触れていた身体が、内側から解きほぐされていくようだった。
私がスープを飲み干すのを静かに見届けると、ハロルド様は革の小瓶を手に取り、私の前に無言で膝をついた。
「あ、あの、団長様!? 膝などつかないでくださいまし!」
「動くな」
短く制され、私は息を呑んだ。大柄な騎士団長が、絨毯の上に片膝をつき、私の泥だらけの手を両手で包み込んでいる。その掌は武骨で固いタコに覆われていたが、触れる仕草は信じられないほど慎重で、壊れ物を扱うかのようだった。
小瓶から掬い取られたのは、高価な香油が練り込まれた乳白色の保湿軟膏だった。砦のような前線では滅多に手に入らない、傷薬を兼ねた貴重品のはずだ。
「こんな高価なものを、私のような者の手に使ってはもったいありません……! ただの泥仕事の手ですし、すぐにまた汚れますから……」
縮こまる私の言葉に、ハロルド様は答えなかった。ただ、細く冷え切った私の指先を一本ずつ取り、節くれだった自らの親指で、丁寧に軟膏を擦り込んでいく。爪の間に残る微かな泥の痕跡さえも、厭うどころか愛おしむように、丹念に温もりを与えていく。
「……もったいなくなどない」
静かな声が、暖炉の爆ぜる音に混ざって落ちてきた。
「この手がなければ、今頃この砦は枯れ果て、俺の部下たちは渇きと泥水で倒れていた。貴女の指先ひとつ、泥で荒れることすら惜しい。……頼むから、自分の身をもっと大事にしてくれ」
伏せられた長い睫毛の下で、漆黒の瞳が熱を帯びて私を見つめていた。その真摯な響きに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように熱くなり、私は顔から火が出そうになるのを止められなかった。王都で誰一人として認めてくれなかった私の手を、この人は何よりも尊いものとして扱ってくれている。
「ハロルド、様……」
熱い沈黙が執務室を満たし、ハロルド様の指が私の手首へと滑りかけた、その時だった。
――ゴォン……。
執務室の足元深くから、空気を震わせるような重く鈍い地鳴りが響いた。
暖炉の上の燭台が微かにカタカタと揺れ、足元の石畳の継ぎ目から、わずかに湿った冷気が吹き上がってくる。
ハロルド様の動きが即座に止まり、その眼光が軍人の鋭利な光を取り戻した。
「今の音は……」
「石組みが軋む音です」
私は咄嗟に立ち上がり、床板に耳を澄ませた。水脈の微かな脈動を探る感覚を研ぎ澄ます。
枯れ井戸の奥から引き込んだ水は、勢いを取り戻しすぎている。地表の洗い場や水路には回せているが、その何倍もの水量が、砦の最深部――長年使われていなかった巨大な地下貯水槽へと流れ込んでいるのだ。逃げ場を失った水圧が、老朽化した地下の外壁を内側から圧迫している。
暗闇の底で、耐えかねた巨大な石壁に、微かな亀裂が走り始めている気配が伝わってきた。小さな前進の手応えを得たのも束の間、砦を足元から支える大動脈に、静かな危機が迫っていた。




