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第2話

翌朝の空気は肌を刺すように冷え込んでいた。しかし、主郭の中庭には昨日まで漂っていた張り詰めた絶望の気配はなかった。


大井戸の滑車がきしむ音と共に、木桶が引き上げられる。中には、底の小石まで透けて見える清流がなみなみと湛えられていた。朝の冷気に白い湯気を立てるその水を、見張りを終えた兵士たちが両手ですくい、乾いた喉を潤している。


私の胸の奥に、小さく温かい灯がともる。あの冷え切った井戸底で、岩盤の継ぎ目に槌を打ち込んだ手の痺れはまだ残っていた。けれど、人々の喉を潤すその澄んだ水を見るだけで、指先の痛みなどどこかへ吹き飛んでしまう。


「おい、大変だ! 炊事場裏の溝から泥が溢れてるぞ!」


中庭の穏やかな空気を切り裂くように、切迫した叫び声が響いた。兵士のひとりが血相を変えて走り込んでくる。


「水が出たのはいいが、古い水路が完全に詰まってやがる! 行き場を失った水が土砂を巻き込んで、裏口から厨房へ流れ込んでるんだ!」


「なんだって!?」


すぐそばで資材を確認していた工兵長のグンターさんが、太い眉を吊り上げて走り出した。私も作業着の腰紐を固く締め直し、その後を追う。


炊事場の裏手に回ると、異様な光景が広がっていた。石壁の足元に埋設された古い石造水路から、赤茶色の泥水がごぼごぼと激しい音を立てて噴き出していたのだ。長年放置されて堆積した分厚い腐植土と落ち葉が栓の役目をしてしまい、大井戸から流れ込んだ豊かな水流をことごとく跳ね返している。


「ちょいと、誰か助けておくれ! このままじゃ夕餉の仕込みどころか、小麦の粉袋まで全滅だよ!」


厨房長のマルタさんが、たくし上げたスカートの裾を泥まみれにしながら、木べらを片手に裏口の敷居前で必死に叫んでいた。泥水はすでに彼女の足首を覆い、厨房の扉の隙間から中へと侵入しかけている。


「チッ、どきやがれ! 俺がぶち抜いてやる!」


グンターさんが太い鉄棒を構え、水路の泥溜まりへ踏み込んだ。鍛え上げられた腕を振り上げ、詰まりの真上から力任せに鉄棒を突き刺す。ズシッ、と鈍い音が響いた。


「駄目です、グンターさん! 突いてはいけません!」


私の制止は一瞬遅かった。鉄棒が泥の奥に突き立った瞬間、水路の側壁を支えていた土手がぐらりと揺れた。無理な衝撃によって周囲の脆い泥壁が崩落し、詰まりは解消されるどころか、崩れた土砂が新たなダムとなって水路を完全に塞ぎ止めてしまったのだ。水位が一気に跳ね上がり、濁流が波打ってマルタさんの足元へ押し寄せる。


「ぐっ……しまっ――」


「下がってください!」


私はスカートの裾を両手で引き絞り、迷わず泥濘の中へと足を踏み入れた。足首を通り越し、ふくらはぎの半ばまで冷たい泥水に浸かる。皮膚を刺すような冷たさに息が詰まりそうになるが、構っていられない。


泥水の中に両手を突っ込み、ぬかるんだ底の石組みを手探りで探る。指先で触れるだけで、水がどこへ行きたがっているのか、どの石が水圧を押し留めているのかが手にとるように伝わってきた。


「お、おい! 令嬢が何やってやがる、危ねえぞ!」


「グンターさん、水路を力でこじ開けようとしては駄目です。この水路は古い空石積みで作られています。無理に泥を押し込めば、水圧が逃げ場を失って側面の石組みごと崩壊し、兵舎の土台まで緩んでしまいます!」


私の鋭い声に、グンターさんが目を見張った。荒くれの工兵たちを束ねる屈強な男が、泥に塗れた私の顔を凝視したまま息を呑む。


「じゃあどうすんだよ! 水路を端から掘り返して壊すしかねえだろ!」


「そんな時間をかけていたら厨房が沈みます! 水圧を逃がすための迂回路を作ります。工兵の皆さん、荷車から解体用の厚板と角材を持ってきてください! 木樋バイパスを組みます!」


「木樋……バイパスだと?」


「はい、木材を組み合わせて急造する仮設の導水路です! 本水路の泥を抜く前に、まず溢れ出ている水圧を横の空き地へ逃がします!」


私の指示に迷いはなかった。王都の地下水路で幾度となく経験した、突発的な増水への緊急対処と同じ理屈だ。水は強引に塞げば暴れるが、逃げ道を作ってやれば素直に従う。


工兵たちが資材を抱えて駆け戻ってくる。私は泥水の中に指先を深く差し入れ、水路の側壁に埋まる特定の石を探り当てた。


「グンターさん、ここです。この三角に尖った控え石を、私の合図に合わせてバールで少しだけ手前に引いてください。決して奥へ押し込んではいけません」


「こ、ここか……? こんな小さな石一個で何が変わるってんだ」


半信半疑のまま、グンターさんが鉄の棒を石の隙間に差し込む。私は泥の中から水流の唸りに耳を澄ませた。水圧が最も高まり、石同士が押し合って緊張が極限に達する瞬間を待つ。


「……今です! 引いて!」


「うおおっ!」


グンターさんが全身の筋肉を軋ませて鉄棒を引いた。ゴリッ、と鈍い摩擦音が泥の底から響く。要となっていた噛み合わせ石がわずかにずれた瞬間、溜まりに溜まっていた水圧が、その隙間へと吸い込まれるように集中した。


「板を! コの字に組んだ板をここへ差し込んでください!」


工兵たちが慌てて差し入れた木の樋へ、轟音と共に泥水が流れ込んでいく。水路の脇に穿たれたバイパスを通じ、濁った水が勢いよく裏庭の傾斜地へと誘導されていく。


ほんの数瞬前まで炊事場を飲み込もうとしていた泥水が、目に見えて水位を下げ始めた。敷居を越えかけていた濁流が引き、ぬかるんだ地面が再び姿を現す。


「す、水が……引いていくぞ……」


誰かが呆然と呟いた。グンターさんは泥まみれの鉄棒を握りしめたまま、信じられないものを見る目で木樋と私を交互に見つめていた。


「嘘だろ……。石の噛み合わせ一つ抜いただけで、水圧の向きを変えやがったのか……? 壊さずに、いなしやがった……」


その太い喉がごくりと鳴る。職人として長年現場を仕切ってきた彼だからこそ、いま目の前で行われた処置の狂気じみた正確さが理解できたのだろう。荒っぽい職人の瞳から疑念の色が消え去り、底知れぬ驚嘆と敬意の色がじわりと滲み出していた。



◆ーーーー◆



同じ日の午後、王都の水道局管理室には、耳をつんざく怒声が響き渡っていた。


「無能どもが! 貴様ら全員、首を括って詫びるがいい!」


執務机を激しく蹴りつけたのは、豪奢な礼装に身を包んだセドリックだった。その額には青筋が浮かび、手入れの行き届いた金髪が乱れている。


前夜、中央噴水から噴き出した汚泥は、広場を埋め尽くす貴族たちの馬車や衣服を汚し、セドリックの面目を完全に潰していた。今朝になっても噴水の水勢は戻らず、それどころか下流域の高級住宅街では蛇口から濁った水と異臭が立ち込めているという苦情が殺到していた。


床に膝をつき、必死に頭を下げているのは水道網の現場棟梁であるウルリヒだった。作業着を埃まみれにした老職人が、絞り出すような声で訴える。


「セドリック様、どうか魔導ポンプの出力を落としてください! 地下の配管各所で異常な加圧振動が起きております! これまでミレーユ様が各所の石製減圧升を巡回し、泥を掻き出し水圧の微調整をしてくださっていたからこそ保っていたのです! 手作業による減圧なしにこれ以上の圧力をかければ、古い水道管が破裂します!」


「黙れ! 下民の分際で僕に指図するな!」


セドリックは唾を飛ばして一喝した。


「あの泥いじり女の名前を出すなと言ったはずだ! あんな無能の小娘の作業など、ただの泥遊びに過ぎん! 水が出ないのは魔力が足りないからだ。魔導技師、聞こえたな! 中央魔導ポンプの弁を最大まで開放しろ! 水圧で管の中の泥ごと力任せに押し流してしまえば済む話だ!」


「し、しかしそれでは接合部が――」


「命令だ! やらねば反逆罪で投獄するぞ!」


セドリックの狂気じみた脅迫に、技師は青ざめて操作盤の魔導レバーを最深部へと押し込んだ。キィィィン、という耳を刺す高周波の駆動音が響き渡り、水晶端末が過剰な魔力供給を示す真っ赤な光を放つ。


管理室の窓の外、中央広場の巨大噴水から、ドッと凄まじい勢いで水柱が立ち上がった。飛沫が高く舞い上がり、セドリックは満足げに嘲笑を浮かべる。


「見ろ! 所詮は魔導の力の前には児戯に等しいのだ! あの女の泥臭い手仕事など、最初から何の役にも立っていなかった証拠だ!」


しかし、歓喜の声を上げるセドリックの足元で、ウルリヒだけが恐怖に顔を歪めて床を見つめていた。


見えない石畳の奥深く、地底の暗闇から、ズズズ……と内臓を揺らすような重い地鳴りが伝わってくる。無理矢理に加圧された水流が、老朽化した配管の継ぎ目を内側から激しく叩き、目地を押し広げ、周囲の地盤へ目に見えない亀裂を刻み込んでいる音だった。破滅への秒読みが始まっていることに、誇らしげに胸を張る若き魔導貴族だけが気づいていなかった。



◆ーーーー◆



夕暮れ時、最前線の砦には冷たい風が吹き抜けていた。


工兵たちの懸命な作業により、仮設の木樋バイパスはしっかりと固定され、炊事場周辺に溢れていた泥水は完全に排水されていた。ぬかるみは残るものの、敷居を越える危険はひとまず去った。


「ふう……っ」


私は水路の脇に座り込み、泥だらけの両手を見つめて小さく息を吐いた。安堵した途端、手足の感覚が麻痺していることに気づく。冷水に浸かり続けていたせいで、指先は白く強張り、膝が小刻みに震えていた。


だが、問題は何も終わっていない。水路の泥が引いたことで、本水路の奥の様子が露わになっていた。石積みの隙間には長年の土砂が石のように硬く固着し、至るところで石組みが水圧に押されて歪んでいる。木樋によるバイパスはあくまで一時しのぎに過ぎず、このまま本格的な給水を行えば、数日と持たずに今度こそ本水路全体が崩落してしまうだろう。


(砦全体の水路網を、根本から掘り起こして組み直さなければ……でも、それには途方もない時間と人手が……)


暗澹たる思いが胸をかすめた、その時だった。


バサリ、と音を立てて、重みのある温もりが私の全身を包み込んだ。


「あ……」


見上げると、そこには騎士団長のハロルド様が立っていた。自身の漆黒の毛皮マントを私の肩にかけ、無言で見下ろしている。強面な相貌は厳しく引き結ばれていたが、その瞳には夕日の光とは異なる、切実な熱が揺らめいていた。


ハロルド様は無骨な膝を泥の上に惜しげもなく突くと、私の冷え切った両手を、自らの大きな両手でそっと包み込んだ。分厚い革手袋を外し、露出した彼の掌は驚くほど熱く、私の凍えた指先を解かすように包み込んでいく。


「無茶をするなと言ったはずだ」


低く、掠れた声だった。叱責の言葉のはずなのに、そこには怒りなど微塵もなく、痛ましさと過保護なまでの慈しみが滲み出ていた。


「で、でも、厨房が沈んでしまったら、皆さんのご飯が……それに、私は泥仕事しかできませんから……」


縮こまる私の言葉を遮るように、ハロルド様の手の力がわずかに強まる。


「貴女のその手が、この砦の命を繋いだ。グンターから全て聞いた。だが……貴女が凍えて倒れては、何の意味もない」


至近距離で見つめられ、私は頬が一気に熱くなるのを感じて視線を伏せた。こんな泥まみれの私を、まるで壊れやすい宝物のように扱う彼の体温が、冷え切った身体の奥底まで染み渡っていく。


しかし、ハロルド様が私を引き寄せるようにしてマントを整え直したその視線の先――奥深い石組みの闇には、幾重にも堆積した頑固な汚泥と、不気味に広がる亀裂が横たわっていた。砦の喉元を塞ぐ閉塞は、急造の木樋程度で解決できるほど浅くはない。


そしてその頃、遠く離れた王都の地下深くでは、逃げ場を失った過剰な魔導水圧が、限界を迎えた配管を軋ませ、静かな破滅の唸り声を響かせ始めていた。


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