第1話
豪奢なシャンデリアの光が降り注ぐ王都の夜会広間は、甘い香油の匂いと貴族たちのさざめきで満ちていた。
その華やかな輪の真ん中で、私の右手は強引に高く掲げられていた。手首を掴んでいるのは、私の婚約者であるセドリック様だ。金糸の刺繍が施された礼装をまとい、手入れの行き届いた金髪を誇らしげに揺らしている。
「皆様、見て御覧なさい! 我がブランシェ伯爵家の令嬢でありながら、この卑しい指先を! 爪の間にこびりついた黒々とした泥を!」
セドリック様の嘲笑混じりの甲高い声が広間に響き渡る。周囲を取り囲む貴族たちから、さっと絹の扇子が掲げられた。扇の陰から向けられるのは、侮蔑と好奇が入り混じった冷ややかな視線だ。
「まあ、本当にお泥臭いこと……」
「伯爵令嬢の手とはとても思えませんわね」
「夜会にそんな汚れた姿で現れるなんて、淑女の恥さらしですわ」
くすくすと忍び笑いが広がる。私は唇を噛み、伏せた視線をわずかに落とした。
この泥は、先刻まで王都の中央水道管に潜っていたからだ。主要幹線である石組み水路の継ぎ目から大規模な漏水が始まっているのを見つけ、私は膝をついて暗渠に入り込み、土嚢と楔石を詰めて応急の止水を行っていた。もしあのまま放置していれば、今夜にでも地盤が緩み、中央広場の石畳が陥没して大事故になっていたはずだった。
急いで泥を洗い落とし、侍女に手伝われてドレスに着替えたものの、爪の奥深くに食い込んだ土までは取り除けなかったのだ。
けれど、それを口にしたところで無駄なことは分かっていた。華美な魔導こそがすべてであり、泥にまみれる手仕事を下民の泥遊びと蔑むセドリック様が、私の言葉に耳を傾けるはずもない。
「言い訳すらできぬか。ミレーユ、君のような泥いじりしか能のない不潔な女は、我が栄光ある魔導技術の推進派を率いる僕の隣にふさわしくない。よって今この場で君との婚約を破棄する!」
広間がわずかにどよめいた。セドリック様は胸元から一枚の羊皮紙を取り出し、私の足元へと叩きつけるように放り投げた。
「さらに国王陛下の名において、お前を北の国境砦へ追放とする。最果ての地で、せいぜいその汚らしい泥と戯れているがいい!」
床に落ちた書状に、私は静かに視線を落とした。胸を貫いたのは、婚約を破棄された悔しさでも、社交界から追放される恐怖でもなかった。
書状の末尾に記された、最前線の防衛砦の現況――『水不足甚だしく、井戸の枯渇により兵員の損耗危機に瀕す』という、殴り書きのような報告の文面だった。
指先が微かに震える。過酷な防衛の最前線で魔物と対峙する兵士たちが、今日飲む水すらないまま耐えている。その光景を想像しただけで、胸の奥がきりきりと締めつけられた。
「……承知いたしました。命に従います」
私は深く礼を執った。取り繕う言葉など何一つ口にせず、冷笑を浴びせる貴族たちに背を向けて、静かに夜会広間を後にした。
北へ揺られること数日、粗末な護送馬車が辿り着いたのは、ごつごつとした灰色の岩山に囲まれた巨大な石造りの要塞だった。
馬車の扉が開くと、吹き抜ける乾いた風が頬を叩いた。中庭に降り立った私を待っていたのは、無精髭を生やし、日に焼けた腕に大きな金槌をぶら下げた大柄な男だった。
男は私の上等だが薄汚れたドレスをじろじろと眺め、深いため息と共に唾を吐き捨てた。
「王都の旦那衆も焼きが回ったな。援軍か物資を寄こせと散々頼んだってのに、送りつけてきたのは着飾った華奢な令嬢一人かよ。俺はここの工兵長をやってるグンターだ。言っとくがな、お嬢さん。この砦にはあんたにくれてやる水の一滴すらねえぞ。真っ先に干からびて倒れるのがオチだ」
周囲を見渡せば、行き交う兵士たちの唇は白くひび割れ、足取りは鉛のように重い。誰もが喉を枯らし、極限の疲労に耐えているのが一目で分かった。
私はグンターさんの悪態を気にする間もなく、その場に跪いた。
「お、おい!? いきなり何をしやがる!」
慌てるグンターさんを余所に、私は中庭の地面に手のひらを当て、鼻を近づけて土の匂いを深く吸い込んだ。乾いた砂埃の奥、わずかに混じる湿り気の気配。さらに耳を地面にぴたりと押し当て、神経を研ぎ澄ます。
幼い頃、生家の屋敷で井戸が枯れ、下働きの人々が次々と熱病で倒れた光景が記憶に焼き付いている。水が途絶えれば、どれほど強固な城壁も命を守ることはできない。土の湿り気、石の冷たさ、風の通り道。自然の理に耳を澄まし、手作業で水の道を繋ぐことだけが、人々の命を繋ぎ止めるのだ。
(……奥にある。かすかだけれど、岩盤の裂け目を走る細い震えが聞こえる)
私は顔を上げ、土まみれになった頬を気にすることもなく、呆気に取られているグンターさんを見上げた。
「グンターさん、この砦で一番深い井戸はどこにありますか? 完全に干からびて使えなくなったという井戸です」
「あ、ああん? 一番深いのだと……北の主郭にある大井戸だが、ありゃもう三ヶ月前に水が完全に止まっちまって、今じゃ底までカラカラのただの穴だぞ」
「そこへ案内してください。まだ、間に合います」
私の目を見たグンターさんは、何か言い返そうと口を開きかけたものの、私の真剣さに気圧されたのか、鼻を鳴らして踵を返した。
「……チッ、後で泣き言を言っても知らねえからな。ついてきな!」
主郭の奥、高くそびえる石壁の影に、その深井戸はあった。覗き込むと、底知れぬ暗闇が広がっている。
私は裾を捲り上げて腰に命綱のロープを巻きつけると、工兵の荷物から手頃な重さの鋼の槌を一本借り受けた。
「おい、まさか本気で降りる気か!? おいおい、止せって!」
グンターさんの制止を背に、私は足場の突起に靴を掛け、するすると闇の中へと降りていった。
井戸の底は冷え切っていた。乾いた空気が喉を刺す。カンテラの微かな明かりを頼りに、私は丸く積まれた井筒の石壁を、指先で一つひとつ丹念に撫でていった。
石と石の継ぎ目、泥の乾き具合、わずかな苔の痕跡。そして、一番底に露出している黒い岩盤。
(ここだわ)
ひび割れた岩肌の、左斜め下に走る微細な裂け目。そこだけ、指先に吸い付くような冷たい湿気がある。背後の山から染み込んだ地下水が、硬い岩の層に遮られて行き場を失い、すぐ向こう側で滞留しているのだ。
私は両手で槌の柄を握り直した。爪に土が入り、手のひらが擦れて痛むのも構わず、水脈の圧力が最も集中している一点を見定める。
「通しなさい……命の道を!」
息を吐き出し、体重を乗せて渾身の力で槌を岩盤の裂け目へと叩き込んだ。
硬質な金属音が井戸の底に反響する。一度、二度。腕の筋肉がきしみ、衝撃が骨を揺らす。そして三度目、正確に急所を撃ち抜いた瞬間、パキンと乾いた亀裂の音が響いた。
直後、岩の割れ目から凄まじい轟音が噴き上がった。
「きゃっ……!」
ごうごうと音を立てて、岩肌の隙間から澄んだ冷たい地下水が、私の腰の高さまで一気に噴き出してきたのだ。溜まりに溜まっていた水圧が一気に解放され、枯れ果てていた井戸の底を清冽な水が満たしていく。
「グンターさん! 引き上げてください! 水が出ました!」
上に向かって叫ぶと、井戸の縁から信じられないものを見るような叫び声が落ちてきた。
「な、なんだってえええっ!? おい、野郎ども、ロープを引け! 早く引き上げろ!」
ロープがぐいぐいと巻き上げられ、私は飛沫を浴びながら地上へと引き戻された。
井戸の外へ這い出た瞬間、中庭にはすでに何十人もの兵士たちが集まっていた。井戸の縁から下を覗き込んだ兵士が、水面がぐんぐんと上がってくるのを見て絶叫した。
「み、水だ……! 水が湧いてるぞ! 澄んだ水だああっ!」
広場に割れんばかりの歓声が爆発した。兵士たちが抱き合い、空の革袋を掲げて涙を流している。グンターさんは濡れ鼠になった私と井戸を交互に見つめ、口をあんぐりと開けて立ち尽くしていた。
私は冷たい水に濡れた体を震わせながら、安堵からへたり込みそうになった。槌を強く握りしめていた手のひらは皮が剥け、泥と血が混ざり合って無残に汚れている。
(ああ……また泥だらけ。こんな手、見られたらまた……)
王都で浴びせられた嘲笑が頭をよぎり、私は咄嗟に両手を背後に隠そうとした。
その時、歓声に沸く兵士たちがさっと左右に割れた。
現れたのは、重厚な甲冑を纏った長身の騎士だった。漆黒の髪に、鋭い彫りの深い顔立ち。腰に長大な剣を帯びたその人は、砦の長たる騎士団長ハロルド様だった。
威圧感に思わず息を呑む。ハロルド様は無言のまま大股で私に近づくと、私の前に膝をつき、目線を同じ高さに合わせた。
「あ、あの……申し訳ありません、このような泥まみれの姿で……」
身を縮める私の右手を、彼の手がそっと包み込んだ。無骨で、幾多の戦いを潜り抜けてきた硬い手のひら。
ハロルド様は眉一つ動かさず、自身の懐から真っ白で清潔な布を取り出した。そして、泥と血に汚れた私の指先を、壊れ物を扱うかのように、一筋ずつ丁寧に、優しく拭い始めたのだ。
「め、滅相もありません! 騎士団長様のお手を汚してしまいます!」
慌てて手を引こうとする私を、ハロルド様は静かに制した。その漆黒の双眸には、深い敬意と、決して揺るがない強い光が宿っていた。
「汚れてなどいない。これは、砦のすべての命を救った誇り高い手だ」
低く、よく通る声だった。飾らない、けれど心の底からの響きを持った言葉に、私の胸の奥がじんわりと熱くなる。
ハロルド様は布を私の傷口にそっと巻き終えると、私の瞳をまっすぐに見つめた。
「ミレーユ殿。王都が貴女をどう扱ったかは知らん。だが、この砦において、貴女は尊ぶべき恩人だ。二度と、その手を恥じることなど許さない」
不器用なほど真摯な眼差しに、私は熱くなる頬を自覚しながら、ただ小さく頷くことしかできなかった。
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その日の夜、遠く離れた王都の中央噴水広場。
婚約破棄の夜会から数日、連日の祝宴で称賛を浴びて機嫌よく帰路についていたセドリックは、ふと足を止めた。
「……ん? 何の音だ」
足元の美しい石畳の奥から、低く鈍い唸り声のような地鳴りが響いていた。配管が悲鳴を上げるような、耳障りな金属の軋み音。
次の瞬間、王都の富の象徴である巨大な中央噴水の吐水口から、ドゴォッという激しい破裂音が轟いた。
透き通った清流の代わりに吹き上がったのは、異臭を放つ茶褐色の泥水だった。石造りの彫刻を泥水が汚し、広場の周囲に黒々とした水たまりが広がっていく。
「な、なんだこれは!? 魔導ポンプの出力はどうなっている! おい、技師を呼べ!」
セドリックの狼狽した叫び声は、夜の闇に虚しく響いた。彼らが無価値だと切り捨てた少女の手仕事が失われた地下で、限界を迎えた水圧が、静かに、確実に配管の継ぎ目を押し広げ始めていた。




