なんで、私が逃げなきゃ行けないの!?
鋭い三白眼をさらに細め、靈影暁人が真っ直ぐに私の席に向かって歩いてくる。その一歩一歩が、まるで死神の足音のように聞こえた。
(なんで! サイアク! 嘘でしょ! よりによって同じ講義なんて!!)
この時ほど、実家の神社に祀られているカミサマを恨んだことはない(ホントに)。連休明けの屍状態の私に、こんな過酷な試練を与えるなんて!
私は心の中で絶叫しながら、完全にパニックに陥っていた。
『カイ……あの男、すっごく生意気。ミズチが、あのツラをバリバリ食べてあげようか?』
胸元の谷間で、ミズチが私の霊力中毒の瞳をギラリと輝かせ、ゴウッと低い妖気を放ち始める。
「ちょっとミズチ! ここで蛟になったら講義室の天井どころか、佐藤くんや亜美ちゃんまで巻き込まれるから本当にやめてぇぇぇ!!(脳内絶叫)」
私は胸元の暴走寸前の大蛇を必死に抑え込みつつ、近づいてくる暁人に何か言い返そうと、勢いよく席から立ち上がった。
――が。
「――っ!?」
立ち上がった拍子に、連休中にミズチに霊力を吸い尽くされたせいで完全にガクガクだった私の足が、縺れた。
重い上半身を支えきれず、私は無様に後ろによろめき、物の見事にひっくり返ってしまった。
ドンッッッ!!!!
「いっーたぁっ!!!!」
壁に背中を思いっきり打ち付け、私は講義室中に響き渡るほどの声を上げてしまった。コーヒーの空き缶が机から落ちてカラカラと音を立てる。
(いったぁぁぁぁ……っ! 背中が砕けたかと思ったわよ!!トホホ……)
涙目で背中をさすりながら、床に這いつくばる私。
講義室中が静まり返り、一瞬にして視線が一番後ろの席の私へと集まった。
「水無瀬さん! 大丈夫!?」
佐藤くんが慌てて振り返り、あみちゃんが「カイちゃん、すごい音したけど! 大丈夫?」と駆け寄ろうとする。
そして、私の目の前には、立ち止まった靈影暁人が、
床に転がる私を冷ややかな三白眼で見下ろしていた。
「……はん。規格外の霊力を持ってるくせに、自分の足も支えられねえのか。神社の娘」
暁人は呆れたように鼻で笑うと、パニックと痛みで赤面して床に這いつくばる私を見下ろし、口元を傲慢に歪めた。
「まあいい……。探す手間が省けた。おい、女。講義が終わったら、屋上に来い。昼間の決着をつけさせてもらう」
(決着!? 昼間の決着って、あんた一撃でミズチに吹っ飛ばされたじゃないの!)
言い返したいけれど、背中の激痛と恥ずかしさで声が出ない。
私の(すでにライフゼロの)キャンパスライフに、最悪すぎる新展開のゴングが鳴り響くのだった。
◇
私は、吐き捨てられた霊影暁人の言葉に、全力で無視を決め込むことにした。
そもそも「神社の娘」? 私は水無瀬カイ! そんな抽象的な名前じゃないっーのー!
「いったた……」
背中をさすり、私は涙目になりつつも、ミズチが鎮座する自分の胸元へとチラッと視線を落とした。
『カイ、いまの男、ミズチが今度こそペッてしてあげる!』
服の内側では、大蛇が脳内で息巻いているが、今はとにかくステイ、ステイ。
なんとか立ち上がった私は、汚れを払うフリをして、目の前の生意気な同級生――靈影暁人を見やった。
「あんた誰? 知らないんですけどぉ〜」
記憶喪失のフリをして、精一杯の塩対応。
改めて近くで、マジマジと観察してみる。
(ふーん……。まあ、顔だけは良いんだよね、顔だけは。でも、すっごくムカつく。なんなの、あの人を小馬鹿にしたような三白眼の目つき……)
冷静を装いつつ、私は心配そうにこちらを見ている亜美ちゃんと佐藤くんに視線を向け、努めて明るく笑ってみせた。
「大丈夫、大丈夫! ちょっと足が滑っちゃっただけだから!」
そう、私は実家でヤンデレお父さんに鍛え上げられた身。頑丈さと身体能力にだけは、並の人間(と怪異)の百倍は自信があるのだ。壁をウルトラCで飛び越える女が、壁に背中をぶつけた程度でヘタレていられるかって話よ!
一方、完璧な「他人のフリ」をかまされた暁人は、ピキリと額に青筋を浮かべた。
彼のまとう霊気が、屈辱と怒りでチリチリと逆立っていくのが視える。祓い屋の若き天才(18歳)にとって、あの連休中の大学の中庭で「一撃で吹っ飛ばされた」という事実は、男のプライド的にも、祓い屋の矜恃的にも、絶対に許せない黒歴史なのだろう。
(そんなモン、こちとら毎日の霊力消費で腹ペコなんだから、一銭の足しにもならんわ!!)
「……とぼける気か、お前」
暁人が声を一段と低くし、私に一歩詰め寄ろうとした、その瞬間。
ガラガラッ!
「はい、全員席に着けー。講義始めるぞ」
絶妙すぎるタイミングで、民俗学の教授が教壇に入ってきた。講義室全体の空気が一瞬で「授業モード」へと切り替わる。
「……チッ」
暁人は忌々しそうに舌打ちをすると、私と、その胸元を鋭く睨みつけ、踵を返した。
「逃げられると思うなよ、水無瀬。……絶対に、あの時の落とし前はつけてもらう」
ボソッと冷たい声を残し、彼は前方の自分の席へと戻っていった。
「な、何あいつ……? カイちゃん、あの霊影くんと知り合いだったの……?」
亜美ちゃんが、ゴシップを察知したような目で、小声で聞いてくる。
「なんか、すごい睨まれてたけど大丈夫?」
前の席の佐藤くんも、オドオドしている。
「ううん、全然! ただの気のせい、人違いだよ!」
私は引きつった笑顔で返しつつ、ノートを開いた。
講義が始まる安心感よりも、休み明け早々に「過激派の祓い屋」にロックオンされてしまった頭の痛さの方が勝っている。
『ねぇカイ、あいつ『水無瀬』って呼んだよ? カイの苗字を呼んでいいのはミズチ(夫)だけなのにぃ!』
おまけに胸元のミズチは、明当違いな方向で嫉妬の炎を燃やし始めているし……。
私の大学生活、GWが明けてもやっぱり前途多難すぎる!!
◇
キーンコーンカーンコーン……。
午前の講義終了を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、私は光の速さで教科書をカバンに詰め込んだ。前方の席で靈影暁人がこちらを振り返るよりも早く、亜美ゃんの腕をガシッと掴む。
「亜美ちゃん、 食堂行こ! 今すぐ行こ、餓死する!」
「えっ、あ、うん!? カイちゃんすごい気迫だけど、いいよ!?」
「おい、水無瀬――」
背後から低くて鋭い声が聞こえた気がしたけれど、完全に耳のシャッターを閉じた。
(アンタの相手(決闘)なんかしてる暇無いの! こっちは、一刻を争う限界状態なんだからね!!)
朝のあの不条理な大転倒のせいで、コンビニで買ったパンすら食べ損ねていたのだ。
(ぜんぶ、あの三白眼のせいだ‼️)
一応、足首から大人しくカバンの中に移動していたミズチには、授業中に周囲の目を盗んで、買っておいたあつあつの鳥さんをこっそり差し入れておいた。
『むにゃむにゃ、鳥さんおいしいぉ……』
カバンの中から、満足げな声が聞こえていたけれど、ミズチが満たされた一方で、私の胃袋は完全に空っぽ、むしろ飢えているんだ!!
食堂へ移動する最中にも、私のお腹は「ぐぅぅぅ〜〜〜っ」と、かなり盛大な音を立てて鳴り響いた。
(うっ……恥ずかしい……! 亜美ちゃんに、バッチリ聞かれた気がする!)
なんとか食堂に滑り込み、日替わりのガッツリ系定食を購入。あみちゃんと席に着くなり、私は朝の残り物の菓子パンと一緒に、それらを猛烈な勢いで胃袋へと収めていった。
「(っω<。)クゥ、腹に染みる……!!」
じわぁぁぁっと、五臓六腑に染み渡る炭水化物と脂質の旨味。ミズチに吸い尽くされてコケかけていた頬が、一気に生き返っていくような心地がした。やっぱり人間、飯を食わなきゃ戦えないわよ!
「カイちゃん、本当によっぽどお腹空いてたんだね……。あ、お水おかわり持ってこようか?」
「ふぉふぉふ、ふぁんふ(ありがとう、亜美ちゃん)」
口いっぱいに、パンを詰め込んだまま涙目で感謝する私。
すると、足元のカバンの中から、鳥さんを完食して元気いっぱいになったミズチが、お腹を膨らませながら脳内で無邪気に話しかけてきた。
『カイ、ご飯おいしい? でもね、ミズチは知ってるよぉ。あそこの窓の外の廊下に、さっきの生意気なきつね(狐)使いの男が、すっごく怒った顔でカイを探してウロウロしてるもん。ミズチ、やっぱりお外に出て、あいつをペッて――』
(ゲッ!! もう追ってきたの!? あいつどんだけ執念深いのよ!!)
窓の外の廊下へと、チラリと視線を向けると、確かに人混みの中で、一際目立つ長身とピリピリしたオーラを放つ靈影暁人の黒髪が見え隠れしていた。激おこで獲物(私)を捜索中である。
私は慌てて残りの唐揚げを口に放り込み、エナジードリンク(朝の2本目)の缶を握りしめた。
美味しいランチに感動したのも束の間、私の大学生活初(?)のリアル逃走劇は、まだまだ始まったばかりだったのだ。
平穏ってどこに、行ったのよぉぉぉぉお!!




