帰らなくたっていいよ
「帰れないよ、堤防の入り口は潮が満ちて下の岩場はもう」
「別にちょっと足が濡れるくらいでしょ、そんな大袈裟な___」
「少なくとも全身浸かるし、流れも早いからまともに歩けないし流されるだけだよ」
なんだろう、何今更怖くなってるのかな。元々ここに飛び込んでしまうつもりだったのに。
「どうした、手が振るてるけど。具合でも悪いのか」
「……いや、なんでも……ちょっと肌寒くて……」
「こんな夏場に肌寒いなんてよく言えるね。汗びっしょりだし」
「そんなこと、そんなこと……」
教室で浴びる冷ややかな目線が閃光のごとく蘇ってくる。
家や社会で感じるプレッシャーが重くどしんとのしかかってくる。
責任、責任、責任、どうすればいいのかどう片付ければいいのか堂々巡りが止まらない。
怒りも焦りも呆れも全てがごちゃ混ぜに脳みそという丼で掻き回される。
頭に血が昇り手足の先の血がサーっと引いて呼吸が荒くなっていく。
日が落ちてまた朝がきて日が登ればまた同じ明日が始まる。
もう全部めちゃくちゃだ…もう全部めちゃくちゃだ……もう全部めちゃくちゃだ!!
もう全部___
「終わりにしてしまいたい……」
気がつくと私は彼の目の前でうずくまり泣きじゃくっていた。顔はぐしゃぐしゃで、手は涙でびしょ濡れだった。
涙が出なくなるまでお互い喋らずただじっと打ち寄せる波を見つめていた。
しばらくして、彼が私の方を向き一瞬だけ下を見て、重たそうな口を開いた。
「やっぱり、お嬢さんもそうだったのか」
「え……やっぱりってどういうこと?」
「どうせ辛くなったかなんだかでここに来たんでしょ。何をどうするつもりだったかは知ったこっちゃないけどね」
「知ったこっちゃないって、見れば分かるでしょ私ここから___」
「そんなの聞かされたところでどうにもならないんだよ」
「……」
「お嬢さんに死ぬなとは言わない、でも目の前で人を見殺しにするつもりはないよ」
「そう……あのさ、さっきから気になってたんだけど、私“お嬢さん”って名前じゃないから、ちゃんと名前で呼んでほしいかも……」
「なんて呼べばいいかな。あ、ちなみに俺も“あなた“って名前じゃないんで、“あーや”って呼んでね」
「じゃあ……かなって呼んで」
そう言うと、終始冷静だった彼の様子が少し変わった。
「んえ!?い、いやぁ……え?下の名前だよね?」
「上の名前で呼ばれると思い出したくないこと思い出しちゃうんで」
「ああ…そう、いや、女の子を下の名前で呼ぶの初めてだからさ、変に緊張しちゃって……」
「へえ、男の子ってみんなそういうもんなの?私あなたくらいの男の子と話すの初めてなの。お互い初めて同士だね」
すると彼は更に焦りはじめた。
「おいバカ!そんな……初めて同士だねとか……なんかその、“そういう表現”をすると誰か来たときに誤解を招くだろうが!」
「“そういう表現”って何?」
彼はモゴモゴとした様子であった。どうやらこの質問への返答に迷っているらしい。
「いやあ……その……」
「それと、今は潮が満ちて下の岩場を歩けないというのに、誰がこんなところに来れるのかしら」
「まあ……確かにそうだね」
と言って彼は少し微笑んだ。
しばらく時間が経ち、日は水平線の下へ沈み夕焼けの雲がどんどん深い朱色へと変わっていく。
「えーと、かな……さん……まだ潮が引くまで時間があるけど。帰らなくてもいいのかい?まあ帰れないだけどさ」
なんだろうとても不思議な気分だ。防波堤を登ったときは飛び降りる気しかなかったのに、なぜか今はそんな気もしない。
ただただ、今の状況と風景を眺めているだけで満足というか、なんかそういう気分だ。
「帰らなくたっていいよ、親への言い訳は今から考えればいいじゃない」




