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四杯目 『大江山の鬼医者、考え始めるの巻』

 見るも無残な姿で歩いて大江山にたどり着いた白童は、施薬院の自分の部屋で倒れこむと、丸一日眠っていた。

 気が付けば翌日の夕刻になっている。やっとのことで起き上がり、悲田院に顔を出した白童のやつれた姿見て玄翼は破顔した。

 玄翼は日本でもたぐいまれなる能力の高い天狗だ。人の心を簡単に読む。

 彼は白童の記憶を走馬燈のようにざっと読んだようだ。たしかに、一晩で経験したことは、ちょっとした人気の読み本よりも間抜けで抱腹絶倒な展開だろう。

 玄翼は自身を黒い翼に包んで笑い続け、翼の中でむせている。

「玄翼! 笑いすぎだ」

「ああ、いや、すまぬ。気の毒なことをしたな」

「気の毒だとは全く思ってないだろう!」

「ああ、思っていない。それにしてもひどいものだな。気に入った遊女の一人でも見つかれば、一歩前進かと思ったが……」

「男の中の男には会えた」

 白童は胸を張って言った。

 実際、あれは一つの天命の出会いだと思った。彼の言った言葉は、山に登ってくる間の白童にとてつもなく沢山のことを考えさせたのだから。

「小島屋の店主のことを言っているのか」

「そうだ。頼むから頭の中をのぞく前に言ってくれないか。超絶不公平な気分になる」

「私は、男を探しにいけと言ったのではないぞ。しかも、弟子入りを断られるとは、蘭学者先生のところを破門になって以来、二度目だな」

「いちいち傷口に塩をぬるな。それより、何か変わったことはなかったか」

 悲田院では、いつものように年寄りが赤子たちの面倒を見、年寄りができないことを、成長した子供達が手伝っている。

「大丈夫だよ。おかえり、白童」

 悲田院の隅で、年長の子供に手習いを教えていた朱峰が白童のところまでやってきた。

「長介はあれから熱がすぐに下がって、もう、食欲もある。お美和さんは、ほら、あそこで采配中だ」

 朱峰が視線を向けた先には、美和が椅子に座りながら、年長の童を指導して夕食の支度をさせている。小さな子供には遊び道具の片づけを命じ、子供なりに藁の人形やら、木でできた動物などを一か所に集めている。

「なるほど。あとでもう一度足の具合を見ておく。留守の間、ありがとう。助かったよ。朱峰」

「いつでも。もっと当てにしてもらえるほうが嬉しいですよ。白童。そうそう、みな、読み書きがずいぶん上達しました。見てください」

 朱峰がそう言って、書の手習いを白童に見せた。

「お志乃はもともと達筆でしたが、今では小さい子の習字をみてくれるようになりました」

 『おしの』と署名をした書を朱峰が白童に差出した。几帳面で、柔らかい字が並んでいる。見る者の心を癒す字だ。

 見れば志乃は子供達が習字の片づけをするのを一緒に手伝っている。

「朱峰、今、少し話をしたいのだが、時間をもらえるだろうか」

「急いで戻る予定はありません。今晩も都にお泊りかもと玄翼様より言い預かっておりましたから」

 そういえば、玄翼がいつの間にかいない。大方、長老たちに自分の情けない有様を報告しに行ったのだろう。だが、自分にはやるべきことがある。

「悲田院の一角ではなく、しっかりした寺子屋を建てたいと言っていた話なのだが」

「ええ。ここはお年寄りも子供も一緒で、いいときもあるのですが、子供が勉学に集中するのは難しい環境です。なので、少しの時間でもいいので、家事と隔離した空間を作りたいのです。そのほうが身につく」

「最初、これ以上の場所を用意するのは、大江山の妖達の手前むつかしいと思っていたのだが、一つ考えが浮かんだ」

「本当ですか? 聞かせてください」

「今、どのような妖一族にも、人の世の中で暮らしていきたいと思うものが増えたことは知っての通りだ。調べて記録を取ってくれている其方が一番よく知っていると思う」

「はい。それが何か」

「だが、実際、いきなり人の世に出て行って、うまく溶け込めず行方不明になったりするものがいる。もっと悪い場合も聞いている」

 そう、妖とわかって祓われてしまったり、厄介ごとに巻き込まれて殺されてしまったりだ。

「そうですね。向き不向きもあると思いますし、人の世の知識が足りないのかもしれません。ま、経験してみないとわからないことは山ほどありますし」

 妖達が人の世とどのようにかかわるかの明確な規則はない。ただ、人間社会に目を付けられるような決定的な悪さは見つかれば厳重注意を受けるか、より能力の高いものに祓われ、抹殺される。人の社会に出ていくなら、あくまでも人として溶け込むようにという規則はある。妖としての力は封印するのが原則だ。ただ、人に溶け込むために必要な、多少の人への記憶の操作や商売としての八卦見くらいは許される。つまり、ある程度の人としての能力を発揮できなければ、稼げもしないし、生活もできない。妖達にとっては、言葉の通じない外国に突然行くような難易度がある。だが、いったん人の社会に紛れる決心をするなら、うまく順応してほしい。間違っても罪を犯したりなどしてほしくない。

「そこでだ。寺子屋を、妖達の人の世への適応を見る場として初めてみてはと思ったのだ」

「それは、妖達が人の世に出ていく前に、寺子屋で人間と触れ合って、知恵を得ていくということを言っていますか」

「そうだ」

 これは、大江山に登ってくる道すがら、恵司郎に言われて考えていたことの一つだ。酒に強くなるよりももっと確実に、妖の長老たち、いや、この里に住む、妖全体の支持を得られれば、ここを妖にも大切な場所なのだとわかってもらえれば、価値は上がる。守れるかもしれない。

 朱峰の胡桃のような目の中で、黒い部分がくるりと動く。寺子屋という名の妖と人間の交流場所という提案について、じっくり考えているようだ。

「いいかもしれません。というか棲み分けもしやすい。妖達は夜のほうが動きやすい。なので、座学を夜にやって、昼は寺子屋の手習いで子供として一緒に手習いをする。なら、徐々に人の世のことを学ぶでしょう」

「そう思うか」

「ええ、いい考えです。早速具体的に考えてみたいです。そうですね。実際に人の世に溶け込んだあとに、妖達が巻き込まれた問題なども調べてみたいです」

「そうか。なら、私は長老たちにその計画について明日にでも打診をしておく」

「いいですね。私も都で暮らす妖達のところに行って、話を聞いてみます」

 そういうと、朱峰は手習いの片づけが終わったのを確認し、帰っていった。

 夕飯の支度がそろそろ終わるころだ。

 白童はあれこれ指導中の美和を背中に負ぶって、いったん施薬院に戻った。

 美和の足は膝の腫れがずいぶん引いている。 

 昨日の夜は朱峰が消毒をし、薬を変えてくれたと言っていた。膝の切り傷もだが、美和は足首をひねっていた。年寄りの捻挫は治りが遅い。特に足は自分の重さだけで治りを遅くする。

「お美和さん、あまり無理せずに寝ていればいいものを」

「じっとしてるのがいやなんです。じっとしてたら、厠にも行けへん。そのうち足がなまって動かんようになる。先生だって知ってるでしょう」

 美和はそう言って、動くほうの足だけでもくねくねと足首を曲げている。今では、美和は最年長だ。だが、美和がここに来た十年前、山に捨てられたり、自ら山に入ってきたりした年寄りの中では、まだ美和は若い方だった。息子の嫁の子供達に十分に食べさせたくて、自分が自ら山に入ったと言っていた。まだまだ働き盛りだった。

 美和は年長者の世話を熱心にし、数多く看取ってきた。

「治ったら、ちゃんと、動くようにこちらも考えるから。厠も、年長の子供に支えてもらっていけばいいだろう。動けば動くほど治りは遅いのだ」

「そうはいってもね。あの子達を早く一人前にして、都に帰してやってほしいし」

 美和は扉の向こうの悲田院の方を見た。

 子供達には物心がつく年になったら、都の生活に戻している。たまに残りたいという子供もいるが、この狭い世界で、人として生きていくことの寂しさを年長者から伝えてもらっている。彼らが都で新たな人生を始めるには、どこに奉公に出してもやっていけるように仕込まなくてはならない。

「あせらずともよい。ここは無くならないから」

 無くならない、いや、無くしてはならない。有言実行を成し遂げるために白童はあえて口にした。

「それはそうと、先生のほうは? 筆おろしはできたのかい」

「お、お美和さん……」

 女性の口からその言葉を聞くことほど生々しいものはない。首筋からちりちりと血が上っていくのがわかる。額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐった。

「その分やとやっぱり駄目やったんですね。ま、無理もないと思いますけど。いきなり島原やなんて玄翼様も殺生な」

「な、な、な……」

 二の句が継げないどころか、まともな単語も出てこない。なんで話が筒抜けなのだ。そう言おうとしているのを察したのか。美和が言った。

「施薬院で話していることなんて、筒抜けですよ。先生」

「つ、つ、つ……」

 茹蛸のようになっている白童をよそに、美和はまだ言い足りないというように恐ろしく深いため息をつきながら言った。

「私がもう少し若かったらねぇ。と言っても、娘っ子のお志乃ちゃんもまだまだ子供やし。何とかお力になりたいけど、こればっかりはなぁ」

 頭上から火が噴いた気がした。両手で自分の両頬を抑えた。少しでも温度を下げなければ貧血で倒れそうだ。

「ち、ち、力になってくれなくともよい……」

「あら、先生になら操を捧げてもいいって思っている人も妖さんもいると思いますよ。少なくとも、蒼親様によりは」

 蒼親はたまにここにやってくるが、人を召使か物として扱う。まるで、都でたまに見かけるお武家やお公家のようだ。当然、皆、遠巻きに見ている。蒼親が訪ねる相手はたいてい、白童か朱峰、もしくはここで油を売っている玄翼なので、悲田院の者と直接話をすることはない。けれど、蒼親は体も態度も大きく、顔の造作も派手で鋭く、怖い印象を持たれがちだ。とはいえ、意外と蒼親は人を大事にしている。特に、蒼親の管理している組織で働き始めた年長者には手厚い。彼らが言うには居心地もいいのだという。農作や農作物を使った味噌、醤油、酒などの仕込みに職人として入った頭たちも蒼親のことを厳しいとは言っても、悪くは言わない。

 山を登ってくるときに考えていたのは、やはり蒼親との話し合いだ。

 玄翼は蒼親が主になれば、ここを残さないと言ったが、蒼親にとってもここがよき場だという認識を持ってもらえればいいのだ。そのためには蒼親が管理している農業生産のことをよく知りたい。彼が何を求めているのかを把握したい。相手と話すには相手のことをよく知ることからだ。

 白童は今までの自分の視野の狭さに恥ずかしさがこみ上げた。この場所さえ残してもらえればいいと思っていた自分は、大江山の主の息子だという立場にどこか甘えていたのだ。

 蒼親様はどうも苦手でという美和に蒼親もそう悪いやつではないと言いかけ、外が騒がしいのに気が付いた。続いて、遠くで悲鳴が聞こえたような気がして、白童は立ち上がった。

「悲田院の方やわ! 先生、あれ、お志乃ちゃんの声?」

 立ち上がろうとした美和を白童は手を出して止めた。

「お美和さんはここにいて」

 扉を開けると、悲田院の扉の前に人だかりができている。ざっと、人が割れたかと思うと、今話にでていた蒼親が志乃を脇に抱えている。まるで人さらいだ。年長者たちが口々に懇願するように蒼親に手を合わせている。その足元で歩ける子供たちが年長者たちの間で、志乃を見上げて泣いている。

「蒼親!」

 のしのしと歩いてく蒼親の前に白童は立ちふさがった。志乃は声も出せずに震えている。涙で目が真っ赤だ。

「おう、帰ってたのか。この娘、借りていくぞ」

「お志乃をどうするつもりだ」

「なに、ちょいと酌をしてもらうのさ」

「だめだ! まだ、子供だ。お志乃を放せ」

「けちけちすんな。今日は、今年の味噌が出来上がっためでたい日だ。後で宴会をするからお前も来い」 

「酌が必要なら俺が行く。まず、お志乃を放してくれ。怖がっているだろう」

 志乃の懇願するような目が白童を見ている。親に売られ、おびえながら遊郭から逃げてきた身だ。大体、まだ、十かそこらの娘に酌をさせるなどもってのほかだ。

「ははあ。お前の嫁にするつもりだったのか? なら、余計に妖達に慣れさせるのがよかろう。茨木の館で花嫁修業をさせてやろう」

「違う! お志乃は……。とにかく放せ」

 白童は蒼親の肩に手をかけた。

 と、蒼親は片腕で白童を払いのけた。白童は突き飛ばされてよろけるも、なんとか踏みとどまったが、その風圧で回りに群がっていた年長者たちがなぎ倒され、しりもちをついている。子供達の泣き声が高くなる。

「乱暴はやめろ!」

「ここから人を調達するのは初めてじゃない。白童、何をそんなに怒っているんだ」

「子供に手を出すな。蒼親。もしお志乃を力づくで連れてくというのなら、私にも考えがある」

「ほう? どんな?」

 蒼親の目がすうっと細くなり、志乃の腰から手を放した。へなへなと志乃が座り込み。足を引きずりながらやってきた美和に抱きかかえられている。


 その朝の京の都では「小島屋」の店先で、恵はいつものように男姿で店の掃除をしていた。店の奥の品ぞろえが少々寂しくなっている。

 小島屋の酒の仕入れは大きく三か所からしている。基本、近隣の京都の酒蔵の酒は正次郎の時代から、無くなり次第持ってきてくれる仕組みになっている。

 それ以外は数日置きにまとまった他所酒の入荷がある。

 一か所は奈良、南都から、もう一か所は伊丹からだ。南都からは仲介業者が予め発注していた銘柄を契約の酒蔵から集め、馬と船を使って運んでくる。伊丹からの酒は凛の嫁ぎ先の湖鷺家が集荷と運搬を担ってきてくれている。

 数日前に届いた凛からの手紙に、今日あたり、婿の平右衛門が江戸に立つ前に寄って入荷してくれると書いてあった。

 まだ小島屋が酒蔵だった時、湖鷺屋と小島屋はお互いに酒を仕入れあっていた。すでに江戸へ酒を運んでいた湖鷺屋は、大奥向けの甘口の酒も京都から運んでいた。公卿が命名する雅な名前も気にいられている理由の一つだと正次郎が言っていた。

 平右衛門はそのころから先代についてよく都にやってきていた。先代と正次郎がよい付き合いをしていることもあり、先代は度々、商売の間に平右衛門を小島屋に何日か預けて出かけることもあった。すでに下り酒として有名になっていた湖鷺屋には接待をしたりされたりということが頻繁にあったようだ。平右衛門が預けられていたのは、恵が恵司郎という男児として小島屋に来る前からだった。

 初めて平右衛門を紹介されたときのことを覚えている。まだ恵の日本語がたどたどしかったころだ。

 正次郎は平右衛門に日本の遠方から預かった子供で、こちらの言葉がよくわからないのだというと、平右衛門はいつもゆっくりした言葉で恵に話しかけた。その時、いつも、恵の瞳をじっと見つめていた。この国の人のように恵の瞳は漆黒ではない。微かに茶色い。それが不思議だったようだ。

 だが、一度もなぜ瞳が茶色いのかとは聞いたことはない。平右衛門は凛とも仲良くしていたが、小島屋に突然、年の近い男児が来たことで、恵を外での遊びによく連れだした。虫取りや釣り、雨の日は正次郎の碁盤を使って五目並べをして、勝った、負けたと言いあって笑いあった。

 年を経るにしたがって、凛を家において、二人で遊びに出かけることも多くなっていった。恵自身、平右衛門と一緒にいるのが楽しかった。ふっくらした顔つきで、笑うと恵比須顔になる平右衛門は見かけ通りの優しい気質だった。そのうえ、物事をよく知っており、知らないことに出くわすと、知っていそうな人にすぐに聞いて自分の知識を広めていく。知らない土地で、礼儀を重んじる国なのだと知って、こわごわ生活していた恵に、どこまでなら聞いていいのか、どのような身分の人にどのように接すればいいのかなどの多くを平右衛門から学んだ。

 ある日、さんざん遊んで平右衛門を伊丹に見送ったあと、凛の様子がおかしいのに気が付いた。どうしたのかと聞くと、凛は平右衛門が好きなのだと言った。けれど、平右衛門は恵が好きなのではないかと思うとも。

 七つになれば、男女は別々に行動するべきというのがこの国の習わしだ。凛には許されないのに、恵が四六時中、平右衛門と一緒にいることにやきもきしているのが明らかだった。だが、平右衛門はそのころ、恵を男児だと信じていたから、頻繁に二人で出歩いていたのだ。それに、平右衛門が凛のことを特別に大事にしていることは恵が一番よく知っていた。

 恵は、凛の気持ちを義父の正次郎に話した。正次郎は驚いていたようだったが、そんな年になったのかと笑った。その横顔が笑った顔なのに少し寂しそうだと思ったことを覚えている。

 後日、正次郎は伊丹に出かけた。二人のことを先代と話をしたようだ。翌年、二年後に祝言を上げる約束を取り交わし、二人はいい名づけ同士となった。

 平右衛門が十九、凛十五、そして、恵が十七の年だ。お凛はそれから、本格的に花嫁修業に励んだ。一日一日と美しくなっていくお凛を見ているだけで、楽しかった。

 逆に、正次郎は、何とかして恵を女性に戻してやろうとあれこれ考えていた。だが、恵は、望まないことを早いうちに伝えていた。何としてでも、正次郎と一緒に酒を造ってみたいのだと。あの時、正次郎はそっと目頭を押さえて、わかったと言った。

 だが、そんな日はやってこなかった。

 掃除を済ませると恵は神棚に湧き水を供え、長い間、手を合わせて、店の商売繁盛と家内安全を祈った。

 外で荷車の止る音がしたと思ったら、訪いを入れる柔らかい声がした。懐かしい平右衛門の声だ。恵は扉を開けた。そろそろ、暖簾をだそうとしていたころだ。

 馬に荷車を引かせた平右衛門が立っている。

 荷車に積まれた樽の藁が陽光を浴びて白く輝いた。

「恵司郎さん。配達に伺いましたよ」

「平右衛門さん。ありがとうございます。お忙しいでしょうに。わざわざ恐れいります」

 他に人がいるときには、どんなことがあっても、平右衛門は恵を恵司郎と呼ぶ。最も、平右衛門の前で女性の装いをしたこともない。だが、平右衛門は恵が本当は女子だと知ってから二人きりのときは、何かと気を遣ってくれるようになった。

 運んできた樽を使用人たちが小島屋に運び込み、恵の指示に従って店の奥の蔵に納品されていく。威勢のいい掛け声とともに、店に酒が並んでいく。

 湖鷺屋の酒は幕府御用達となってからは大阪でも手に入りにくい。もちろん、ここ、小島屋に卸してもらっている諸白の「菱雫」は特別に配分してもらったものだ。江戸城と同じ酒を求める辛口好きのお公家や神社仏閣から声がかかる。

 そして、湖鷺屋は樽廻船の復路で仕入れてきた東北の酒を一緒に卸してくれている。この小島屋が小さい店なのに西一番の品ぞろえの請負酒屋を誇れているのは何といっても、平右衛門のおかげだ。

「恵司郎さん、最近の都のおすすめを教えてください。江戸への廻船に乗せるので、酒を樽でいただいていきますよ。できるだけ上品な甘口で。取引を始めた料理屋で評判でね。銘も、できるだけ雅なものがいい」

 恵は、裏通りにある同じように湧き水で酒を造っている鴨田屋の酒を勧めた。

 杉の盃で味も見てもらう。

「銘は『初紅葉』です」

「すっきりした甘みだね。これを樽で」

「平右衛門さん。前々から言っているように、家から仕入れるよりも、ちょいと裏通りに行って、直接酒蔵から買い付けたほうが安く済みます」

「いいんだよ。恵司郎さん、これは先代の時代からのことだから」

 そういいながら、代金を早々に恵に握らせた。

 恵の指さした『鴨田屋』の樽を運びだした男たちに、平右衛門は小遣いを渡して先に船着き場まで行くように伝えている。都から江戸へ荷物を渡す際は、たいてい、小口を馬借問屋の馬で、そのあとは船で神崎から伝法まで運ぶ。

「恵司郎さん。少し話ができますか?」

「ええ。平右衛門さんのご都合さえよければ」

「大丈夫です、今日はことさら早く出てきましたから」

 馬の足音が聞こえなくなるころ、そういって、平右衛門は店に入って扉を閉めた。誰にも聞かれたくない話なのだと分かって、持っていた暖簾をいったん座敷に置いて、平右衛門を座敷に招き入れた。

 恵は手早く、茶を入れて出しながら聞いた。

「お凛は元気ですか?」

「ええ、元気です。今では母より家のことをよく知ってくれていますよ。使用人の家族のことも気にかけてくれていて、助かっています」

「それはよかった」

 昔からお得意様の名前も、客の好みの銘柄を覚えるのも得意な子だった。恵も、よく来てくれる客のことはよく覚えていたが、時に、凛のほうが細かい内容を覚えていた。おかみさんが一緒の時には、こちらの銘柄、おひとりで来られるときにはこちらの銘柄と凛に教えてもらったことがある。

 湖鷺屋のお内儀になったのだ。きっと重宝されているに違いない。

 ま、もっとも、恵にたまによこす手紙は平右衛門のことばかりで、惚気ばかりだったが。

 こんなに惚れた相手に嫁げたのだからこれ以上の幸せはないだろう。本当は、平さんは、お恵ちゃんが好きなんじゃないかと、凛がしゃくりあげて聞いたのは遠い昔の思い出だ。

「お恵さん」

 平右衛門は初めて恵の名を口にした。何を言いに来たのかはわかっている。

「正次郎さんの三回忌が終わりました」

「はい」

 二年前、湖鷺屋に女性として来てくれと言ってくれた時、恵は供養をしたいからと断っている。だが、本当の理由は違う。ここで隠していても始まらない。

「平右衛門さん」

 恵は平右衛門に向かって手をついた。

「どうしたんです」

「お願いです。私を男のまま、湖鷺屋で修行させてもらえませんか。酒造りを覚えたいんです。小島屋の酒を復活させたいんです。何年でも頑張ります。一番下の働きからでも、炊事でもなんでもいいんです」

「お恵さん……」

「父に恩返ししたいんです。この通りです」

 男のまま一生過ごすつもりだ。酒蔵を復活させられたら、一生一人でも構わない。

「いいえ、駄目です」

 平右衛門はきっぱり言った。断られることなど織り込み済みだ。恵は頭を下げ続けた。

「お願いします」

「お恵さん。無理なんです」

「どうしてですか? やはり私が女だからですか?」

 何十人も働く酒造りの現場だと、女であることがばれると思っているのだろうか。

 平右衛門は恵の手に自分の手を重ねた。

「顔を上げてください」

 見上げた恵の前には、厳しい表情の平右衛門の顔がある。

「お恵さんが女だから。もちろん、それもあります。酒造りは力仕事です。冬場は昼夜問わず働くことになり、体力的にも大変な仕事です。女の体力でできる仕事ではありません」

「それくらいの覚悟はできています。力仕事に耐えうるくらいの修行はしています」

「お恵さん、理由はそれだけではありません。私も先代も、正次郎さんからあなたの今後についてよくよく頼まれているのです。お役人の追手を恐れて、男の子として育てたのを後悔している、女としての幸せに導いてやってほしいと頼まれているのです。それを無視するわけにはいきません」

「私はそれを望んでいません。私はここを守りたいのです。酒蔵として復活させたい。都で何軒もの寺社にお納めしていた名高かった『華の雫』を」

「正次郎さんはそれを望んでいませんでしたよ」

「それは、あの時自分が死ぬと覚悟しての諦めから来た言葉だと思っています。請負酒屋の実入りも安定してきているから、お凛を嫁にだしたら、造り酒屋に復活させようと二人で話をしていました。あの時、流行り病になどかからなければ、今頃は……」

 そもそも、八年前、自分があの若狭の海で一人生き残らなければ、正次郎は酒造りをあきらめることはなかった。

 恵の瞳に涙がたまった。こんなところでめそめそするから女だと言われるのだ。恵は手ぬぐいでぐっと涙をぬぐった。

「どうか、もう一度考えてみてもらえませんか。平右衛門さん。私は恵司郎として生きたいのです」

「それは承知できません」

「なぜです」

「そんなことをして貴方が幸せになれるとは思えない。もし、酒蔵に嫁ぎたいというのなら、ご縁を探しましょう。そうだ、なんなら、凛の傍で、湖鷺屋の商売を手伝ってもらいながら、ご縁をさがしてもいい。ご縁が気に入らなかったら、ずっとうちにいてくれてもいいんだし」

 平右衛門の顔が急に明るくなる。いい考えだと何度も頷く。昔から平右衛門はいい考えが浮かぶと、周りに誰がいようが一人うわの空で、考えをどんどん膨らませ、先へ先へと進めてしまう。

「平右衛門さん……」

 その思考を止めるように恵は平右衛門の名を呼んだ。

「私はお恵さんを女子の姿で、嫁ぐ姿を見せると約束したのです。正次郎さんのご位牌に」

 いったん女子になってしまえば、もう二度と杜氏の元で修行することはかなわないだろう。

 平右衛門が女に戻れと言っていることと、酒を造るのをあきらめるということは同義だ。だが、どうなのだろう。平右衛門が言うように修行ができないなら、湖鷺屋の事業を手伝って商いの修行をしつつ、だれかを杜氏にたてて古酒から味わいを復活させる酒蔵を始めるというのは。

 いいや、居候の身に自由が利くとは思えない。そのうえ、女になればたちまちのうちに縁談が持ち込まれ、自分は断れなくなる。世話になっているのだからと、誰かと結婚しようとするだろう。そしてこの夢は永久に葬られる。この夢をあきらめて結婚して私は幸せになれるだろうか。

 一瞬目を閉じて思い描く、誰かとの未来。

 いや、無理だ。

 脳裏に浮かんだのはさみしく年老いた自分の背中だ。

 恵は首を横に強くふった。

「私が一生後悔します。私は女に戻ることを望んでいないのです」

 平右衛門の顔から表情が消えた。どんなに真剣な顔をしていても目元にどこかやさしさの残る表情は再び厳しいものになった。やるせない怒気も含んでいる。

「わかりました。今日のところはこれで帰ります。けれど、私はあきらめていません。私は貴女に女子として生きてほしいのです。……こんなのは、こんなのは不自然だ。この店を守る義理はないと正次郎さんも言っていた!」

 平右衛門の口調がだんだんと荒々しくなる。こんな平右衛門を見るのは珍しい。五目並べで負けたって、ろくに魚の釣れなかった日だって、こんな日もあると、妙に大人な子供だった。何にいら立っているのだろう。

「そもそも、なぜもっと早く言ってくれなかったのか……もしお恵さんが女だと知っていたら、私は……」

 平右衛門の目がまっすぐに恵の瞳を見つめた。こんな風に見つめられたのは、最初に会った時以来だ。あの時もこんな風に熱っぽくその瞳を覗き込んでいた。

 義理の姉として説得していたはずの平右衛門の手は今、恵の両手をしっかりと握りこんでいる。今にもその胸に引き込みかねない。

 恵はとっさに、平右衛門の手を振りほどいた。

「お恵さん!」

「平右衛門さん。お引止めしてすみませんでした。今の話は忘れてください。妹の旦那様であることに甘えていた私が悪かったのです。どうか、お帰りください。納品いただきありがとうございました」

 平右衛門が何かにすがるように、再び恵に手を伸ばした。だが、恵はじっと前だけを見て、両手を膝の上に正しく並べ、深々と頭を下げた。

 しばらくの沈黙のあと、前から衣擦れの音がした。草履に足を入れる音に続いて、木戸が開いたのがわかった。少しずつ草履の足音が遠ざかった。

 顔を上げた恵は土間に降りて、ぽっかりと人一人分空いた木戸をゆっくりと閉めた。上がり框に両手をついて深く息を吐きだす。そして、そのまま土間に座り込んだ。

 平右衛門のあの表情、知らなかった。いや、勘違いかもしれない。けれど、これでもう、湖鷺屋に頼る道はなくなった。

 明日から近隣の酒蔵を回って、酒造りの手伝いをさせてもらえるか聞いてみよう。そのためには、店を任せられる人を雇う必要もある。今ある蓄えでは少し心もとない。当面の資金繰りを平右衛門に相談しようと思っていたことを思い出して、自分の考えの浅さに肩から力が抜けた。

 恵は座敷に置きっぱなしになっていた暖簾を持ち上げると、のろのろと木戸を開け、店を大きく開けた。

 今日も恵司郎としてこのお店を切り盛りする。それが今一番大事なことだ。


「あの時の娘か……」

 玄翼は小島屋の屋根で、翼をたたんでたたずんでいる。どこをどうよりみちして白童が帰ってきたのかを知った天狗はこの小島屋に興味をしめした。

 店主の恵司郎は男の装いだが、女だとすぐにわかった。

 心を覗いてみて、彼女の出自を知って驚いた。自分が気まぐれに助けた異国船の生き残りだ。

 五年以上前だ。嵐の夜に沖を飛んでいた時、異国船が難破しかかっているのに出くわした。漂っている人影から、光が反射しているのを見て降りてみると、死にかけた男の脳裏には難破船に括り付けられた樽の中の娘が映っていた。男を救うことは出来なかったが、娘はまだ、見込みがありそうだった。

 団扇で嵐を静めて、若狭湾に船の残骸を寄港させた。

 役人に助け出されるところまでは見届けたが、人買いにあい、都の蔵元に引き取られたとは知らなかった。

「これは、しかし、使えるかもしれぬな……」

 玄翼はふっと口元に微笑みを浮かべると再度飛びたった。

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