三杯目 『恵司郎の秘密の巻』
「で、弟子? 私に教えられるようなことはなにもありません。顔を上げてください。一体、私に何を教えろと?」
目の前の恵司郎は白童の突然の申し出に驚き、あがり框で、少し腰を浮かした。
「あなたは酒についてよくご存じのようだ。私に酒を教えてもらいたい。願わくは、私を酒に強くしてもらいたいのです」
恵司郎はじっと白童の瞳を見ている。真意がどこにあるのか見極めようとするかのように。
「酒天殿、酒を飲みすぎるなというお立場のお医者様の言葉とは思えませぬが……」
「それは。そうなのですが……」
実際、大江山のふもとで助けた老人達の中には、肝の臓をやられ、仕事に復帰できないからと言って死のうとやってきたものもいた。逆に、酒で体をやられてしまい、役立たずの厄介者として家族から捨てられたものもいる。保護した中には、助けられずに悲田院で最後を迎えた人間もいたが、養生の末、体調を復活させ、大江山に農民や職人として残ったものもいる他、彼らの希望次第では家族の元に返した人間もいる。
だが、それはほんの一部だ。
多くは手の施しようはなかった。
酒の恐ろしさは自分だって理解はしている。
「私は酒を売る立場から、逆に酒で身を持ち崩した人も多く見てきました。売る立場としてもその責任は肝に銘じて商売をすべきだと先代からも教えられました。明らかに酒がもとで体調を崩されている客にはどんなに買ってほしくても、いいお客様だったとしても、お売りしておりません」
とつとつと語る恵司郎のその言葉の響きは、酒と上手に付き合えない客に酒をやめせられなかったという無念の想いでじっとりと湿っている。
「それは……おっしゃる通りだ……」
自分だってこのままで何が悪いのかと思い続けてきた。酒が飲めずとも、人は生きていける。怪我の手当の時に吸い込みさえしなければ、皮膚を縫うことさえ可能だ。気心さえしっかりしていれば、決して手元が揺らぎはしない……と、思いたい。
もし、大江山のあの場所を残してもらえたとしても、自分はもう一度医術を学びに行けるのだろうか。
思い浮かぶのは、悲田院の山奥に広がる墓石達。
山に迷い込んでも助けられなかった人達を弔っている。
一つ石が増えるたび自分にもう少し知識と技術があればと思い続けてきた。
「とはいえ、そこまでおっしゃるには、何か事情がおありなのでしょう。ご事情に納得いけば私にできることでしたらお助けしましょう」
「ありがたい」
「その前に」
恵司郎はそういうと、まずはとまた、店の奥に引っ込むと二つの椀を持ってきた。鯛の昆布締めを薄く切ったものを湯漬けに添えてある。ここで遠慮しても始まらない。白童は何度も礼を言いながら、食した。
湯漬けも湧き水を使っているのか、米が湯を含んでしっとりとなじみ、昆布の香りを引き立てている。鯛の身は程よく湯で火が通り、食べやすい。
うまい。それこそ身体にしみこむうまさだ。自然と頬がほころぶ。
それを見ていたのか、恵司郎もお口にあってよかったと頬を緩ませている。
食べながらも白童は事情をどのように伝えるかを懸命に考えていた。結界を張った、妖の里、大江山の存在をそのまま伝えるわけにはいかない。
白童は事実を言わずによく似た話を作って説明した。
自分はある古い酒蔵の跡取り息子だったが、酒の匂いだけでも酔うほど弱く、他に養子をもらってもらうつもりで医学の道に進んだ。だが、毒消しの酒にさえ気分を悪くしてしまい、そのせいでせっかく修行に入った門下から破門を言い渡されてしまった。自分は酒蔵の近くに町医者の養生所を開業したが、知識と技術が上がらないため、救える人が限られており、悩んでいたところに、先代が危篤となった。養子に迎えた、次期当主は商売を酒蔵に集中させたいと思っており、白童の診療所も中途半端な自分の技量のため不要だと思われている。家業に一切かかわれない跡取りなど不要とばかりに、養子を含め、親戚や大番頭からも邪魔者扱い。家業にかかわれる程度に、そして毒消しの酒に抵抗を無くす程度にでも酒とかかわれるようにならなければ、自分の将来も診療所の存続も難しい。ざっとこんな感じの話をし、続けた。
「小島殿はとても酒にお詳しいし、ご自身も酒にお強いとお見受けしました。どうか、私に飲めるように訓練していただけませんか」
白童は最後にそう言って、もう一度弟子入りを願い出た。じっと聞いていた恵司郎は、ふっと顔を上げると言った。
「申し訳ありませんが、私にはお手伝いできません」
「それは……」
「酒天殿が本当に守りたいものはなんですか」
「本当に守りたいもの……」
「お聞きしていると家業にも未練があおりのようだし、お医者様としての道も全うしたい。それはわかりました。けれど、酒に強くならなくとも、本当に全うしたいことがあるなら、それを成し遂げる方法があるはずです。なぜそうまでして酒にこだわられるのか私にはわかりません」
恵司郎の言葉はどれもこれも正しい。自分が周りの意見に振り回されていることも薄々わかってはいた。けれど、自分が大江山を守りたいと思っていても、周囲の支持は得られない。それもこれも、酒に弱いことが一つの躓きなのだと思っていた。だが、確かに本当に貫きたいものがはっきりしていれば、道は開けるはずだ。酒に関係なく。
守りたいものは何かと問われ、改めて、白童は自分の心と向き合った。よく考えれば、自分の気持ちなど、だれにも言ったことはない。逆に言わずとも父にも、妖の長老たちにも伝わっていると思っていた。
「小島殿のお話、もっともなことです。私は、私は何より、私を、私の診療所を頼りにしてくれる町の人たちを守りたい。病気に悩む人や怪我をした人の役に立ちたい。町の人たちが、丈夫に、どんな人生だとしても、それを全うしてくれるような手助けをしたい。進歩する医学をできるだけ早く学び、特に、流行り病で亡くなる人を無くしたいのです」
飢饉が起きれば、人の栄養状態も悪くなる、衛生状態も供に悪化すれば、たちまち弱いものから病に侵される。流行り病が広まれば、老人と子供を助けるのは難しくなる。大江山に人が捨て置かれるのはこういった悪循環の末だ。
「酒天殿、どうか、お帰りください」
「小島殿……」
白童は自分の思いのたけを吐露して、改めてやはり、自分には武器がいると思った。酒天童子の末裔に求められるのが酒の強さだとしたら、手に入れるしかないと。
だが、恵司郎の表情は暗い。何かに憤っているようにも見える。
「……酒に強い、喧嘩に強いなど、本当の強さではない。本当に強い人は自分の努力で大事な人を守れる人のことだと私は思います。私にはお助けできません。どうか、お帰りください」
恵司郎はそう言って、木戸を開けた。
自分よりもずいぶん年若いその店主の圧に押され、白童は立ち上がった。
ここを去るしか選択肢は残されていなかった。
恵司郎は湯を沸かしながら、さっきの会話を何度も反芻していた。
不思議な客だった。
誰かに酒をかけられただけで酔っぱらったというのだから、本人が言う通り、よほど酒に弱いのだろう。姓を酒天とはまた、大きく名前負けしたものだ。
火を通した酒粕の料理だけでも、酔うというお方もいるのだ。人それぞれだ。なら、なおさら下手に酒など覚えたら命を落としかねない。追い返して正解なのだ。
彼に言ったことに嘘はない。無責任な酒の売り方はしない。そうしていても、酒におぼれる人間の悲劇は身近に起きる。
この近くの長屋の職人の懐具合もそれとなく知るようになったのには訳がある。店を一人で切り盛りするようになってすぐのころ、不意に羽振りのよくなった客に望みの酒を売った。だが、娘を色町に売った金だったのだとあとで知ってどれほど後悔したかしれない。
当然、出入り禁止にさせてもらった。娘を取り返しに色町行ったが、行方不明になったのだと聞かされた。
彼女は身寄りのない禿がたどる将来を知って逃げ出したに違いない。だが、幼い女児が一人で生きていけるわけがない。今も生きているかどうかは疑わしい。そんな悲劇は絶対に避けたい。
それにしても、なんとも恥ずかしいことを言ったものだ。
本当の強さは大事な人を守れることだなどと。
恵司郎は湯を何度か半割の桶に移し、水と混ぜて体を清める熱さに整えた。
日本に流れ着いてこれまで、銭湯には行ったことはない。湯はだれにも見られないところで一人で使う。
恵司郎は着物を脱ぎ、胸にきつく巻いたさらしをとった。この胸のふくらみを抑えつけるのは年々難しくなる。自分の西洋の血が、おそらくそれをより難しくしている。
『ケイト、お前の名前は、今日から恵、そして、今日からしばらくの間、お前は恵司郎という名前の男の子だ』
養父、正次郎にそう言われたのは、おそらく、国から乗ってきた船が若狭湾沖で難破し、一人生き残った十二歳のころ。
英国からロシアに行く船に乗ったものの、嵐で船が流され、異国の島の湾に到着した。船主は貿易商で、ロシアの後、清国によることになっていた。実の父は貿易商に仕える執事で、積んできた食材と洋酒の管理をする仕事をしていた。だが、嵐に巻き込まれ、ほとんどの船員は投げ出され、一緒に旅した父親は自分をかばって海に投げ出された。生き残りがワイン樽に隠れていた自分一人だけだと検分に来た役人が知ると、自分はこの国の童の着物を着せられ、人買いに売られてしまった。
どうやら、異国の人間が流れ着いた場合の手続きは複雑で金がかかり、藩の役人が長崎に送り届けることになっているはずが、おそらく、面倒になったのだろうと後で正次郎が教えてくれた。
ケイトは人買いに小突かれながら、道端を歩いているとき、若狭で米の調達に来ていた養父、正次郎が通りかかった。正次郎は人買いと交渉し自分を買い取り、養子にした。そのころは正次郎が持っていたその金がどんなに大事なものなのかがわかっていなかった。けれど、少なくとも自分はよりましな人に拾われたのだとわかって安堵した。
じゃらじゃらと金をせしめて男が去っていくと、まず正次郎は汚れた顔を拭いてくれ、茶店に座らせ、団子を食べさせてくれた。自国の菓子とは全く違う食感の食べ物であったけれど、甘い味に心が温かくなり、ぽろぽろと涙が頬を伝っていった。正次郎はしばらくそっと手を背に充ててくれていた。あのぬくもりは忘れない。
京の都に帰り着くと、家では恵より二つ年下の凛がいた。お内儀は少し前に病気で亡くなったとのことで、数名の職人とで凛の面倒を見ていた。
正次郎は引き取った子のことを堅く職人たちに口止めをし、恵が日本語を覚え、苦労なくしゃべれるようになるまで家で育ててくれた。
最初、話し言葉の音は全く分からなかったが、難破した船に清国人が乗っており国の言葉を教えてくれていた。象形文字から発達した漢字により興味を抱いた恵は、遊びのようにして多くの漢文を覚えていた。その文字が都でも使われており、読み書きの上達を早くした。
話し言葉を教えてくれたのは主に凛だ。いまだに、男の姿をしている割に、言葉がはんなりしていて丁寧だと言われるゆえんだ。
正次郎は京都の酒蔵の杜氏だった。寺社や朝廷に献上するような酒を京都で作っていた。
『小島屋』は幕府から許しをもらって酒を造るための酒株を持つ名高い造り酒屋だったのだ。恵を人買いから買いとった金は翌年の献上品の酒を造るための米や麹を買う金だった。
正次郎は、翌年の酒株を休み株の札にしてもらうと、代わりに請負酒屋の株を取得して、今のお店を開いた。
もともと酒に詳しい杜氏が請負酒屋をしていることもあり、周囲に二百件はあった造り酒屋の酒を一か所で買えるという場所の便利さも相まって、商売はうまく運んだようだ。島原が近いというのも好条件だった。それでも、酒造りを再開できるほどの金を工面するには何年もかかった。
恵が家に来て七年の歳月がたち、やっと来年こそは休み株を返上し、酒造りを再開するというところまできていた。恵も手伝うことになっていた。ちょうど、伊丹の酒蔵、湖鷺屋へ十七になった凛が嫁ぎ、正次郎にとっても肩の荷が下りた時でもあった。
だが、正次郎は流行り病にかかり、看病のかいもなく、あっという間に亡くなった。
げっそりと痩せた正次郎は床で恵の手を握って言った。
「お恵、私が死んだら、湖鷺屋さんにお願いしてあるから、おなごとしていい人のところへ嫁げ。この店を守る必要はない。自分の幸せだけを考えればいいのだ。お前をお国に帰してやることはできなんだが、せめて自由に、生きたいように生きてくれ……幸せになってくれ……すまん」
今、恵が異国の人間で、女子だということを知っているのは、小島屋のかつての古い職人と、凛、湖鷺屋の主人、平右衛門だけだ。
恵は洗い髪を手ぬぐいでしっかり包み夜着を着こむと、店の奥の蔵に入った。
今は他所酒の樽や徳利が隙間なく置かれているが、隅には、大小の桶や櫂、火入れ用の窯などが置いてある。恵は正次郎から酒造りの手ほどきを受けるのを楽しみにしていた。正次郎はその時が待ちきれないというように、道具を使って恵に米がどんなふうに変化するのか、醸されていく酒の匂いがどんなものなのかを説明し、そして、酒を造るには生まれたての赤子の世話をするほど大変なのだと語った。
蔵の一番大きな桶の上に神棚があり、酒の休株が祀ってある。
恵は正次郎が亡くなったあと、葬儀が一段落しても商売を続けた。恵司郎という名前のまま、男として。なぜなら、正次郎の悲願だった酒造りを再開し、都人の間で名高かった銘酒「華の雫」を復活させたいと思っているからだ。今は蔵の地下に古酒が埋まっているだけの「華の雫」を。
凛の亭主、平右衛門は正次郎の四十九日が済んだころ、恵に小島屋をたたんで、湖鷺屋に来てくれと言った。伊丹なら、恵司郎のことを知っている人もいない。自分達が黙っていれば、恵を小島屋にいた養子の恵司郎だとはだれも思わない。親戚の娘が行儀見習いに来ていると言えば、だれも疑わない。いいご縁を探すから、お恵として、湖鷺屋から嫁に行ってくれと言った。
だが、恵は、今嫁に行く気はない。正次郎の供養をしたいから、せめて、三回忌が終わるまではここで商売をさせてくれと頼んだ。
供養をしたいと思っていたことは事実だ。けれども、男のままで商売を続けたいのは、もし、酒蔵の修行をするなら、男でなくてはならないからだ。おなごが酒蔵で仕事することは認められていない。
蔵にしつらえた神棚から酒の休株札を手に取った。将棋の駒を大きくしたような札。
神棚に手を合わせるたび、正次郎はあの札を見つめていた。いつか復活させたい酒造りのために。
あの客人に冷たいことを言った理由は自分でもわかっている。
自分が守れなかったものを二つとも持っているからだ。
酒蔵だという実家、そして、自ら流行り病と闘いたいという医者の志。
彼に言ったことは本当のことだ。酒に弱い人間というものは質だ。質はそうそう変えられるものではない。無理をしてもいいことなど一つもない。
恵から見ればその環境と天分はのどから手を出したいほど欲しいものだ。なのに、彼は十分活用できておらず、独りよがりな気持ちで他人に頼ろうとしている。腹を立て、追い出すようにして冷たい言葉を言ったのは、そのひ弱さに腹が立ち、そして同時に激しい嫉妬を覚えたからだ。
「大人気ないことを言ったわ……お父っさん」
恵は株札を正次郎のように両手に持って語りかけた。
けれど、あのお客人、水の味を利きわけていた。
恵は、ここの湧き水と一緒に、伊丹で分けてもらった酒の仕込み水を出したのだ。辛口の酒を作り出すという伊丹の水は硬い味がする。京都の水に癖がないとしたら、伊丹の水にはなにがしかの癖を感じる。だとしたら、酒を利きわけることもできるのではないだろうか。
恵は首を横に振った。大体、飲めないのだから、利きわけるなど……。
そんなことを考えている恵に、ふと、本当の父の声がよみがえった。
―ケイト、ワインはね。飲み下さなくても味がわかるものなんだよ―。
主人に出すために、コルクを抜いたワインの味を見ては、口に含んだワインを飲まずカップに捨てていた実の父の姿を思い出した。
「Dad……」
恵は何年も言葉にしていなかった言葉をため息のように絞り出すと、株札を抱え込んで、座り込んだ。
なぜだろう、今日はやたらと昔のことを思い出す。恵は二人の父親のことを思って、とめどなく流れてくる涙を浴衣のたもとで押さえ続けた。




