陛下からの褒美
田雷と栄明はそばの榻に仲良く並んで座った。
「さっきは悪乗りしてすまなかったな」
「炯絲のためを思えばこその親心、いや、兄心と解釈してほしい」
「これは、なんです?」
炯絲は小箱のことを尋ねた。
「おまえがいないあいだに陛下付きの宦官が届けに来た。褒美だそうだ」
陛下付きの宦官とは允巡だろう。陛下からの褒美。そっと小箱を撫でる。
「なんだろうって気になって、炯絲が帰ってくるのを待ってたんだ。さすがに勝手に開けるわけにはいかないからな」
定刻を過ぎても居残っていたのは中身が気になっていたからかと腑に落ちる。
炯絲は小箱を開けた。
「あー……」
落胆を聞き流す。
「ありがたい」
炯絲は小箱から新しい眼鏡を出した。楕円型の玻璃が銀縁に収まっている。かけてみる。
顎をさする栄明、片眉を上げる田雷の顔がはっきりと見えた。二人はもっといいものが入っていると期待していたのだろう。
だが当の炯絲には眼鏡に勝るものはない。しかもとても軽くて、蔓の長さもちょうどよく、ずり落ちてこない。心の中で、陛下のおわす宮に向かって感謝をささげた。
「なんか、あれだな」
「うん、どうもな」
栄明と田雷がささやきかわす。
「デカい黒縁丸眼鏡じゃないと炯絲って感じじゃないな」
「ああ、なんか見た目が面白くないというか」
勝手なことを言っている。炯絲は小箱の下の手紙を手に取った。
「これも宦官が持ってきたのですか」
「そうだが、女官から頼まれたものだそうだ」
わずかに気落ちしつつ、封を解いた。
『お助けください』
その一文から始まる手紙は調査の嘆願だった。
「何が書いてあるんだ」
女官の手紙に興味津々な栄明。
「読みますか」
二人が読めるように卓子に広げた。
『幼馴染みの趙元がなにやら殺人の容疑で捕まったとの噂を耳にしました。彼は故郷の町で童子を集めて私塾を開くほど賢く、たくさんの人に慕われています。きっと科挙のために都に出てきたのでしょう。後宮に仕えるようになってからは、わたしは彼と会っておりませんが、わずか数年で性格が変わるとは思えません。誰にでも優しい人です。人殺しなどできるわけがありません 春蘭』
切々と同郷人の無実を訴える文には心を打たれる一方で、書き手の希望や願いが透けて見える。数年あれば、人は変容するものだ。
「優しい心根の女官だな。会ってみたい」
栄明は細くなよやかな文字をうっとりと眺めた。
「趙元は明日取り調べをする男だな。宋君との勝負がかかっている」
「かかってない!」炯絲は訂正した。「誰であれ他人を知れるのはわずかにその一面のみ。知悉は思い込みなのです。わたしや宋時和、また英耀殿に見えている側面はこの女官には見えてないのです」
「では反故箱に入れておくか」
捨ててしまおう、と言う田雷をとめる。
「いや、使えるかもしれない」
手紙をこするとふんわりといい香りがする。ついぞ無双黒の官衙では嗅いだことのない女の匂いだった。
ふと空っぽの反故紙籠を見やる。匿名の密告は反故扱いになることがほとんどだ。
最も多いのは真偽不明の噂話で、次に多いのは誣告と讒言。敵対者を追い落とそうとする陰謀。商売敵を犯罪者に仕立て上げようと嘘八百。恋敵を排除したいと書き連ねた悪口。慎重に検討して捜査をすることもあるが、たいていは、ちらっと一瞥しただけで反故紙確定となる。
誣告は処罰の対象である。だから匿名が多い。かといって告発者の名が書かれていれば信用できるというものでもない。
「あらぬ罪で人を陥れようとするのだから質が悪い。悪意に満ちている。こういった、幼馴染みを心配する文に触れると心が癒される」
炯絲にも人間らしい心があることを、さりげなく述べてみた。
「で、どう使うんだ?」
栄明が訊ねた。
「取り調べの時に趙元に見せる。女官の思いやりと優しさに心打たれ、罪悪感が昂じれば、自白したくなるかもしれない」
「ああ」
「なるほど」
声が沈む。人間らしい心など、やはり炯絲は持ち合わせてはいないのだと表情が語っている。
一瞬だけ後悔したが、気づかないふりをして手紙を丁寧に畳んだ。勝負に応じたわけではないが、勝ちたいと思う。そして宋時和を袖にしてやる。
もししくじったら、栄明たち同僚も信用はできない。本心では炯絲を職場から追い出したいのだ。
ふと郭刑部尚書の顔が浮かんだ。刑部に異動するという手がある。
父のいた官署だ、関心がないといえばうそになる。
だめだ。膨らみかけた気持ちに蓋をする。つい逃げる方法を探してしまう、この姿勢ではどこへ行っても後悔ばかり招くだろう。
「明日に備えて早く寝ようぜ」
田雷の欠伸とともに、その夜は自然と解散になった。
離れに戻る前に炯絲は青鴻班の厠に寄った。ぽっかりと空いた排泄用の穴の下には汚物を受け止める木製の馬桶が隠されている。この馬桶を洗って汚れを掻き落とすのが、奴婢のときの仕事だった。
馬桶洗いのあとは洗濯や掃除などの雑用で宮女や宦官にこき使われていた。ほんの一年前まで苦難と絶望の中に生息した。それに比べたら今の人間関係など悩むほどのこともない。
心が挫けそうになったら、厠で初心を思い出せばいい。
ふと、脇に積まれた紙が目に入った。尻ふき用の反故紙だ。いらなくなった書類のなれのはてである。機密書類は燃やされてしまう。残った反故のうち墨汚れが少ないものは紙屋が再利用する。中途半端な紙は尻ふきになるか焚き付けになるか。
炯絲は何気なく手に取った。これまであまり気にしたことはなかったが、日付の書かれてあるものが混じっている。八年前がある。十年前もある。なぜこんなに古い紙が残っているのだろう。
「ああ」
思い出した。書類倉庫がいっぱいになったとかで、先月、翠兎班が整理をしていた。そのさいに放出された反故なのだろう。
刑部や吏部といった六部の官署も予算が限られているからきっと同じように、古い紙を揉んで厠で使っているはずだ。
「ということは、もしかしたら……」
刑部の厠には十年前の書類が尻ふき紙になって残っているかもしれない。父の裁判記録が紛れているかもしれない。
そこまで考えてばかばかしくなった。そんな都合よく見つかるわけがない。
過去の事件より、明日の取り調べのことを考えよう。
ひたすらに実績を積み、驕らずに信用を重ねていかなければならない。居場所を失わないために。




