勝負のゆくえ
趙元の取り調べは早朝から始まった。
窓のない小さな房内に蝋燭が灯っている。無双黒数人に囲まれ、手枷をつけられ、いつ終わるともしれない尋問は、容疑者に精神的な重圧を与えて不安に突き落とす。角卓越しに向かい合った炯絲は趙元の瞳に怯えを見た。
宋時和は別の卓子で書記役をしている。もう一人、ひときわ屈強な朱鹿班の男が房室の戸口をふさいで立っている。役者は揃っている。少し強めに押せば自ら口を開くかもしれない。
しかし炯絲の期待は破られた。
「小生は無実です」
趙元は怯えながらも罪を認めなかった。
「ではなぜ、官有林に行ったことがないと嘘をついた。その腕、手、足に残るかぶれはイラクサの群生に触れたせいではないのか」
「……いえ」
「寝台の下に大量のイラクサやアカザを隠していたな。森で草を刈って、寮に持って帰った。なぜだ」
「……」
炯絲の追及に趙元は頑なに答えず、うつむいている。そのようすに、宋時和が口元を緩める。
炯絲は一歩踏み込むことにした。
「その上衣は故郷を出るときから着たきりだな。袖に墨がついている」
趙元は曖昧に首を振った。
「替えの衣服と履が見つからなかった。不思議だ。支度金を支給されたであろうに。到着早々、持ち金をすべて書物に換えたのか。心細くなったろう、懐の寒さに。他人から奪いたいと思うほどに」
「まさか」
趙元はふいに顔を上げた。炯絲を蔑んでいるように見えた。
「あなたは後先考えずに金を蕩尽したのだ。そして後先考えずに強盗をしようとした。違ったかな」
もっとも、書肆でうっかりと散財をしてしまうことは炯絲にも覚えがある。書物は高価だ。だが新しい知見を得られるなら飢えやみすぼらしさなど我慢できる。
あえて強盗や窃盗をしようなどとは考えない。
やはり無理がある、と炯絲が思ったときだった。
唐突に戸が開いて、大柄な男が見張りを押し退けて入ってきた。
「もう始まっていたのか。どうだ進捗は」
「英耀殿……」
辞儀を返しているあいだに、角卓の空いている席に勝手に座った。大きな手が卓を叩くと、趙元はびくんと身を縮めた。宋時和の顔も強ばる。
「早く吐いてくれ。白単の裁判が始まるからな」
そういえば、そちらも気になっていたのだった。追加の報告書は勘案されるのか、たしかに気がかりだが、もう自分の手を離れた事件だ。今は趙元の件に集中したい。
「お静かに」
「刑部がどう裁定するか、炯絲と一緒に見届けねばならん」
「はあ?」思わず間抜けな声になった。「わたしはけっこうです。結果だけ教えていただければ」
「なにを言う。おれらが顔を出さねば杜撰で横着な判決をするぞ、あいつらは。捜査を尽くした甲斐がないぞ」
「それはさすがに刑部に失礼では」
そこでまた戸が開き、栄明が入ってきた。
「英耀殿、裁判は午後らしいです。おれも行きますから。細君の李氏を思うと可哀想ですからね。……おい、炯絲、さっさと終わらせてくれ。勝負にこだわるんじゃないぞ」
「勝負とはなんだ?」
英耀が怪訝な顔になったが、栄明は「いえ」と曖昧に笑ってごまかす。
宋時和はなぜかもじもじとしている。
炯絲は気を取り直し、取り調べ前に宋時和から渡された紙に目を落とした。検死書だ。
遺体となって発見された女性は身元不明。年齢は二十代後半。首を絞められたことによる窒息死。金銭や装飾品などは身につけていなかった。
「宋時和殿、この検死書はずいぶんとあっさりしているが」
死亡日時の推定幅が広い。身体特徴は身長のみ記入。被害者がのっぺらぼうだ。
「特徴がなかったのだ。官署に届出があった行方不明者を調べたが合致しない。問い合わせもない」
宋時和の予想図はこうだ。金に困った趙元は女性を襲い、金品を奪って殺し、死体を森に捨てた。検死書並みにあっさりとした物語だ。
「単純明快な物語は、世間に好かれる」
ではこちらは涙を誘う物語を語るか。
炯絲は懐から昨夜の手紙を出した。
「後宮の女官、春蘭。知っているな」
趙元ははっと息を呑み、目の前に広げられた、高雅な花の香りを放つ手紙を食い入るように読んだ。
「昔の恋人であろう。情の深い女性だな。趙元のことを案じている」
「春蘭……」
かたくなだった趙元の双眸が潤んでいく。単純明快なまま、物語は幕を閉じようとしている。
宋時和は眉をひそめて成りゆきを見守っていた。
「彼女のまごころのためにも、正直にすべてを打ち明けなさい」
「……」
「進士になったら迎えに行くとでも約束を交わしていたのかな。春蘭のように心根の優しい花嫁は、後先考えずに行動する花婿に相応しいだろうか。彼女の幸せのためにも――」
「自分はやってません!」
趙元は大粒の涙をこぼしながら、震える声で、しかしはっきりと断言した。
「春蘭に恥じることはありません。無実なのですから!」
長引くかもしれないと炯絲はひそかに息を吐いた。そっと宋時和に目を走らせると愉しそうに笑みを浮かべていた。
「お手上げですか、汪女史。交替しましょうか」
「いえ、もう少しお待ちください」
拷問以外に口を割らせる術があると、昨日、宋時和は宣言していた。それがなにかはわからないが、まだ降伏するつもりはない。
真実に到達することが炯絲の勝利なのだ。
「まだ、かかるのか?」
隣の英耀は腕を組んで難しい顔をしている。
「少し掘り下げたいと思います。春蘭の手紙によると、あなたは故郷で私塾を開いていたそうですね。暮らしは裕福でしたか?」
趙元は自嘲気味に笑んだ。
「……食べるのに困らない程度には、と言いたいが、私塾といっても、近所の童に通俗的な日用類書を説いていただけです。春蘭も生徒のひとりでした」
日用類書は、官製の堅苦しい書物とは違い、民間の知恵袋のようなもので、簡単な文字の読み書き、計算、基本的な法律、祭祀の方法といった生活に密着した知識と知恵が載っている、絵入りの本である。
「裕福ではなかったのですね」
「生徒は貧しい農民ですから」
趙元は故郷を懐かしむように遠くを眺めた。笑うと目尻に細い皺が浮かぶ。
苦学をして郷生になり、知県の推薦を受けて都に上るまでには相当の苦難があったことが推察された。
角卓の下をそっと覗き見る。故郷を出たときのままと思える藁を編み込んだ麻鞋は紐が切れそうになっている。
「なにを見ていた」
英耀が怪訝そうに問う。
「彼の足、です」
英耀は身をかがめて覗き込んだ。「粗末な鞋だな」と吐き捨てる。
「わたしは懐かしいです。粗い繊維を編んで布状にした腰の帯も。簡単な織機があれば今でも作れます」
「……」
室内はしんと静まった。
同僚たちは炯絲が官奴婢だったことを嘲笑するくせに、炯絲みずからが口にしたとたんに居心地が悪くなるようである。
こういうときは皇帝の異母弟がちょうどいい。
「つかぬことを訊ねますが、英耀殿。布にはどんな素材があるか知っていますか」
英耀は重い荷物を背負わされたかのように、眉間に皺を寄せた。
「絹、木綿、麻、羊毛、動物の皮……そんなところではないか」
「はい。英耀殿にとってはそうでしょうね」
「なにが言いたい」
炯絲は足首に力を入れた。驢馬の革製の履がきゅっと鳴った。
武官の履は丈夫な革で作られている。後宮の妃嬪の沓は絹地に刺繍が施されている。貧しい庶民は藁やぼろ布で編んだ草履だ。
衣服も同じ。
官奴婢のころ、身の回り品はろくに支給されなかった。古着を何度も繕って継ぎ足した。掃除用の雑巾さえ貴重だった。ときには布をほぐして繊維に戻し、簡易な織機を使って織り直した。
身に着けるものは身分を表象する。どういった身分に属しているか、一目でわかる格好をしなければならないと法律で決められている。
「貧しい庶民は樹皮や草の繊維を編んで服を仕立てます。棕櫚、イラクサ、カラムシ、アカソといった草の茎から丈夫な繊維が取れます。そうですよね、趙元さん」
なぜ知っているのかと不思議そうな顔で趙元は目を瞬いた。
「ええ。故郷ではそういった衣服を着て過ごしていました。この木綿の服はみなさんから見たら襤褸でしょうが」趙元は上衣に目を落とす。「一張羅なんです」
「つまり」宋時和が書記の役目を投げて口を開いた。「着るものなど買わなくていい。服になる草が森林にたくさんあるのだから自分で作ればいいと。それで何度も出入りしていたのか。嘘だろ」
「こちらでは露店の親父さんでも木綿を着てるんで驚きました。さすがは都ですね。森に行ったことがないと嘘を言ったことは謝ります。急に恥ずかしく思えてしまって。ですが今ははっきり言えます。自分には体裁より書物のほうが価値があるのだと」
趙元はひたすらに炯絲だけを見つめて饒舌に語った。この場にいる人物の中で炯絲だけが理解者だと気づいたかのように。
これで趙元が官有森に出入りしていた理由は明らかになった。肌に残る古いかぶれ痕は都に来る前のものだろう。
そして炯絲はこれ以上宋時和と張り合う気はなかった。なぜなら趙元が人を殺す理由が見当たらないからだ。
「この男、本当に下手人なのか」
英耀は察しがいい。生まれがいいだけの愚鈍な男ではない。悔しいが。炯絲は思わず胸中でうなった。
「殺された女から奪ったと思しきものは寮では見つからなかった」
「紙や筆も自作しそうですね」
「はい」趙元は誇らしげに声を張った。「楮から紙を作るのもイタチの毛で筆を作るのも得意です。あ、油煙墨も作れます。田舎では自給自足が原則ですから強盗する必要はないんです。寮にあったのは草だけだったでしょう」
「もう金に換えたんだ」宋時和が話に割り込んだ。「なにもなかったことが証明にはならないですよ」
「それはそうだけど、お金は見つかった?」
宋時和はむっとして席を立った。
「そこ、替わってください。ぼくの出番でしょう」
炯絲は宋時和と交替した。
拷問という手段以外で、朱鹿班代表宋時和がどうやって自白させるのか、お手並み拝見といったところだ。
普段、他班の取り調べを見る機会はほとんどない。張り合ってばかりいてもしょうがない。良い部分は取り入れて今後の参考にしようと思ったときだった。
趙元の目の前の卓に、どさりとなにかが置かれた。
「あれは……」
炯絲はよく見ようと腰を浮かした。
「なにかわかるな」
宋時和がぽんぽんと叩いたのは書物の山だ。
「都の書肆で買い求めた……小生の大切な宝だが」
趙元はおどおどと答える。なぜこれを宋時和はにやりと笑った。
嫌な予感がした。
「寮からわざわざ持ってきたの?」
「使うためだよ、こうやって」
宋時和はおもむろに一冊を取りあげ、表紙を引きちぎった。
「なにをする!?」
驚愕で瞠目する趙元に追い打ちをかけるように、今度は真ん中から勢いよく引き裂いた。
「うわああああ!」
手枷のため手を伸ばすことができない趙元は立ち上がって角卓ごと宋時和に突進しようとする。角卓が倒れ、残りの本が床に投げ出された。
英耀と栄明が暴れる趙元を取り押さえようとしたが、その必要はなかった。趙元は床に落ちた本をかばうようにうずくまる。卵を温める雌鶏のようだった。
「もうやめてくれえ!」
「やめてほしければ早く吐いてしまえ。吐かないとお前の宝は一冊残らず厠の紙にするぞ」
これが宋時和のやりかたか。
趙元が体をはって守ろうとする中には日用類書の新版もある。故郷の生徒たちへの土産だろうか。
宋時和のやっていることは身体的な暴力ではないものの、形を変えた拷問でしかない。むかむかする。
「絶対に自白しないでください、趙さん!」
そう叫ぶと、全員がぎょっとなった。趙元でさえ目を剥いている。
逮捕した者を自白に追い込むまでが無双黒の仕事である。だから炯絲の発言は職務の妨害となる。無双黒を頭から否定しているようなものだ。問題発言である。
だがいま目の前で繰り広げられているのは冤罪を許容する茶番劇だ。許すことはできない。
「こういったやりかたには賛同できません。趙さんは宝を守るためなら嘘の自白をするでしょうから」
「たかが本のために嘘の自白をする者などいない」
宋時和はボロボロになった本を床に叩きつけた。
炯絲の我慢もそこまでだった。
「あなたにはわからないでしょうね。持たざる者が勉学を志したら、尻ふき紙でさえ貴重なんです。馬桶を洗うたびに、丸められた反故紙を伸ばしてまで必死に学を求め、汚物で汚れた指で文字をなぞったことなど、あなたはないでしょうから!」
部屋の中がふたたびしんと静まった。宋時和と栄明は目を背け、渋面の英耀は小さく舌打ちをする。味方と思っていた趙元でさえ非難するような顔になった。
しまった。事実とはいえ気まずい話をしてしまったと後悔する。
炯絲は右手を宋時和に伸ばした。宋時和はびくりと体を震わせて後ずさった。まるでいまだに炯絲の手が汚れているかのように。
ふと笑みが浮かんだ。
「実証します。冤罪は馬桶より汚いことを」




