理不尽な賭け
「趙元が何度かここに来ていたことは間違いないでしょうが、だからといって彼が殺人犯かはまだわかりません。疑いが濃くなった、というだけです」
炯絲がそう言うと、宋時和はいらだった。
「奴は嘘をついていた。やましいことがあるからだ」
あとは一押し、拷問すれば落ちる、と意気を上げる。全く人の話を聞かない。
「さあ、戻りましょう。朱鹿班の技巧を見せて差し上げますよ」
気になるのは古いかぶれ痕だ。七日前に都に来たというのが真実ならば、あのかぶれ痕は符合しない。瞥見だから見まちがいの可能性もあるが。
あるいは――
「見落としがないか、気になります」
「見落とし? 目が悪いくせに」
宋時和の言葉は聞き流し、人の話を聞かないのは自分も同じだと内心で苦笑する。
「遺体があったのはここだな」
踵を返しかけた宋時和に英耀が訊ねた。
「ええ、ちょうど炯絲殿が立っているあたりですよ」
炯絲は目を落とす。自分の履先の輪郭さえつかめない。身をかがめて地面に顔を近づけた。
そうすれば小石くらいは確認できる。手のひらを伸ばせば、土と砂利と植物の実の感触。
やはり眼鏡がないと捜査に支障が出てしまう。
森林の奥に目をやる。昼間とは思えないほど黒々とした闇が垂れ込めていた。初夏の日差しを弾き返す、禍々しいなにかがこちらを見つめているような気がした。足元から悪寒が這いあがる。
「なにかわかったか、炯絲」
首を振ると、英耀が溜息を吐く気配があった。炯絲は拾い上げた植物の実をかざす。
「ひっつき虫があるんで気を付けてください」
「あ、お尻にいっぱい付けてますよ」
宋時和が笑いをこらえながら英耀に教えると、
「取ってくれ」
と、英耀は炯絲に向かって尻を突き出した。
「……殿方のお尻には触れません。それによく見えませんから」
「ぼくが取りましょう」
宋時和に摘まんでもらうあいだ、英耀は腕を組んで悠然と立っているだけだ。他人の手を煩わすことになんの疑問ももたないのだ。
「イラクサだけでなく、カラムシやアカソがあちこちに群生してますね」
宋時和は軽い調子で、おそらくは本人にとってもどうでもいいことをだらだらと話して場をつないだ。
「こういった草は刈っても刈っても生えてくる。まるで市井の犯罪者です。しかも今の時節は草木がうっそりと茂って、緑が一層濃くなって目に痛くなりますよねえ」
「緑袍」
英耀がぼそりと呟いた。
「は?」
「趙元は学生だったな。国子監の寮生だな」
「はい、そうです」
緑袍は下級官吏が身に着けるもので、科挙登第の祝宴では合格者が全員緑袍をまとう。
また緑色は五行の木気を表し、成長や学問の意味を含んでいる。
「寮には行ってみたのか。女の持ち物が房室から見つかれば降参して自白するかもしれんぞ」
「ああ……いいえ」
身分証明書を偽造だと言い張るくらいだ。そんな手間などかけたくなかったのだろう。
学生と判明すれば拷問ができなくなることも、きっと関係している。
英耀は宋時和を怒鳴りつけた。
「なぜ訪ねない! 中途半端な仕事をするな。刑部に莫迦にされるぞ!」
「も、もうしわけありません!」
「それでなくとも武官は愚物ばかりだと陰口を叩かれているんだ。炯絲のやり方を見習え!」
「ははッ!」
一件に時間をかけすぎだと怒られたのは昨日のことだ。見習えなんて思ってないくせに。人の名を出して叱るのはずるいやり方だ。恨まれるのはこちらではないか。
女で武官で皇帝の気に入りという特別待遇はすでに充分な反感を買っている。
「しかし炯絲が二人いたら困るな。頑固で融通が利かない。ともかく細かい。しつこい。天邪鬼だ。……難しいな。おまえらを足して二で割ればちょうどいいのにな」
今度は炯絲を落としてきた。お尻にひっつき虫がついてると教えてあげた者と、取ってあげた者を腐したかっただけなのだ。教えてあげて損をした。
「よし、寮に行こう。実証してみろ、炯絲」
英耀は勝手に計画し、踵を返し、馬をつないだ場所に急いだ。
寮監の話では趙元はすでに入寮はしているが座学にはまだ出ていないということだった。宿舎を見せてもらう。学生にあてがわれる部屋は大きくはない。寝台と机と椅子が置けるほどだ。同室の者は親族の葬式のために帰郷していてしばらく留守だという。
「知県の推薦で入ってきたわりに、こう言っちゃなんですけど、あまり裕福ではないようでしたね。寮監のわしに心付けなしでしたからね」
「支度金や生活費として知県が手当を渡しているはずだが」
英耀は隅に置かれた背負い籠を覗いて呆れた声を出した。
「本だ。本が詰まっている。……気持ちはわからんでもないが」
英耀の声がこちらに向けられた気がした。
「ちょっと見せて……いえ、題簽を読んでいただけますか」
詩選、経義註釈本、論策題。出たばかりの書物のようだ。
どこぞの田舎から都にやってきたばかりの学生趙元は書肆に赴いて目を輝かせたろう。欲しい本がいっぱい。そして持ち金のすべてを本に換えてしまった。服や履などどうでもいい。汚れた旅装のままでかまわない。
趙元は書痴なのだ。
「誰かみたいだな」
英耀が笑声をこぼした。表情が見えなくてよかった。
「うへえ。細かい字だな。見てるだけで眠くなっちまう」
手に取った本をぱらぱらと捲っては、宋時和は文句を言う。武官の中には学生並みに勉学を修めた者もいるが宋時和は違うようだ。
「宋さんは本を読まないのですか」
「莫迦にするな。読むさ。武侠小説なら」
「なるほど」
ふと足下でカサと音がした。枯れ草を踏んだようだ。何の草だろうと腰をかがめたとき、鼻先に青臭い香りがした。
「寝台をずらしてください」
英耀は寝台を傾けた。はたしてその下から現れたのはむせ返るほどの大量の草だった。
濃緑の頃といえども日がとっぷりと暮れる頃にはひたひたと冷気が忍び寄る。
「では明日」
英耀は宋時和と炯絲を無双黒の官署まで送りとどけ、趙元の取り調べは明日行うと言いおいてさっさと帰ってしまった。
「勝負をしないか」
青鴻班の用部屋に戻ろうとした炯絲の背に宋時和が言葉を投げた。
「勝負?」
「明日、趙元の取り調べが始まる。今日おまえが見つけた状況証拠を突きつけて自白まで導けるかどうか、朱鹿班代表宋時和と青鴻班代表汪炯絲の面子をかけた勝負だ」
「自白しなかったら、わたしの負け?」
「そうだ。負けたら無双黒をやめろ」
肩ががくりと下がった。これほどまでに嫌われているのか。
「それは違うでしょ。彼が自白しなかったら、あなたもわたしも両者負けになるのよ。拷問はもうできなくなったのだから、一致協力してなんとしても自白を引き出しましょう」
朱鹿班と青鴻班の面子などどうでもいい。
宋時和はふんと、太い鼻息をもらした。
「おまえが失敗したらぼくが自白を引き出してみせる。そしたらぼくの勝ちと認めろ。なあに、拷問などしなくても手はあるのさ」
「どんな手が?」
「今は言えない」
協力する気がないということか。
英耀がいなくなったとたん、本性を出してきたか。
「ちょっと待ってくれ」
「そうだ、待て待て」
後ろから声がした。田雷と栄明。炯絲の班の同僚だ。二人の出現に戸惑う宋時和の気配がした。さすがに三対一では威勢も落ちるだろう。
「朱鹿班が負けたらどうするか、言ってないぞ」
「宋時和が無双黒をやめるのか」
「……ぼくは、負けない」
「それじゃ勝負にならないんだって。うちの精鋭をやめさせようとするなら、均衡する賭金を出すべきだ」
思わず田雷のほうを見る。今はっきりと精鋭と言ったのは声からして田雷で間違いないのだが、にわかには信じられなかった。
「わかった、やめてやってもいい」
宋時和は自棄気味に怒鳴った。軽々しく進退を口にすることに嫌悪がわいた。
「いや、それは均衡しないぞ」
今度は栄明だ。
「おまえ、宋時和といったな。叔父君は塩田を持ち、父君は交易で羽振りがいいと聞いている。官職を捨てても暮らしに困ることはなかろう。身寄りのない炯絲とは立場が違う」
「だ、だが、この女は元賤民ではないか。しかも女が武官など、そもそもここにいることがおかしいのだ。秩序は正すべきだ」
「そこで提案だ。宋君の賭ける物は」栄明はもったいぶって一拍置いた。「結婚だ。炯絲との」
「ばかを言うな!」
「冗談はやめて!」
宋時和と炯絲は同時に叫んだ。
「玉の輿ではないか。この機会を生かせ」
裕福な宋家の内儀になれば路頭に迷うことはないと栄明は言う。どちらにしても炯絲が無双黒をやめる前提で話が進んでいた。
「宋君は独身だったな。必ず正妻の身分で迎えてやってくれ」
田雷までもが身を乗り出した。
「元賤民とはいえ家柄自体は悪くないんだ。刑部侍郎の父君があんな事件を起こさなければ今頃は高官に嫁していただろう。炯絲、ここで勝っておけば、苦労して男の中で働き続けなくてすむぞ」
「現実的には宋君あたりで手を打つべきだな。英耀殿に擦り寄るのはやりすぎだ。見ていて実にて痛々しかった」
栄明と田雷の掛け合いは、追い込み漁の漁師のように息ぴったりだ。下手人に自白を迫るときには有効かもしれない。
だがその目は節穴か。眼鏡を欠いたわたしより視力が悪い。わたしは苦労して働いてないし、英耀殿に擦り寄ったこともない。そう見えていたというなら捜査に携わる人間として、栄明も田雷も適性がない、ということになる。
三対一は男対女だったかと、暗澹たる気持ちになった。
「ぼくは……その、両親の許可が……」
宋時和は困惑で口ごもる。
栄明と田雷はからかって遊びたいだけなのだ。どこまで本気なのかはわからない。だが生き方を指図されてたまるか。それに職務に対する冒涜だ。
「いいかげんにしてください。他人の人生を賭けて面白いですか!」
栄明と田雷はひゅっと息を飲んだ。
もし自分が提出する証拠で趙元が自白しなかったら自分はどうするか。
きっと宋時和の邪魔をする。負けないために、なんとしても自白を阻止する。
絶対にやってしまう。それは真実を追い求める者による裏切り行為だ。許されない。
だから勝負はしない。
陛下に顔向けができない人間にはなりたくない。
「我々がすべきなのは力を合わせて真相を暴き出すことなのです。陛下のために、国のために、民のために、我々は存在するのですよ」
栄明と田雷は炯絲の勢いに飲まれたのか、黙り込んだ。
宋時和が沁みるような声で「そうだな、そのとおりだ」と言う。
わかってもらえたかとほっと胸をなでおろしていると、まだ続きがあった。
「ぼくが負けたら汪炯絲を嫁にすると約束する」
声音には苦渋の決断が滲み出ている。全然わかってないではないか。
栄明と田雷は、まるで大仕事をひとつ片付けたかのように喜び合っている。
「わたしは約束などしない!」
三人の男をその場に残し、青鴻班の用部屋に向かった。目をつむっていても歩けるほど馴染んだ場所が恋しい。仕事だけが自分の生きがいだ。
ふと卓子の上になにかが置かれているのに気づいた。
「これは……?」
小箱のようなものと手紙だった。




