悪あがきの男
青鴻班は無双黒が抱える四つの捜査班のひとつである。
捜査班は縦割りになっている。班はほかに白狼班、翠兎班、朱鹿班があり、どこかの班が担当した事件には、他の班は関わらない。一応、皇帝直属の特務機関の名残もあって、皇帝英星から直々に命じられる事案もあることはある。そのほとんどの指名は炯絲に下されていた。
「仕事が滞る理由の一端には、陛下の案件を優先しなくちゃいけないってことも……あるよね」
今日も朝早くから、炯絲は書類の山を削る仕事に没頭した。英星の特命がない今のうちに減らさなければ。
「おはよう。うわ、多いなあ」
同僚の田雷がやってきた。籠に積まれた反故紙に目を剥き、近くの榻に腰かける。
「白寿子の件、明日にも裁判が始まるようだぞ。見にいくか?」
「いえ、他にも抱えてますので暇がありません。でも結果だけは知りたいですね」
「やっぱおまえは……いや、なんでもねえ」
田雷はごまかすように榻の上にごろんと横になった。
なにを言いかけたのかはわかっている。
『取り調べに関わった人間に興味はないのか、冷たい奴だな』
いつもなら挨拶代わりに嫌味や皮肉を投げつけてくるのに、今日はどこか遠慮しているように見える。
「炯絲は英耀殿と親しいみたいだな。なんか伝手があるのか」
なるほど、そういうことか。
「いえ、まったく」
「嘘つけ!」噛みつきそうな勢いで、田雷はがばっと起き上がった。「親密そうに二人で街を歩いていたと目撃証言があるんだぞ。しらばっくれるな」
噂の発信源は栄明に違いない。口が軽いのは彼の欠点だ。
「もし知り合いだったら、なんだというのです」
「英耀殿のお耳に囁いてほしいだけさ。優秀な田雷っていう同僚がいますうって」
「あきれた。鎮撫衛に引き抜いてほしいなら自分で上表すればいいじゃないか」
「利用できる伝手は利用すんだよ。といっても、そうか、炯絲は陛下の後ろ盾があるから関係ないのか。さすが官奴婢から――」
「助けてくれ!」
突然、みすぼらしい格好をした男が用部屋に駆け込んできた。
「なんです?」
炯絲は男に近づいた。手足に殴られたあとがある。
複数の鈴の音が追いかけてきて、用部屋の狭い入口から雪崩れ込んだ。
「そいつを捕まえてくれ」
腰帯に無双黒の腰牌、赤い鹿の刻印が入った鈴。朱鹿班の連中だ。
「殺される!」
男は異様なほど怯えていて、小柄な炯絲の背に隠れようとする。これほど怯える理由はひとつしかない。
「拷問ですか」
炯絲は眉を寄せた。
拷問で口を割らせるのは無双黒の仕事のうちだとわかっているが、それによって得た証言には重大な欠陥があるからだ。
「青鴻班には関係ないことだ」
「近づくな! 近づいたらこの女を……!」
炯絲の首に男の腕がかかった。
炯絲にふりほどくほどの力はない。
田雷は驚きのあまり凍りついている。ところが朱鹿班は苦笑を浮かべるばかりだ。
「どうする、殺すのか。殺したければ殺せばいい」
男は「これが無双黒か」と呻いた。
「わたしに人質の価値はないんだ」
炯絲は男に聞こえるように呟いた。眼鏡がずれて落ちた。追い込まれて動揺した男は、あろうことか眼鏡を踏み割った。
「あーあ。陛下からの褒美の眼鏡はまだ届かないってのに」
「何を大騒ぎしている!」
威圧的な声が轟く。英耀だ。
男の腕が一瞬ゆるんだ。その隙に、田雷は男の喉に打撃をくらわした。さらに体術を使って組み伏せる。男は観念するしかなかった。
朱鹿班に引きずられるようにして去って行く。
「朱鹿班と青鴻班か。仲が悪いのか」
一連の流れを見ていた英耀が的外れなことを言う。
四班は手柄の数を競っている。仲が悪くて当然なのだ。
「眼鏡はどうした」
「壊れました」
「さっきの男は?」
朱鹿班の一人を呼び止めて英耀は訊ねた。
「とある事件の容疑です。逃げだそうとして悪あがきを……」
「容疑はなんだ。江湖の者には見えなかったな」
英耀の表情は見えない。声がいつもより荒々しい。
隣に立つ田雷がしきりに肘を突いてくる。英耀に紹介しろという合図だ。もちろん無視する。
「見た目は優男ですが女を殺した凶悪犯です。強情な奴でなかなか口を割りませんで……」
「優男なら拷問が効くだろう」
英耀がそう言って立ち去ろうとしたとき、痺れを切らした田雷が「あの……!」と呼び止めた。
「無双黒青鴻班、汪炯絲の同僚の田雷と申します。さきほど、炯絲を人質にした男を体術で倒した者です」
「……ああ、見事であったな。同じ班の仲間を命がけで助ける、素晴らしい働きだ」
おや、と思った。声の調子があがった。心にもないことを口にするとき、口調が滑らかになることがある。
「は、恐縮です!」
「さっきの男、どう見る」
「さっきの男ですか」
予期していなかった質問に、田雷は面食らった。
「……そうですね、拷問が怖くてやぶれかぶれといったところでしょうか。英耀殿がおっしゃったように痛めつければ容易に――」
「拷問は冤罪の温床です」
思わず口が出た。田雷と英耀が振り向く。さいわい表情はわからない。
「証拠を突きつけて自白させるほうがわたしは好きです。実証を重んじるべきです。あの男は都にやってきたばかりですよ。動機や不在証明を明らかにすべきです」
「都に来たばかりとなぜわかる」
炯絲は軽く目をつむり、男の全身を記憶から呼びおこす。
「丈夫な麻鞋を履いてました。袴と麻鞋にまだ新しい泥はねがありました。ここしばらく都では激しい雨は降っていません。上衣はくたびれて背負子の形に擦り切れていたうえ、袖口に墨の汚れ。恒常的に筆を握っている証拠に指にたこもありました。紙でうっかり切ったような傷も。ほら、わたしにもあります。あとはちょっと……奇妙な特徴がありましたが……」
一瞬のことなので自信はない。見まちがいかもしれない。事件との関係がわからないことは後回しにしよう。
「推測ですが、故郷の知県に推挙されて皇都に来た学生ではないでしょうか。国子監で学ぶために。だとしたら大事な科挙を前に事件など起こすでしょうか」
「それはまずい」
英耀が炯絲の手を引いた。
「ひえッ」
「来い。おまえが朱鹿班に説明しろ」
「あれ、どこへ行かれるのです」
「おまえは来なくていい」
英耀は田雷をその場に置きざりにして、炯絲をぐいぐいと引っ張って歩いた。
「あの、手を放してください。なんとか歩くことはできますんで」
「足元、左に水溜り、五歩先に敷居」
「……ありがとうございます」
刑律には、科挙の受験資格を持つ学生に拷問をしてはならない、とある。学生とは、税金も免除されるほどに特別な地位なのだ。
「たしかに身分証明書と路引(通行証)はありました。しかし偽造かもしれません」
朱鹿班の言に、英耀は腕を組んだ。人定を疎かにして拷問をしたということだ。
「おまえらに任せておけん」
事件は青鴻班を入れて、英耀が監督をすると言い出した。
朱鹿班は面子を潰されたのだ。表情が見えないのは幸いだった。
「容疑者はええと、なんという名だったか、ともかくそいつをいったん牢に戻せ」
「名は趙元といいます。偽造でないならば」
あくまで偽造説を強調する、朱鹿班の若者は宋時和という。こちらを睨んでいる気配がする。部屋の温度がぐっと上がった気がした。
「事件の概要を話せ」
英耀と炯絲は朱鹿班の用部屋で事件のあらましを聞いた。
「城外の森林で絞殺された女の死体が見つかりました。犯人は現場に戻るという原則がありますので張り込んでいたところ趙元が現場に現れたんです。奴は七日前に皇都に来たばかりなので迷ったと言っていましたが街路じゃなるまいし。連れてきて、ちょっと揉んだら、暴れだしたのです」
それは怪しい。
「城外の森林というのは入会地ですか」
炯絲の問いに答えたのは英耀だった。
「官有地だな。皇帝が狩猟を楽しむ森だ。民の立ち入りを禁止している。とはいっても趙元は知らなかったかもしれんな」
「趙元は、森にいた理由を『迷った』としか言わなかったのですね」
宋時和がうなずくのがわかった。
「では今からその官有地に行ってみましょう」
「なに?」
英耀の顔はきっとぽかんとしている。想像すると面白かった。
「もし彼が真犯人なら、自白しやすいようにお膳立てしてあげましょう。拷問より『実証』です」
現場までは徒歩では時間がかかる、ということで馬を使うことになった。
「馬には乗れるか」
「初めてですが、試してみます」
鐙の位置がわからず目を凝らしていたらふいに体が浮き上がった。かと思うと鞍の上に乗っていた。なにが起きたのか。
「ひえ」
後ろに英耀が乗り、炯絲の脇の下を挟むような形で手綱を取る。馬の振動で身体が浮きあがるので鞍のふちを必死で掴んだ。
生きた心地がしない。
遺体発見現場は鬱蒼としていた。暗くていっそう見えにくい。
「もうなにも残ってはいませんよ。遺体は無双黒内の安置所で保管していますから」
面倒なことにつきあってやっていると言わんばかりの宋時和の口ぶりだった。
足元に草が触れた。手を伸ばしかけ、はっとして思いとどまる。
「この草はイラクサですか」
「それがどうかしましたか。そこら中にいっぱい生えてますよ」
宋時和はふんと鼻を鳴らす。
炯絲は記憶と照合した。事件に関係ないと思っていた特徴はぴたりと当てはまる。
「肌の弱い者が葉毛に触れるとかぶれてしまいます。趙元の腕や足がかぶれていました。城内ではイラクサは群生していません。治った痕のうえに新しいかぶれもありました」
「つまり、ここに何度も出入りしていた証か」
宋時和が息を飲む気配がした。




