粗末な寝床
炯絲が用部屋に戻ると、提出用に振り分けておいた箱も反故紙を入れた籠も空になっていた。外出中に回収係が来たようだ。
「さて、わたしも仕事を片付けなきゃ」
急いで追加の報告書を書き、刑部に届けに行く。
「おや、無双黒の女武官はこんな遅くまで残っているのか」
帰りぎわに声をかけられた。振り返ると、刑部尚書の郭暁羽だった。郭淑妃の父親である。礼をとって一歩下がる。
「急ぎの書類を届けにまいりました」
「たしか汪炯絲……といったな。覚えてはいないだろうが、その昔、汪家を訪ねたおりに幼いそなたを見かけたことがある。大きくなられたな。あの頃は父君の汪欣殿とは同僚で、たいへん世話になった」
「は」
そっと上目遣いに郭暁羽を盗み見た。父が生きていたら、同じように鬢に白いものが混じっていただろうかと想像を重ねる。父が刑部侍郎に昇進したときには配下だった男は今や刑部の最高位である。
「父君は残念なことであった。儂は今でも信じられない。だが娘御がその分立派に成長されたのは喜ばしいことだ」
「恐縮です」
「儂にできることがあればいつでも相談にのろう」
郭暁羽は労わるような笑顔で言う。
「あの、もしいつか、お時間がございましたら、父のことを……父の仕事ぶりなどをお聞かせ願えませんでしょうか」
生前の父を知る人は城内では貴重だ。
「ああ、もちろんよいとも。父君は優秀な裁判官であったからな。逸話はたくさんある」
郭暁羽の言葉を信じたいが、やはり不安がつきまとう。
「父はなぜ過ちを犯したのでしょうか」
「……人間は過ちを犯すものだ。どれほど立派な人物であろうとな。家族のように身近な関係であればあるほど、真実の様相は見えにくくなるものだ」
そうであろうか。今の自分なら当時の父を尋問できそうな気がする。はたして目は曇るだろうか。とそこまで話していてはっと思いつくものがあった。
「郭刑部尚書殿、当時の裁判の詳細などは残っているのでしょうか」
「例の事件の?」
「なぜ父が逆賊になったのか、興味があります」
郭暁羽は憐れむように首を振った。
「あいにくだが古い裁判書類などは要約を記録簿にまとめたあとは処分するのが決まりだ。全部を取っておくと倉庫がいくつあっても足りないからな」
よくわかる理屈だ。官舎の書類庫は狭い。
「では要約だけでも」
「汪炯絲よ」郭暁羽は目を細めた。「父君を恋い慕うのは自然の理だ。だが過去は断ち切ることだ。父君の咎を知れば、責任が生ずる」
「は……い」
「それに、刑部の書類を外部の者に見せるわけにはいかぬ」
もっともなことだと頭を下げた。
皇帝の勅許があれば見せてもらえるだろうか。私的な興味を陛下に願い出るのも気が引ける。知れば責任が生じるという言葉も意味深だ。
「ひとつ、方法がある」郭暁羽は声を低めた。「貴女が無双黒から刑部に遷ればよい。父君がいた職場に関心はないかね」
予想外の提案だった。
「武官から文官になるのは難しい。だが儂の推薦があれば可能だ。体力のあるうちは武官でもよかろうが所詮は女の身だ。のちのちのことを考えたがよい」
「この身を案じてのお言葉、心に染み入りました。ですがわたしは陛下の駒です」炯絲は拱手して答えた。「お断りいたします」
「まあよい。気が変わったらいつでも来なさい」
郭暁羽はあっさりと踵を返した。表情に変化は見られなかったが、機嫌を損ねてしまったようだ。父の思い出を聞く機会も失ってしまった。
しかたない。皇帝陛下に任命された今の地位は気に入っている。それに陛下も異動は望まないはずだと信じている。
炯絲が用部屋に戻ると、ちょうど栄明が帰り支度をしていた。
「遅かったのね」
「今日はみっともないところを見せちまったな。李氏に泣きつかれて、つい同情して」
栄明は気まずそうに頭を搔く。
「賄賂のことなら黙っておくから」
「本当か。ありがとう、助かる。近々所帯を持つことになって、金が入り用なんだ」
黙るのは、賄賂の件で栄明を責めるなと英耀に言い含められたからだが、少しばかり釘を刺すことにする。
「賄賂のすべてを見逃すわけじゃない。今回だけだからね」
厳密に言えば、賄賂は無双黒の刑律に触れる。同僚が授受していたと知ってしまえば快くはない。
「わかってる。弱みを握られるような真似はしないよ」
無双黒のように庶民と直接触れ合う役人にとって賄賂は俸禄の一部のようなものだ、と割り切る者は多い。それだけ正規の俸禄が少ないのだ。庶民にとっても、多少の袖の下を役人に渡すのは手数料のようなものだと考えるから、賄賂を受け取らない役人は怠惰だと陰口をたたく。
炯絲のように賄賂を受け取らずとも職務に励む無双黒は胡散臭く見られるし、それ以前に女であるだけで信用されなかった。
実際、慎重過ぎる捜査が遅滞を招いて、炯絲の処理件数は少ない。皇帝に直接評価されているから同僚は何も言わないが、疎まれていることはうっすらと感じている。
「それにしても炯絲は上手くやってるな。陛下だけでなく高英耀殿や皇太子殿下にも気に入られているとは」
「そんな、羨ましいって顔しないで。英耀殿はわたしのこと面白い玩具くらいにしか思ってないんだから」
「まだ残るのか」
「いいえ、もう帰ります」
「送ろうか」
思いも寄らない申し出に炯絲は瞠目した。
「あ、いや、下心はない。ただ今日は英耀殿に教わることが多かったので、真似をしてみようと思ったのだ。李氏を実家に送りとどける道中でも耳にたこができるほど聞かされた。英耀殿のように女性に優しくしないと夫婦仲は上手くいかないですよって。まあ、つまり練習だ」
「なるほど、ではお願いしますか」
本当は英耀殿はさほど優しくはないのですよ、むしろ意地悪な質で、と反論したかったが、言えば言うほど仲が良いと誤解されかねない。
申し出はありがたいが、実際送ってもらうほどの距離ではない。
無双黒の衙署は大聆門の外側、正陽門の内側の官庁街にある。東側には吏部や工部、太医院などの文官の官衙が並び、西側には無双黒や大理寺、都督府などの武職や司法関連が構えている。
官の長屋は衙署の奥にある。細い路地をいくつか曲がれば、炯絲の住む、物置を改良しただけのやや傾いた小屋が見えてくる。
「……雨漏りとか、大丈夫か?」
「見た目ほど襤褸ではないんですよ」
この離れは炯絲専用だった。
男と一緒の長屋は風紀上問題があるとのことで任官時に女用の宿舎を用意してもらったのがこれであった。なにせ元は物置小屋だ。土の床、堅い板の寝床、腐った材木の匂い。窓がないから昼日中でも蝋燭がいる。いいのは風通しくらいか。
滑りの悪い戸をなだめなだめ開けると、後ろから戸惑う声が上がる。
「まさか、戸締まりしてないのか?」
「盗まれるような物は何も持っていませんから」
「なかから鍵は掛かるんだろうな」
「それは……はい、一応」
栄明はほっと息をついた。
「なにかあったら大声を出せ。その壁の向こうが青鴻班の長屋だから」
「お気遣い、感謝します」
「一応、班仲間だからな」
班仲間だと思われていたのか。意外だった。
栄明を見送り、炯絲はみずから手を入れて修築を施した、もっとも安らげる場所に帰ってきた。
炯絲は満足していた。




