視察
「これに着替えるんですか……?」
簡素な木綿の服。木製の簪もある。
「目立ってはいかんからな。その黒縁眼鏡も外せ。悪目立ちする」
英耀はなんの断りもなくひょいと眼鏡を取った。
「だ、駄目ですよ。眼鏡がないと何も見えません」
「ほーら、取ってみろ、取れるもんなら」
眼鏡を持った手を高く上げて英耀は挑発してくる。背が高く手足も長い英耀に意地悪をされたら、敵うわけはない。
ぴょんぴょんと跳ねるのは相手の思い通りに動かされるようで癪だ。炯絲は焦点のあわない目で英耀の顔のあたりを睨んだ。
「眼鏡なしでもけっこうですけど、そのせいで粗相をしてもあなたには怒る権利がありませんからね」
どんと、拳で英耀の胸を突く。
「うぐ」
「あらすみません。見えないもので。失礼しました」
ついで英耀の革履を踏んで体重をかける。
「いッ!」
「おや、いったい誰のせいでしょう」
「わかった。返す」
手渡しではなく眼鏡を直に顔にかけようとする。玻璃の向こうに英耀の顔だけがくっきりと映って、どきりとする。神妙そうに眉を寄せて、眼鏡のつるがちゃんと耳に乗っているか確かめるように左右を覗きこむ、その顔面が近すぎる。
「見えてるか?」
「……見えてますけど?」
「おかしい。そんなに不快そうな表情でおれを見るやつはほかにいない。この眼鏡を作り直してくれるって話だったな。ついでに玻璃の厚みも調整してもらえ」
「お気遣いどうも」
さりげなく視線を外した。
英耀は美形らしい。機嫌を損ねた顔は饕餮に似てしまうが、あまたの女官が「拓本にしたい」と希っていることを炯絲は知っている。黒檀のように頑丈で山羊毛の筆のようにしなやかな体躯。おまけに出自が抜群にいい。
世の中の女性が猫ならば、またたびのような男なのである。だが残念ながら、自分にはまったく効果がない。
それというのも、日々天下万民のために政務にいそしむ、麗しき皇帝陛下を見慣れているからだった。
陛下は蝉のように高潔で竹のように清廉だ。
罪人の娘を、その才知を惜しんで引き立ててくださった。
陛下の寛容さには畏まるしかない。全身全霊を賭してお仕えせねばならない。仕える主人を尊崇できることはなんと幸福なのだろうとあらためて思う。
「お、いい匂いがする」
三人は食肆が密集する一角に辿りついた。横丁のひとつを英耀はひょいと曲がる。横丁の左右にはびっしりと屋台が並んでいる。
「ここにしよう」
豚の煮込み料理を人数分注文した英耀は空いていた席に天翔を座らせ、炯絲を手招いた。
「早く座れ」
「屋台ですか」
「屋台がなんだ」
「食べなれないものは……控えたほうが……」
どんな素材を使っているかわからない襤褸屋台で殿下に食べさせる気か。護衛のくせに警戒感がない。
「ははあ、不衛生で腹でも壊すんじゃないかと心配してるのか」
大きな声で、店主の耳に入ったら気を悪くするだろうことを無遠慮に口にする。
「はっきり言いすぎです!」
店主がむっとした顔でこちらを見た。
英耀は声をひそめた。
「食いものに何が入ってるかわからないのは宮廷も同じさ。こっちは腹を壊す程度ですむが、あっちは心臓がとまる」
「なるほど」
宮廷は疑心の巣窟で、監視が厳しい。毎食毒見は欠かせない。
「お待たせ」
三人の目の前に豚煮込みがぞんざいに置かれた。
「炯絲の忠犬ぶりはおれが見込んだとおりだな。まずは忠犬が食べてくれ」
毒見係という大役を謹んでうけたまわる。
細切れの豚肉と蔬菜が飴色の餡をまとっている。見るからに美味しそうだ。
「ではお先にいただきます」
旨味が舌の上で飛び跳ねる。生姜が効いていて食欲を刺激する。
「ねえ、まだたべちゃだめなの? ぼく、おなかすいたよう」
天翔が足をばたつかせて催促する。
「よし、おれたちも食べよう」
英耀と天翔が舌鼓を打つと、店主は勝ち誇った笑みを浮かべた。
目をつむって味わっていたので眼鏡が曇るのも気にならなかった。
「おかわりいるか?」
店主が嬉しそうに尋ねる。炯絲は遠慮したが英耀は大盛を追加した。
「できたてはおいしいね」
そう言う天翔の皿はあまり減っていない。咀嚼するより、ふうふうと息を吹きかけているほうが長い。
もうさして熱くはないのになぜだろうと首を傾げてから気がついた。宮廷ではめったに出来立ての熱々を味わえない。毒見役が無事に四半刻過ごしたあとに提供されるので、食事は冷めてしまう。
はたから見たら極端に猫舌の子供に見えることだろう。
「葉徳妃が神経質でな」
英耀が耳打ちした。
「天翔の食事には必ず毒見係がついていたのだ」
「神経質とは思いません。殿下は陛下の唯一の御子であり皇太子なのですから」
店主に聞かれないように小声で返す。
「とはいえ、今上帝の世になってからは物騒な噂は聞かないですよね。殿下の命が狙われたという噂もありません」
「噂がなかったということが、すなわち何もなかったことを意味しない。秘密裏に処理されることがあるからな」
英耀は恐ろしいことを言う。
内緒話を勘違いしたのか、店主はにやにやと笑った。
「坊主、おまえの父ちゃん、いい男だな。母ちゃんは……ちょっと、変わってるか」
「うん、でもすっごくあたまがいいんだよ」
「ふうん、そうなのかい。どおりで坊主も賢そうだ」
家族だと誤認された。胃の裏がぞわぞわする。
「店主、景気はどうだい。繁盛しているようだが」
英耀は二皿目を完食し天翔が残した分も腹に収めた。
「忙しいね。けど物価がどんどん上がって儲けにならない。物騒な事件もあったしな」
「物騒な事件?」
「一昨日かな、城外の森ン中で女の死体が見つかったってさ。物盗りのようだが下手人は捕まってねえ。横柄な無双黒は誰かれかまわず居丈高に疑ってかかる。うっかり目が合うと下手人扱いしやがる。あいつらはいけ好かない。あの真っ黒い格好を見かけると虫唾が走るよ」
英耀がちらりとこちらを見る気配がした。店主に気づかれぬように首を振る。炯絲が担当している事件ではない。
「たしかに、あいつらはすぐに賄賂を強請るし拷問するし、ろくな連中ではない」
英耀は店主に同調した。吐き捨てるような言い方が演技には見えない。
「そうだ、そのとおりさ」向かいの店の客が加わった。「白寿子先生の事件、どうなってるんだ。おれはその昔、先生の教えを受けたんだ。あの偉大な師が息子に殺されたなんて信じられない。無双黒はなにをしているんだ。裁判はまだか。処刑はまだか」
身が縮まる思いで学生らしき男を振り返った。もっとも年齢は三十半ばを超えている。
「白寿子先生って、どんなかただったのですか。息子に殺されたのが信じられないっていうのはどうして?」
おずおずと訊ねると、学生は朗々と語り出した。
「人呼んで歩く四書五経。それだけでなく、一度読んだ書物は一字一句違わず記憶する天才だ。この世でもっとも知識と知恵のあるかただった。先生が体調を崩されて学校を辞められてからずっと復帰をお待ちしていた。殺されていい人じゃない」
英耀が薄笑いを浮かべながら肘で合図を送ってくる。うっとうしい。
「犯人である息子さんとは面識があったのですか?」
「あるわけないだろう。先生の息子なら科挙に受かって当然なのに、ずっと自宅に引き込もっていたくらいだ。先生の世話をしていたときいたが、怪しいもんだ」
炯絲は肩を落とした。
『息子に殺されたなんて信じられない』というのは『あの善人の息子が親を殺すなんて信じられない』という意味ではなかった。だがこの学生の落胆と嘆きは理解できる。喪失であいた心の穴は塞ぎようがない。
「息子はもう捕まったし、裁判もそろそろはじまるという噂だぞ」
英耀の口ぶりは学生を宥めるかのようだ。
「だったらいいんだが。凌遅刑が楽しみだ」
学生が美味しそうに豚の削ぎ肉を頬張る姿を見ると、反論したい欲がむくむくとわいた。
「無双黒はそれなりに頑張っていると思いますよ。だって彼らがいなかったら街に秩序がなくなるでしょう」
学生は「授業に間に合わない」と言って、炯絲の無双黒擁護を無視して席を立った。急ぎ去る背を見やって英耀は皮肉げな笑みを浮かべる。
「あの男は次の科挙も難しかろうな」
「そうなんですか?」
「国子監に五年以上通っていながら寮生になれてないんだ。今年から制度がかわって、四十になったら退学だ。焦ってるんだろう」
「としとったら、べんきょうしなくていいの?」
天翔の目は期待にきらめいている。炯絲は首を振った。
「残念ですが、御身は一生学ばなければなりません」
「どうかな。器さえデカくあればいいのさ。部下の諫言に耳を傾ける度量さえあれば、頭の中がスカスカでもなんとかなる。識るべきは己が愚かさだけでいい」
「なんてこと。嘘ですよ。信じないでくださいね」
ふと周囲に目をやった。ゆっくりと食べている客はいない。掻き込むようにしてすぐに席を立つ客ばかりだ。
「英耀殿、思い出しました。わたしもゆっくりしてはいられません」
「あの汚い仕事部屋を片付けないとな」
「う……。いえ、片付けは片付けですが、白寿子の家を見てきます。ここからそう遠くはありませんので。ここで別れましょう」
学生と話をしているうちに事件のことが無性に気になってきたのだった。門は閉ざされているが外から眺めるだけでいい。けじめをつけたい。心の中のもやもやしたものを片付けてしまいたかった。
「おれも行こう」
「……けっこうです。英耀殿もお忙しい身でしょうから」
殺人事件の現場という不浄な場所に殿下をお連れするのはいかがなものか。
「ぼく、おこめがたべたい」
天翔が呟くと、陽気な店主が隣の屋台に声をかけ、隣の屋台の店主はさらに隣の店主に声をかけた。
「腹をいっぱいにして散歩に行こうな。よし、おれにも大盛りで頼む」
食べすぎではないか。いざというときに腹いっぱいで動けなくなるのではないか。職務怠慢はどっちなのか。呆れつつ、騒擾に紛れるように呟く。
「呉皇后は楊才人を殺してないかもしれないのです」
「……どういうことだ?」
英耀は聞き逃さなかった。暢気なようで聴覚は鋭い。
その背後では隣の隣の店が調理した炒飯が二皿、客の手を経由して回ってきた。それを店主が天翔と英耀の前に置く。
「ほら、坊主、食べな」
「わあい」
「だとしても、だ」
英耀は勝手に炯絲の皿に炒飯を取り分けた。
「え、ええ?!」
「忘れろ。陛下の機嫌を損ねる」
忘れろというのは簡単だ。
「深追いはしません。そこまで暇じゃないし愚かでもありません。あと、もうお腹いっぱいです」
炒飯を押し戻そうとすると天翔が悲しそうな顔になった。
「おいしいよお」
「あ、はい。いただきます」
「食えるときに食っとけ。ガリガリの女は好かん」
どうでもいい。英耀に好かれてもしょうがない。
「おまえはいつかヘマをしでかしそうだな」
英耀は鼻で笑った。この笑顔が苦手だ。躊躇いなく挑発する、自信家の顔。
「陛下の機嫌を損ねることは、私も困ります。しかし一度気になると、頭の隅に引っかかって忘れるのが難しいのです」
「余計なことは考える暇がないくらい、忙しくするのがいい」




