無双黒の用部屋
翌日、用部屋で書類整理をしていた炯絲のもとに、英耀がひょっこりと現れた。
上司格とはいえ、用部屋にやってくるのは珍しい。しかも一人ではなかった。肩の上に天翔をちょこんと乗せている。
「暇そうだな。ちょっとつきあえ」
胴間声が鼓膜に響く。書類が吹き飛ぶ勢いだった。
「……暇そうに見えるなら、あなたも眼鏡が必要ですよ」
炯絲は積み上げた紙の隙間から英耀の暢気な顔を見上げた。
「誰もいないじゃないか」
「同僚は全員城下の巡邏に行っています」
「ふうん。誰もいないのに真面目くさって仕事をしているのか」
当たり前ではないか。
「報告書をいくつかまとめるので忙しいんです。暇じゃありません」
「ずいぶん、溜め込んだんだな」
英耀は呆れ顔だ。
床にも卓子にも山積みになっているものは未処理か、捜査の進展がおぼつかないものばかりである。いつまでも未解決のままで残していたら棚がいくつあっても足りなくなる。
見切りをつけるのも炯絲の仕事だ。不要とみなした書類は反故紙用の籠に入れる。
だが、この見切りをつける、というのが炯絲はすこぶる苦手だった。
「ねえねえ、あれなあに」
天翔が指さしたのは壁の標本箱だ。
「昆虫の標本です」
「ハエかな。でもおっきい」
天翔が手を伸ばそうとしたので、英耀は肩車をやめた。そうすると天翔では手が届かなくなる。
「ハエなどという汚いものに関心を持たなくていい。炯絲も炯絲だ。ハエの標本ではなく、もっと女らしい、花鳥の画などを飾りなさい」
女はこうあるべき。
無双黒に入営して以来、同僚からもさんざん聞かされた、もっとも嫌いな台詞だった。
炯絲は壁から標本箱をはずして天翔の手に持たせた。
「ハエはたくさんの種類がいます。とくにこの大きいのはニクバエの一種でトウテツバエというんです。背中に饕餮みたいな恐ろしい模様があるでしょう」
「ほんとだー」
「おいこら、なにしてるんだ」
「子供が興味を覚えたことを、つまらない理由で取り上げるのは感心しませんね」
英耀はあきらかにむっとなった。不機嫌になると顔が饕餮のようになるので一目瞭然だ。
「それにこのハエは汚くありません。わたしが昆虫研究をしていたときに飼っていたハエたちです。いわば箱入り娘です。標本にするときたっぷり硫黄の煙もあびせて消毒してます」
饕餮の顔色が変わった。
「ハエを飼っていた……だと。女のくせに」
また嫌な台詞が飛び出した。
「もしかして、英耀殿は昆虫が苦手なのですか。男のくせに」
「……なんだと」
険悪な空気を感じたのか、天翔はおずおずと標本箱を返してきた。
「ありがとう。ぼくはこおろぎがすき」
天翔は英耀を振り返る。
「えいようもこおろぎはだいじょうぶだもんね」
「……まあ、蟋蟀は鳴声も素晴らしく……いえ、けして虫が苦手なわけでは。そんなことより、職務怠慢ではないのか、炯絲」
「はい?」
「そこの口書き、日付が十日前だ。とうに処理済みでないとおかしいであろう」
形勢不利と見て話題を変えてきたか。意外とめざといではないか。
卓子に放置してあった口書きは、とある殺人事件容疑者の自白録書である。無双黒の職掌は犯人と思しき者を逮捕し、自白させ、裁判に回すことである。物証や目撃証言がいくらあっても有罪にはできない。刑律は頑として犯人の自白を要求する。逆に言えば、自白があれば物証は不要。
それなのに未解決書類に紛れていたのは、炯絲が処理を怠っているからだ、という英耀の見識は正しい。
「たしかに罪に問う条件はそろっています。ですがまだ不明な点があって……」
「事件の詳細を話してみなさい」
「英耀殿の管轄外ですが……」
「必要があればこちらに移管することができる。鎮撫衛は無双黒に監督責任があるのだ。無能な者を処罰することもできる」
権力を振りかざされてはたまらない。ひそかに溜息を吐いた。
「殺されたのは博識と名望ある儒者で、白寿子という老人。五年ほど前までは国子監で教鞭をとっていたようです。辞めた理由は体の不調とのことで、その後は邸にこもって療養していたとか。今春、内閣大学士の選にそのかたの名前が挙がり、陛下がお召しを希望されたのですが不調を理由に辞退され――」
「一度や二度断られるのは陛下も想定内だろう。三度目に応じる気なのだ」
「その三度目の直前に長男白単により殺されたのです。白単は自ら出頭してきました。自分が絞殺したと。録取も素直に応じ、拷問も不要でした」
「父親が内閣大学士になれば累代の名誉になるだろう。しかも儒者の家に生まれておきながら尊属殺しの大罪を犯すなど、信じられん。動機はなんだ」
憤懣やるかたなしの英耀と、興味津々の顔の天翔。教育上、問題ではないかと思ったが、話をつづけた。
「病状窮迫により、苦しみから解いたと」
「ふむ」
英耀が考え込むようすを見せると、天翔は目一杯背伸びして炯絲の卓子に顎を乗せた。
「でもけいしはうたがってるんでしょう?」
「そうです。検死によれば、白寿子の遺体に顕著な病症はなかった。肌つやもよくきわめて健康体だったとか。検死書を突きつけても白単は『ならば勘違いで殺してしまったのでしょう』と。腑に落ちないのです。白寿子に師事したかつての学生たちが幾度か奏上に来て、やいのやいのと騒ぎたてるものだから、まったく困っております」
「奏上?」
「白寿子がいかに優れた儒者であったかを嘆き、息子に早く極刑を、と嘆願してくるのです」
「炯絲がぐずぐずしているからだろう」
「凌遅刑ですよ」
「それはそうだが。覚悟の上だろう」
「りょうちけい?」
天翔はくりくりとした目を輝かせて炯絲を見つめてくる。
「刑罰の一種です、殿下。非常に難しい刑罰なのでもう少し大人になられてからご説明しますね」
「うん、わかった」
凌遅刑は残酷な処刑方法だ。寸刻みで全身の肉を削ぐ。絶命までに何日もかかるので罪人に最大の苦しみと痛みを与える。おまけに処刑は市場でなされ、見世物にされたうえ、遺体はさらされる。弔うことも許されない。
十年前、炯絲の父は凌遅刑で死んだ。
母はその知らせを受けて首をつった。女児であることを理由に炯絲は処刑を免れたが、その代わりに賤籍に落とされた。
父の罪は重かった。先帝の御代に、当時皇太子だった今上皇帝を暗殺しようとしたのだ。刑部侍郎だった謹厳な父がなぜ弑殺を企てたのかは今もってわからない。
「どうした。呆然として」
「あ、いえ」
炯絲は頭を振った。
「ともかく、納得がいかないのです。本当に病弱であったなら、辞退のおりに別の誰かを推薦するとか、それこそ息子の白単を勧めることもできたはずです」
「白単の頭が悪かったのではないか」
「……たしかに科挙受験の記録はなかったのですが、対話した感じではたいそう明敏、聡明で理知に富んでいると思われ――」
「親殺しをする奴が賢いわけあるか」
「そうだよ、ぜったいにだめ」
天翔は可愛らしく頬を膨らませる。
「もしや、誰かをかばっているのではないかと使用人にも話を聞きに行ったのですが、みな押し黙って応えてくれず――」
「あのなあ」英耀はこれ見よがしの溜息を吐いた。「わざわざ足を運んだのか。犯人が自首してきたのだからめでたく解決でよい。報告書を書いてさっさと上へ送ってしまえ。裁判からあとはお前の仕事ではない。どう判断するかは刑部に任せてしまえ」
「はい」
自覚はあるのだ。わからない部分が少しでも残っていると気持ちが悪い。そういう性分である自覚は。
犯行三日前に、妻を離縁して実家に返すなど、白単の犯行には計画性がある。使用人は老体で体格の立派な男を絞め殺せる腕力はない。白単の犯行でほぼ間違いはない。たとえ酌むべき情状があったとしても不孝の罪は軽くならない。
結果はなにも変わらない。
だが無性に気になるのだ。真実を追求したくてたまらない。
「だからか」英耀はふんと鼻を鳴らして腕を組んだ。「だから、陛下にねちっこく食い下がったのか」
「ねちっこくなどしていません」
あのとき、急に天翔が飛び込んできて、急いであとを追ってきたようすの英耀だったのに、ねちっこいと言われるとは、しばらく房室の外で聞き耳でも立てていたようだ。
「皇后が誰かをかばっていると思ってるのか?」
「それは……まだ可能性のひとつで……」
迂闊に口を滑らせるわけにはいかない。まだ邪推の域だ。
「もしかばったのだとしても、罪をかぶる覚悟をしたのなら良いではないか。誰かが罪を負わねばならないのだ」
「誰でもいいわけないじゃないですか。無実の人間を処刑しておいて、あとから冤罪だったと判明しても、取り返しがつきません」
「罪を犯せば罰せられる。そういった因果応報を民は求める。ときには、まあ、無実の者が多少混ざることはあるかもしれんが運が悪かったのだ。罪を犯すとどうなるか。それを周知せしめるほうが重要だ。民は納得し、満足する。白単のように重い罪を犯した者はさっさと裁判に回せ。さもないと無双黒が無能と謗られるぞ」
納得も満足もできるわけがない。処罰感情を満足させるために、捜査をないがしろにしてもいいというのは暴論だ。
英耀の教訓はつまり「お上に逆らうな」だ。力による秩序を、武人は重んじる。英耀と言い争ったところで無駄だとわかっていた。
だから、話題を変えた。後宮にいたときからずっと聞きたかったことを尋ねる。
「葉徳妃のお隣にいらした方はどなたですか?」
葉徳妃の隣で控えめな身なりをしていた若い妃嬪。他人の内面まで探ろうとする炯絲のぶしつけな観察眼に嫌な顔をしなかった少女。
「うむ、えっと……」
英耀が窮したところに、「かくしゅくひ、だよ!」と天翔が元気に応えた。
「そうだ、郭淑妃。郭刑部尚書の娘で半年ほど前に入宮した」
「郭刑部尚書の娘御。名家のご令嬢なのですね」
「うわ」
突然、天翔が倒れた。床に落ちていた紙で足を滑らせたのだ。
「大丈夫ですか、殿下ッ!」
皇太子に血を流させたら炯絲の首などいくつあっても足りない。首筋がひやりとなった。
英耀に抱き上げられた天翔の鼻の頭は赤くなっていた。天翔は炯絲の形相にびっくりした顔になり、おろおろとあたりを見回した。
「だれもみてなかったよね」
「ちょっとぶつけただけだ。すぐに元に戻る」
そう言って英耀は鷹揚に笑う。
この場にいるのは三人だけ。だれにも見られていないから不問というのも都合が良すぎる。床に這いつくばり、額を床に何度も打ちつけた。
「床に紙を放擲していたわたしの罪。慚愧に堪えません。宦官を呼んで罰をお与えください。杖二十か三十が相当かと思われます」
「よしなさい」
英耀が炯絲の肩を掴んだ。
「おまえの頭は床を叩くためにあるのではない。陛下のために使え」
英耀の大きな手が額に触れた。だが顔はぼやけている。眼鏡は床に落ちていた。
「傷はないな。融通が利かないのはおまえの悪いところだぞ」
「へいきへいき、なんともないよ。ねえ、もういこうよ」
あわてて眼鏡を探しあて、そのついでに床の紙を掻き集めて、まとめて反故籠に投げ入れた。
あとでゆっくり精査すればよい。今は殿下の足元を安全にしておくことが優先だ。
白単の口供書は報告書とともに提出用の籠に入れた。胸の中でわずかにくすぶっている疑念のせいで殿下に怪我を負わせてはならない。比ぶべくもない。英耀の言うとおりさっさと裁判に回すべきだった。
「寛大さに感謝いたします。怪我のないうちにお引き取りを」
「用があるといったろう。だから来たのだ」
「御用とはなんですか」
「これから天翔と公三街の食堂に行く。炯絲も一緒に行こう」
公三街は庶民向けの安い食事処が集まっている。
「殿下を外に連れ出すと言うのですか。治安も良くない公三街に?」
「見くびらないでもらいたいな。鎮撫衛のおれがいれば天翔は安全だ」
あやうく傷を負わせそうになった直前の件を思い出すと英耀の言葉は安請け合いにすぎる。それに殿下が無事ならよいというものでもない。
「あなただって……いえ、なんでもありません。仕事が立て込んでいますので遠慮させていただきます」
英耀は皇帝の異母弟でれっきとした貴人だ。仕事柄、街を巡回することはあるにしても殿下を連れ歩くのはいかがなものか。
ふいに袖を引っ張られる。
「いっしょにいこうよぉ」
殿下がくりくりした目で訴えてくる。
「しょみんのくらしぶりをみておくのも、ぼくのつとめだよ」
童児とは思えぬ意見に驚いて、思わず英耀を見ると、案の定、彼は目をそらした。
庶民の暮らしぶりを見ておくのも皇太子の務めですよ。そう言って英耀は殿下をそそのかしているのだ。皇太子には通常複数の宦官が供につく。どこへ行くのも何をするのも従者が侍る。だが「宦官は目立つ」という理由で供連れを断ったという。
せめて複数の護衛をという声には「おれ一人では信用できないのか」と恫喝して委縮させる。
たとえ皇帝の異母弟とはいえ、横暴が過ぎる。
「そもそも安易に外出することはいかがなものかと」
「はなのあたまが、なんかいたくなってきたきがするう。なんでだろう」
「お供いたします!」




