女武官・汪炯絲
「以上が事件の夜の出来事と推測いたしました。間違っていたところはございますか、娘娘」
そう言って、皇后に揖礼をとるのは、年のころ、十七、八の少女。全身黒ずくめの官服をまとい、黒縁の大きな眼鏡をかけている。
腰帯には腰牌が下がり『無双黒』と刻まれている。
少女が書いた報告書に目を通しているのは、皇帝・高英星。報告書はびっしりとかき込まれている。
遺体の素描や寝台の壊れたようす、杵に付着した血肉のさままでが描かれているのだ。惨劇の生々しさは少女の口から出た言葉の比ではない。英星の白い手はわなないていた。
ここ、坤寧宮の主である呉皇后は椅子に腰掛けたまま塑像のように動かない。下界を見下ろす天女のような見た目通りに、人の心を持たないのであろうか。
シャラリ、とかすかに音がした。ほんのわずか、身じろぎをしたのだ。こらえきれないといった具合に呉皇后は笑いだした。賛同するように、全身から笑いさざめくような音が生じた。頭上の冠と歩揺、腰から垂らした禁歩が奏でるしゃらしゃらとした音は、まるで少女の言葉を嘲笑っているようだ。
「なにを笑っているのだ、皇后……」
英星は眉をひそめた。
自分の妻が罪を犯したのだ。衝撃を受けないほうがおかしい。少女はそっとその竜顔を上目遣いにとらえた。
皇帝を真正面から見据えることはできない。だから盗み見るのだ。
すらりとした長身、白瑪瑙に似た艶のある肌、巴旦杏型の双眸には知性がにじみ、桜色の唇は苦痛を噛みしめている。
三十をいくつか出ているとは思えないほど若く見えるのだが、侮ってはならない。君主の理想を体現したかただと瞥見するたびに畏れ入る。
英星は報告書を角卓に放った。
「そなたは皇后なのだぞ。楊才人に嫉妬するなどわきまえが足りぬ」
死んだ女は下位の身分、才人だった。
呉皇后は少女のほうに話しかけた。
「そなたは、まるで見ていたかのように語る。さすがは大家が特別に目をかけているだけある。そのような無粋な服と蜻蛉のような眼鏡は感心しないけど、恐ろしい眼力ね」
「恐ろしいのはそなただ」
英星は皇后から目を背けた。
「後宮の管理はわたくしの職掌。緩んだ紐を締め直したまでのこと。大家のお怒りが解せません」
「なんだと」
「責めるべきは、後宮の規律を歪めた、大家の特別な感情ではないでしょうか」
大家とは皇帝を指す。
開き直ったような皇后の言い分に、英星はぐっと言葉を飲む。
そして困ったときにいつもそうするように、少女に視線を寄越した。
「無双黒の汪炯絲、朕の懐刀よ。そなたの意見を述べよ」
名を呼ばれて、炯絲の胸は熱く高鳴った。無双黒と刻まれた腰牌には飾りの黒い鈴がついていてコロコロと低く無骨な音を立てる。腰牌の裏には持ち主の名前が彫ってある。これらは汪炯絲の誇りだ。
ずり落ちていた眼鏡を中指で押し上げ、顔をあげる。目線は皇帝の胸もとに下げるように気を付けた。
お付きの宦官――たしか允巡という――が角卓の報告書を取りあげてこちらに寄越した。ざっと読み返すが我ながら完璧な出来映えだと思う。
「娘娘、さすがに陛下を責めるのは間違っておられましょう。後宮の管理は娘娘の権限。たしかに、それはそのとおりでございます。無礼な才人を懲らしめようと皇后様が権利を行使したと強弁なされるのであれば、なるほど、ちょっと行き過ぎてしまっただけ、とも言えましょう。楊才人は幸いと言いますか、御子もおらず、庶民の出でございます。こたびのことは、病死ということでよろしいのでは」
人の口に戸は立てられない。顔の半壊した死体が病死のわけもなく、このように隠すことでかえって噂は広がってしまうものだ。
ちらりと皇帝を見上げた。
英星は顎に指を這わせ、思案している。
陛下の意にかなうようにと願ったのだが、的を外してしまったようだ。
炯絲はずり落ちてくる眼鏡を中指で押し上げた。
「楊才人まことに気の毒であった。皇后については不名誉であろうが、事実を書き残すべきであろう」
英星の声を遮るように呉皇后が口を開く。
「少しばかり歌舞が上手いだけの卑賎な女でした。大家が熱をあげられる価値などありません。身分の上下を乱す大家の振る舞いこそ不名誉で、禍根の種子だとお気づきになりませんかしら。わたくしは秩序を取り戻したかっただけなのです。罪を犯したとは思いません」
呉皇后はなおも英星を責めた。あまり得策ではない。
楊才人は賤籍出身の舞妓であった。
命の重さには軽重がある。問題は、楊才人が陛下のお気に入りだったということだけだ。身分が高い者が低い者をなぶり殺すなど珍しいことではないのだから。
陛下が寵愛している女は後宮に複数いるようだから、名門の出を誇る呉皇后は、そのなかでもっとも位の低い者を狙ったのだ。見せしめの意図だろう。嫉妬とはなんと恐ろしいものか。
呉皇后に圧倒されているひまはない。炯絲は英星の望みを探らねばならない。
「しかしながら娘娘、なぜにみずからが処罰を与えようとなさったのですか。なぜ侍女や宦官に命じられなかったのですか」
「それは……」
「女官が粗相をしたときなどは娘娘は杖罰を下して宦官が執行していると聞きました。それは微罪だからでしょうか。より重罪である才人の処罰を、その細腕で執行されたのは大変だったことでしょう」
呉皇后は両の掌をひらいて凝視した。杵の重さと肉体を砕く感触を思い起こしているようだ。
「あれが処罰ならば楊才人が死体となって発見された日に堂々と名乗り出ればよかったのです。適切な処置であったと言うべきだったのです」
「……そうね」
激情にかられた皇后は、事後になって、おのれの罪深さに恐懼したようだ。皇帝の怒りを恐れ、おそらくはそれ以上に皇帝に厭われることを怯懦したに違いない。
「もうよい。朕はもう、そちの顔を見とうない!」
英星は呉皇后の心情に微塵も同情を見せずに、呉皇后を冷宮に入れよと衛兵に命じた。
シャラシャラとした音が次第に遠ざかっていく。
呉皇后の命運は尽きた。
廃后、そして賜死。
英星はどかりと椅子に腰をおろした。その顔には疲労と悲しみが滲み出ていた。
陛下の心を推し量るのは不敬だ。だが同情を禁じ得ない。愛する者を失ったと同時に信じた者に裏切られたのだ。
炯絲はかつて同じようにつらい思いをした過去があった。
思い出すと胸が痛む。せめて慰めの言葉をかけたいが、不遜すぎるだろうかと、そっと竜顔を覗いた。皇帝の口元が笑みの弧を描くのがはっきりと見えた。
慌てて目を伏せた。珍しくない。大きすぎる衝撃を受け止めかねて、笑ってしまうことはよくあることだ。
英星が炯絲の名を呼んだ。
「なにか褒美をとらす。とはいえ女を百戸につけるにはまだ時期尚早」
炯絲としても出世は望んでいない。
「褒美をいただけるのでしたら、陛下」
英星の前に一歩膝行し、礼をとった。つられて眼鏡がずり落ちそうになったのであわてて押し上げる。
「楊才人のご遺体を一両日お借りしたいのですが」
英星は顔をしかめた。
「……なんのために?」
「検死をやりたいのです」
「もうすんだろう。その結果、皇后が杵を使って叩き殺したと推理したのではないか。そして皇后はその通りと認めたのだ」
英星は不快そうに首を振った。
「おかげで天翔の誕辰祝いも取りやめになった」
凶器の杵は、皇太子・天翔の誕辰を祝って餅つきをするために用意しておいたものだった。
天翔の実母は呉皇后ではない。炯絲は無関係な邪推をするべきではないとおのれを諫めた。
「少々、不審な点がありまして」
「不審?」
皇后が杵を振るって楊才人の体を叩き潰したことはたしかだ。だが叩き殺したのかどうかは疑問だった。
この事件を終わらせるには実証が必要だ。そう口にする前に、英星に袖を振られた。
「だめだ、この件は終わりだ。可哀想な楊才人を早く葬ってやりたい。遺体をもてあそぶ権利はそなたにはない」
「……ではのちほど冷宮を訪ねる許可を。自白の口書きを書きますので呉皇后の拇印をいただきたく」
本人が殺害を認めた証を書類の形で残しておきたかった。
「形式ばって堅苦しいのはそなたの悪い癖だな。許可は出せぬが、ではこう追記しておけ。皇帝の目の前で罪を認めたことを皇帝の玉璽をもって証とする。あとで判を押せばよいか?」
「い、いえ、それには及ばず」
炯絲は恐縮して膝立ちのまま後ずさった。
英星は炯絲の病死案を却下して皇后を咎めることを選んだ。ならば可能な限り真実に沿った記録を残したいというのが炯絲の本心であった。
「褒美代わりに眼鏡を直してやる。炯絲は顔が小さいのだな。もっと小ぶりなものを作らせよう」
「ありがたき幸せ。御聖恩に感謝いたします」
「ちちうえ」
と、そこに駆け寄ったのは、四歳になったばかりの皇太子、天翔だ。皇帝の一粒種にして一人息子である。英星の前でちょこんと礼をとる。
「ああ、いけません。勝手に入っては」
そう言って、あとを追いかけてきたのは屈強な武官だ。英星は顔をしかめた。
「英耀、なぜ天翔のお守りをしている。内閣大学士や宦官はどうしたのだ」
英耀は礼をとるや天翔をひょいと担ぎ上げて自分の肩に乗せた。英耀は今上帝の異母弟にあたり、天翔とは叔父と甥の関係にある。
「殿下は抜け出すのがお得意でしてね。勉学はともかく、おかげで足腰はしっかりと強くなっておりますよ。武術や馬術を教えて差し上げたいですな」
「えいようがおしえてくれるの?」
「ならぬ。まずは勉学だ」英星はたしなめた。「仁政とはなんだ、王道と覇道の関係は」
「えっとう……」
天翔は口ごもった。無理もない。四歳には難しすぎる。
「殿下のお身体が丈夫で健やかなことはよろこばしいことです。大きな器にお育ちあそばされますよう、誕辰のお祝いに馬を贈らせていただきたいのですが」
「馬はまだ早かろう」
英耀の申し出に英星は首を傾けた。
「木馬です。跨いで遊ぶ、前後に揺れる玩具の」
「ああ、それならよい。葉徳妃の元に届けなさい。朕は執務に戻る」
英星はほっと息を吐いた。緊張していたようだ。
下がるようにと宦官に促されて宮門を出る。門の外に妃嬪が数人佇んでいる。呉皇后が冷宮に連れて行かれる姿を見ていたらしく、神妙な面持ちだ。
ひとりの妃嬪の膝元へ「ははうえ」と天翔が走り寄る。実母の葉徳妃だ。今上皇帝の、今のところ唯一の御子を産んだ女性である。
吊り気味の双眸が近寄りがたい印象を与えるが、立ち姿は風にそよぐ柳のようにしなやかだ。遊び盛りの天翔に「もう戻りなさい。大学士を待たせないように」と軽くたしなめ、母親らしい心配を覗かせている。ふとこちらを見やったのは、炯絲の視線を感じたからか。避けるように面を伏せた。
まるで見てはいけないものでも見てしまったかのように。
そのような態度を取られることは、残念ながら炯絲は慣れすぎていた。
ふと視線をずらすと影のような女がいた。身なりからして妃嬪の一人に違いない。
小柄な体に童顔がちょこんと載っている。歳はせいぜい十六、七といったところだが、身に着けている襦裙は朽葉のような地味な色をしていて、それが影のような印象になったのだろう。瑞々しさを殺している。
もったいない。と反射的に思ったものの、後ろに侍る、無理に若作りをしているような花色の襦裙の妃嬪たちと比べると、かえって幼さが浮き立つ。どうしても目が引きつけられてしまう。
ふと視線があった。
女は葉徳妃とは異なり、目を背けることはしなかった。ただじっと見返してきた。
「娘娘はどうなるのでしょうか」
葉徳妃が英耀を呼び止めて尋ねた。英耀はにべもない。
「近いうちに、杯を賜るだろうな」
「まあ、恐ろしい」
毒が満たされた杯は罪を犯した妃嬪への皇帝からの最後の贈り物だ。
「行くぞ」
英耀は踵を返し、炯絲に声をかけた。直接の上司ではないが、逆らう理由はない。
なんとなしに振り返ったら、またあの女と目が合った。小首を傾げて、今度はにこにこと笑っている。
早足で前を歩く英耀にあの女の名前と階級を尋ねようと思ったが、頭を振る。後宮は管轄外だ。覚える必要はない。
きっと女の武官が珍しかっただけだろう。
炯絲は無双黒という武官である。無双黒は百年前は皇帝直属の特務機関だったが、今では市中の秩序と安全を守るほか犯罪を捜査する組織へと発展した。汪炯絲は無双黒始まって以来唯一の女武官である。
とはいえ武官とは名ばかり。武術の素養はない。組織の中には文官がやるような仕事もあるので主にそっちを担当している。捕り物などの身体を張る仕事は同僚に任せている。
一度混ざろうとしたら邪魔だと突き飛ばされて、眼鏡を壊された。
以来、不得意なことには加わらず、得意なことに一意専心することに決めたのだった。
無双黒の上部機関に鎮撫衛があり、皇帝の異母弟である高英耀はそこの指揮使だ。
「慣れたか?」
英耀は虚空に問いかけた。独り言かと訝しんでいると、
「なぜ無視をする。仕事には慣れたか。来月で、任官して一年になるだろう」
「はい。よい職場で、毎日充実しております」
「はは、それはよかったな」
目の前を大股で闊歩する英耀は武芸で名高い。皇帝の異母弟かつ上司格となると、気を遣う。それこそ皇帝が父なら無双黒は息子、鎮撫衛は叔父のような関係だ。つまり厄介な間柄なのだ。
「陛下のために尽力していると聞いて、おれはうれしいんだ」
「ご冗談を」
「あと二、三年働いたら嫁にでも行け。仕事ばかりしていると行き遅れるぞ。ではな」
英耀は振り返ることなく言い放つと、鎮撫衛の司所に帰って行った。
相変わらず嫌な男だ。何年経っても性格は変わらないようだ。
炯絲は肩をすくめた。




