第七十九話 始球式
大会当日の球場は、朝から大勢の観客で賑わっていた。
アルセリア皇国各地から集まった代表に、サウレア王国とウェストリア王国の選手たち。それぞれの旗を掲げた一団が並び、観客席から声援が飛ぶ。
貴賓席では、皇帝と皇后がその様子を眺めていた。
「ずいぶん集まりましたね」
「ああ。あれだけ楽しみにしておったからな」
皇帝の視線の先で、アイリスが満足そうに会場を見回している。
選手も揃った。観客も入った。天気もよい。
あとは、始めるだけだった。
「皆様、お待たせいたしましたわ!」
アイリスの声に、選手たちが顔を上げた。
「本日は、遠方からお越しくださり、ありがとうございます。こうして皆様と大会を迎えられたことを、嬉しく思いますわ!」
拍手が広がると、アイリスは貴賓席へ顔を向けた。
「そして、皇后陛下のご出産を前に、皆様とお祝いできることも!」
皇后が微笑んで応じる。その隣では、皇帝も観客たちへ軽く手を上げた。
西国の関係者が、その光景を眺めながら隣へ呟く。
「……やはり、皇国のお祝いに来ておるな」
「今さらではありませんか」
「そうなのだがな」
そう言いながら、彼も拍手を送った。
◇
「それでは、試合に先立ち、始球式を行います!」
選手たちが脇へ退き、球場の中央が空けられた。
「皆様も、もうご存じかと思いますわ。護衛騎士のリゼットと、ヴィンセントです!」
紹介に合わせて、二人が前へ出る。
ヴィンセントの手には白い球。リゼットは捕手の道具を身につけ、片手を上げて観客の声援に応えていた。
「……あの二人がやるのか」
代表選手の一人が、隣の者へ尋ねる。
「そうらしいな」
「何を?」
「始球式だろう」
「それは聞いた」
ヴィンセントが投手の位置へ向かい、リゼットは本塁の後ろへ回った。
そして、始球式の打者に選ばれた選手が、バットを持って歩いてくる。
ただし、足取りは重かった。
◇
「もう少し、こちらへお願いします」
係の者に案内され、打者は白線の前で立ち止まった。
「ここですか?」
「はい。打席の中へどうぞ」
打者は投手の位置を見た。
ヴィンセントが、手の中で球を軽く転がしている。
もう一度、足元の白線を見る。
「……ここからでは駄目ですか?」
「そこでは、打席の外です」
「分かっています」
分かっているから、入りたくなかった。
それでも促され、白線の内側へ片足を入れる。続けてもう片方も入れたが、身体はできる限り端へ寄せていた。
リゼットが、その後ろで腰を落とす。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ……」
打者はバットを構えながら、振り返った。
「空振りでよいのですよね?」
「はい。それで大丈夫です」
その返事に、少しだけ肩の力が抜ける。
ところが、打席を離れようとしていた係の者が、念を押すように言った。
「間違っても、バットにかすらせるなよ」
「……え?」
「当てようとはするな」
「始球式だから、という意味ですよね?」
係の者は投手の位置へ目をやってから、打者へ向き直った。
「とにかく、空振りで頼む」
「待ってください。その言い方は――」
だが、もうリゼットがミットを構えていた。
◇
「準備はよろしいですか?」
ヴィンセントが尋ねる。
「はい、どうぞ!」
答えたのはリゼットだった。
打者は何か言いかけたが、観客席から拍手が起こり、その声は届かなかった。
ヴィンセントが足を上げる。
打者も慌てて前を向き、バットを握り直した。
投げたら、振る。
当てなくてよい。空振りでよい。
それだけなら――。
ヴィンセントの腕が振られた。
球が消えた。
ばぁんっ!!
「ぐふぅっ!」
「えっ」
背後で凄まじい音と、くぐもった声がした。
リゼットが、ミットを抱えたまま後ろへ転がっていく。
一回転。もう一回転。
打者はその姿を目で追いかけ、そこでようやく、バットを振った。
ぶんっ。
誰もいない本塁の上を、バットが通り過ぎた。
◇
球場が、一瞬静かになった。
打者は振り抜いた姿勢のまま、遠くへ転がっていったリゼットを見ている。
リゼットは仰向けになっていたが、やがて片腕を持ち上げた。
ミットの中には、白い球が収まっている。
「捕りました!」
観客席から、どっと歓声が上がった。
「お見事ですわ!」
アイリスが嬉しそうに拍手を送る。
貴賓席では、エルナが立ち上がりかけた姿勢から、ゆっくりと座り直していた。
「……捕れたのね」
「転がっておったぞ」
皇帝が言うと、皇后も少し心配そうに本塁の後ろを見た。
リゼットは起き上がり、服についた土を払っている。そこへヴィンセントが歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
「はい。捕れましたから」
「よかったです」
打者は、二人を交互に見た。
自分はまだ、球を見ていない。
◇
代表チームの選手たちは、拍手をするのも忘れていた。
サウレアの選手が、そっと大会関係者を呼び止める。
「確認したいのだが」
「はい、何でしょうか?」
「あいつは、試合では投げないよな?」
指差した先では、ヴィンセントがリゼットから球を受け取っていた。
関係者は手元の名簿を確認する。
「はい。ヴィンセント殿は、打者のみの登録です」
「そうか」
選手は息を吐いた。
隣にいた仲間も、肩を下ろす。
しかし、少ししてから二人とも顔を上げた。
「……打者では出るんだな」
「はい」
関係者の返事は明快だった。
選手たちは、もう一度ヴィンセントを見た。
そのうち一人が、自分たちの投手へ目を向ける。
投手は、黙って帽子を被り直した。
◇
「これで、始球式は無事終了ですわ!」
アイリスの声に、打者が振り返った。
「無事……」
手の中のバットは折れていない。自分も立っている。リゼットも元気に歩いている。
確かに、無事ではあった。
「ありがとうございました」
ヴィンセントに声を掛けられ、打者はぎこちなく頷いた。
「こちらこそ」
「きれいな空振りでしたね」
「……どうも」
当たる余地すらなかった。
打者はバットを抱え、ようやく打席を離れた。
◇
始球式の道具が片づけられ、第一試合の選手たちが守備についた。
観客席では、それぞれの代表を応援する声が再び大きくなる。
アイリスも席へ戻り、身を乗り出した。
「いよいよですわね!」
「ええ。今度は試合を見ましょうね」
エルナに言われ、アイリスは素直に座り直す。その後ろでは、リゼットがまだ袖についた土を払っていた。
本塁に審判が立ち、最初の打者が打席へ入る。
「試合開始!」
投手が振りかぶり、第一球を投げた。
白い球が本塁へ向かって飛んでいく。
「……見える」
控えに戻った始球式の打者が、しみじみと呟いた。




