第七十二話 動かなかった国
アルセリア皇国の東にある、エストリア王国。
南国サウレア王国が交易を深め、西国ウェストリア王国が戦争を経て友好へ転じ、北国ノルディア王国も皇国との関係を見直す中、この国は慎重な姿勢を崩していなかった。
ただ、国が動かなくても、商人たちは動く。
「皇国から入ってくる商品の量が、また増えております」
王宮の会議室で、官僚が資料を広げた。
酒、化粧品、調味料に生活用品。西部の都市からは、皇国との交易をもっと盛んにしてほしいという要望まで届いている。
「南からはサウレア経由、北からはノルディア経由の商品も入っております」
「どこから来ても、辿ればアルセリアか」
王は机の端に置かれた小さな瓶を見た。皇国で作られた化粧品だという。王自身にはよく分からないが、王宮でも似たような容器を見かけることが増えていた。
「ずいぶん入り込んできたものだな」
「売れますので」
「……分かりやすい理由だ」
国境に争いがあるわけではない。皇国と敵対しているわけでもない。それでも、周辺国が次々と関係を深める中で、エストリアだけが足を止めていた。
「我が国も、皇国との交易について話を進めてはいかがでしょう」
重臣の提案に、王はすぐには答えなかった。
地図へ落とした視線が、西から東へ移る。
「それだけを考えられれば、楽なのだがな」
◇
エストリアの東部には、神光教の神殿が数多くある。
さらに東のグランディア帝国からは、織物や香料を積んだ商人に交じり、聖職者や巡礼者も往来していた。
広大な領土と人口を持ち、神光教を国の中心に据える大帝国。エストリアは古くから、その国との交易と関係を保ってきた。
「アルセリアへ大きく寄れば、グランディアがどう見るか」
王が言うと、重臣たちも黙った。
「ですが、南国も西国も、皇国と関係を深めたからといって支配されているわけではありません」
若い官僚が、少し遠慮がちに口を開いた。
「それぞれの国として、交易で利益を得ております。我が国も同じように付き合えるのではないでしょうか」
「そうだな。アルセリアを警戒しすぎていたのかもしれん」
「では」
「東がなくなるわけではない」
王は椅子へ背を預けた。
「今まで動かなかったのも、そのためだ。……動けなかった、と言うべきか」
西からは、新しい品と技術が入ってくる。東には、長く関係を築いてきた大帝国がある。
どちらとも付き合っていきたい。それだけのことが、周囲の変化とともに難しくなり始めていた。
◇
グランディア帝国の、ある地方都市。
神光教の神殿にも、西方の噂が届いていた。
「太陽教で、妙な現象が起きているそうです」
「妙な現象?」
「金色に光る騎士と、聖女と呼ばれる女騎士。白い羽が現れ、誰も触れていない鐘が鳴るとも」
報告を受けた聖職者は、手を止めた。
太陽教は、古く神光教から分かれた宗派である。その存在は知られていたが、最近はこれまでにない話が伝わってくる。
「それは、太陽教が正式に認めた奇跡なのか?」
「そこまでは。ただ、司祭たちの間でも話題になっているようです」
「……少し調べろ」
聖職者は差し出された報告書を受け取った。
「何が起きているのか、気になる」
◇
その頃、アルセリア皇国の皇宮では、野球大会の予選結果が話題になっていた。
「西方地区も、かなり絞られてきましたわ!」
アイリスが嬉しそうに資料を広げる。その横では、皇后がゆっくりと椅子へ腰掛けていた。
「お母様、お疲れですの?」
「ええ、少しだけ。休めば大丈夫ですよ」
皇后がお腹へ手を添えると、ヴィンセントがすぐに飲み物を用意した。
「何か食べられそうなものも、お持ちしましょうか?」
「では、少しだけお願いします」
「はい」
アイリスは大会の資料を読み、皇帝は執務の書類へ目を通す。エルナも皇后の様子を気にしながら、その隣で話を聞いていた。




