第六十九話 有線通信と大会準備
それから、しばらく。
皇宮では。
以前から進められていた一つの研究が。
ようやく。
試験運用の段階へ入ろうとしていた。
「アイリス殿下」
「はい?」
「有線通信の試験準備が整いました」
「まあ!」
報告を聞いたアイリスの顔が、一気に明るくなる。
「ついにですのね!」
「はい。ただし、今回は皇宮内の別棟との通信試験となります」
「構いませんわ!」
皇宮の一室。
そこには。
見慣れない機器と。
そこから伸びる線。
線の先にある別棟にも。
同じような設備と、担当者が待機しているという。
「この線を通じて、向こう側へ情報を送ります」
「本当にすぐ届きますの?」
「機器の動作は確認しております。本日は、実際に別棟との間でやり取りを行います」
「なるほど……」
アイリスがヴィンセントを見る。
「楽しみですわね!」
「そうですね」
「成功したら、ずいぶん便利になりますわ!」
「まずは見てからにしろ」
皇帝が横から口を挟む。
「分かっておりますわ!」
試験が始まる。
担当者が機器を操作する。
アイリスは。
じっと。
その手元を見ていた。
ほどなくして。
向こう側から返事が届く。
受信を確認した担当者が、内容を読み上げた。
「『受信しました。こちらに異常はありません』――成功です!」
「まあ!」
アイリスが身を乗り出した。
「もう返事まで届きましたの!?」
「はい」
「早いですわ!」
これまでは。
別棟への連絡にも、人を走らせていた。
返事が必要なら。
相手に伝え。
答えを聞き。
また戻ってくる。
だが。
今は。
誰も、この部屋を出ていない。
「もう一度送れますの?」
「はい。何と送りましょう?」
「ご苦労さまです、と!」
「承知しました」
担当者が操作する。
少しして。
再び返事が届いた。
「『ありがとうございます』とのことです」
「まああ!」
アイリスが嬉しそうに皇帝を見る。
「お父様!」
「見ておる」
「本当に届いておりますわ!」
「ああ」
皇帝も機器へ目を向けていた。
説明では聞いていた。
だが。
実際に、目の前で返事が届くのを見ると。
その早さがよく分かる。
「……これは、使えそうだな」
「でしょう!」
「まだ短い距離での試験ですが」
技術者が付け加える。
「長距離での運用には、中継設備や電気の安定供給など、引き続き確認が必要です」
「では、少しずつ進めてくださいまし!」
「はい」
「街道整備の担当者とも、相談を続けろ」
皇帝が言う。
「まずは確実に使える範囲からだ」
「承知いたしました」
アイリスは。
まだ機器を見ていた。
「殿下?」
「もう一度くらい……」
「向こうにも仕事がある」
「試験ですわ!」
「今の顔は、遊びたいだけであろう」
「…………」
少しだけ。
当たっていた。
◇
そんな有線通信の試験が始まった頃。
アイリスは。
別のことも考えていた。
「エルナお姉様」
「何です?」
「野球」
「はい?」
「ずいぶん広まりましたわよね?」
「そうですね」
皇国内。
サウレア。
ウェストリア。
各地で野球を始める者たちが増えている。
「でしたら」
アイリスの目が輝く。
「大きな大会を開きませんこと?」
「……またですか」
「またとは何ですの!」
「いえ」
エルナは小さく笑った。
「今度は、どのくらいの規模を考えているのです?」
「皇国内だけではなく!」
「…………」
「サウレアも!」
「はい」
「ウェストリアも!」
「やはり」
「皆さん参加できる大会ですわ!」
エルナは少し考えた。
「すぐに開催するのですか?」
「いいえ!」
珍しく。
アイリスが首を振る。
「今回は、大きな大会ですもの」
「ええ」
「ちゃんと準備期間を設けますわ!」
「まあ」
「それに……」
アイリスは。
少しだけ声を柔らかくした。
「お母様のお子が生まれる前に」
「…………」
「皆さんで、無事に生まれてくることを願いながら、楽しく過ごせる催しにしたいですわ」
エルナが微笑む。
「それは良いですね」
「でしょう!」
すぐに元気に戻った。
「では、お父様にもお話ししましょう!」
◇
皇帝の了承を得て。
両国との調整も進められた。
そして、後日。
正式な大会開催の知らせが出された。
皇后の安産を祈念した。
大規模な親善野球大会。
皇国内の騎士団や兵士たちだけでなく。
町や地域で作られたチームも。
そして。
サウレア王国。
ウェストリア王国からも。
参加を募る。
まずは参加希望を受け付け。
準備期間を設けた上で、各地域で予選を行う。
決勝リーグの開催時期は、あらかじめ目安を示し。
詳しい日程や組み合わせは、参加数がまとまってから発表することになった。
「これならよろしいですわね!」
アイリスが満足そうに告知文を見る。
「一度に全部やると言い出さなくて安心した」
皇帝が答える。
「わたくしだって考えておりますわ!」
「そうか」
「その顔はなんですの!」
◇
募集が始まってから、しばらく。
「アイリス殿下」
「はい?」
「大会への参加希望が届いております」
「まあ!」
担当官が。
書類を置く。
どさっ。
「…………」
「こちらが皇都周辺です」
「はい」
さらに。
どさっ。
「こちらが地方都市から」
「…………」
さらに。
どさっ。
「こちらが騎士団関係」
「まだありますの?」
「はい」
どさっ。
「サウレアからも」
「まあ!」
「ウェストリアからもございます」
「まああ!」
アイリスは嬉しそうだった。
皇帝は。
書類の山を見ていた。
「……連絡だけでも、相当な量になるな」
「はい。参加確認に加え、予選会場や日程、ルールについての問い合わせも届いております」
「…………」
アイリスも。
書類を見る。
参加確認。
会場。
日程。
ルール。
変更。
問い合わせ。
予選が始まれば。
その結果も集めなければならない。
「たくさんありますのね……」
「ございます」
担当官の返事には。
少しだけ。
重みがあった。
その時。
部屋の端に置かれた通信機器の前で、別の担当者が顔を上げた。
「受付から、追加の連絡です」
「まあ?」
試験回線で繋がれた別棟には。
大会の申し込みを受け付ける窓口が設けられていた。
各地から届く書類は、そこで取りまとめる。
そのうち。
急ぎの確認や、短いやり取りには。
有線通信を試しに使い始めていた。
「皇都の商人組合から、二チームで参加できるかとの問い合わせです」
「二チーム!」
アイリスの顔が明るくなる。
「皆さん、やる気ですわね!」
「それぞれ別の選手であれば、受け付ける取り決めになっております」
担当官が答える。
「では、そうお伝えくださいまし!」
「承知しました」
返答が送られる。
ほどなくして。
「受付、了承しました」
「…………」
アイリスが機器を見る。
「今ので、済みましたの?」
「はい」
「誰も書類を持って走らなくてよろしいのですの?」
「この確認については必要ありません。申込書そのものは、後ほどまとめて運びます」
「まあ!」
さらに。
「別件です。予選の審判について、相談したいという方が受付に来られています」
「担当者を向かわせます。少々お待ちいただくよう伝えてください」
「はい」
やり取りが進む。
人を呼びに来るために。
誰かが走ってくることもない。
待っている相手へ。
すぐに返事もできる。
「……便利ですわね」
アイリスが呟いた。
「そうだな」
皇帝も頷く。
「商人の方々の連絡にも便利だと思いましたけれど」
アイリスは書類の山を見る。
「大会だけでも、これほどありますのね!」
「人が集まれば、それだけ調整も増える」
「なるほど……」
また、受付から連絡が届く。
担当者が内容を書き留める。
確認し。
返事を送る。
「お父様」
「なんだ」
「有線通信」
「ああ」
「ものすごく便利ですわ!」
「分かったから、担当者の邪魔をするな」
「しておりませんわ!」
アイリスは。
少しだけ。
機器から離れた。
◇
もちろん。
まだ各地と線が繋がっているわけではない。
地方や外国との連絡には。
これまで通り、使者や手紙が必要だった。
それでも。
皇宮内の短いやり取りだけで。
往復する手間が、いくつも減った。
技術部にとっても。
実際の仕事で使いながら、運用上の問題を確かめる機会となった。
「これが地方まで繋がりましたら……」
アイリスが楽しそうに言う。
「もっと便利になりますわね!」
「そのための試験だ」
「では、引き続きお願いしますわ!」
「お前に言われずとも進めておる」
「はい!」
こうして。
皇后の安産を願う。
大規模な野球大会の準備が始まった。
同時に。
有線通信も。
研究室で動かすだけのものから。
日々の仕事に使うものへと。
少しずつ、変わり始めていた。
商売。
行政。
催し。
遠く離れた場所を。
少しずつ。
近くしていく。
もっとも。
アイリスにとっては。
「各地まで繋がれば、予選結果もすぐ分かりますわね!」
今のところ。
野球大会の方が。
大事らしかった。




