第六十話 分かっててなお
ウェストリア軍が国境から撤退して、数日。
両国の間では大規模な戦闘もなく、正式な停戦交渉に向けた調整が始まっていた。
そんなある日のこと。
西方国境都市。
「…………」
アイリスは、机の上に広げられた地図を眺めていた。
アルセリア皇国。
その西に、ウェストリア王国。
そして。
さらに、その向こう。
「…………」
アイリスの指が、西へ西へと進んでいく。
やがて。
国土の端で止まった。
「ヴィンセント」
「はい?」
「この先は、海ですのね」
「そうですね」
「…………」
「…………」
アイリスが地図を見つめる。
「海……」
「海ですね」
「…………」
そして。
顔を上げた。
「見に行きたいですわ!」
「いいですね!」
「よくありません」
即座に親衛隊長が割って入った。
「なぜですの?」
「なぜも何もございません」
隊長が地図を指差す。
「ここが現在地です」
「ええ」
「そして、海がこちらです」
「ええ!」
「この間にあるものは?」
「ウェストリア王国ですわね」
「敵国です」
「…………」
「現在、我が国はウェストリア王国と戦争中です」
「ですが、今は戦っておりませんわよ?」
「戦争中です」
「停戦のお話も始まるのでしょう?」
「まだ成立しておりません」
「…………」
アイリスは地図を見る。
そして。
「でも、海を見てみたいですわ」
「殿下」
「分かりましたわ!」
アイリスが胸を張る。
「ちゃんとお父様に聞いてみます!」
「…………」
親衛隊長は少しだけ安心した。
皇帝陛下なら。
さすがに止めてくださるだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
数日後。
皇都。
皇帝は、西方から届いた書状を読んでいた。
「…………」
読む。
「…………」
もう一度読む。
「…………」
机へ置く。
「陛下?」
ノリスが声を掛ける。
「……勝った」
「はい」
「西国軍は撤退した」
「はい」
「侵攻は阻止した」
「その通りでございます」
「停戦交渉に向けた調整も始まっておる」
「はい」
「…………」
皇帝は書状を見る。
「なぜ」
「はい?」
「なぜその流れで――」
書状を持ち上げる。
「アイリスがウェストリアを横断して海へ行く話になるのだ!?」
「…………」
ノリスは答えなかった。
答えられなかった。
「海を見てみたいですわ、ではない!」
皇帝が書状を机へ置く。
「敵国だぞ!?」
「はい」
「まだ戦争中なのだぞ!?」
「はい」
「そこを第二皇女が横断する!?」
「……そのようでございます」
「そのようでございます、ではない!」
「あらあら」
皇后が楽しそうに微笑んだ。
「アイリスらしいではありませんか」
「らしいから困っておるのだ!」
「でも、きちんとあなたにお願いしているのでしょう?」
「…………」
皇帝が止まった。
もう一度。
書状を見る。
そこには。
海を見てみたい。
ウェストリア王国を通らなければならない。
ヴィンセントも一緒なので安全だと思う。
だから許可してほしい。
という内容が、アイリスらしい丁寧な文章で書かれている。
「…………」
皇帝は眉間を押さえた。
安全。
確かに。
安全だけを考えるなら。
「……ヴィンセントも行くのだな?」
「その予定かと」
「…………」
ならば。
アイリスの安全については、むしろ心配する必要がない。
問題は。
それ以外の全てである。
「……陛下」
ノリスが恐る恐る尋ねる。
「いかがいたしましょう」
「…………」
皇帝は長い沈黙の後。
「ウェストリアへ許可を取れ」
「は?」
「勝手に行かせるわけにはいかん!」
皇帝が机を叩いた。
「正式にウェストリア王国へ使者を出せ!」
「し、しかし……」
「向こうが許可しなければ行かせん!」
「なるほど」
「それならばアイリスも諦めるであろう!」
「…………」
皇后が口元へ手を添える。
「あらあら」
「なんだ」
「いえ」
皇后は微笑んだ。
「何も」
「…………」
皇帝は嫌な予感がした。
「とにかく!」
皇帝が声を上げる。
「ウェストリアが正式に許可するならば認める!」
「よろしいので?」
「他にどうしろというのだ!」
皇帝は頭を抱えた。
「ええい! なぜ余は戦争に勝った直後に、娘が敵国を横断して海へ遊びに行く許可を出しておるのだ……!」
◇ ◇ ◇ ◇
数日後。
ウェストリア王国。
「…………」
参謀は、アルセリア皇国から届いた書状を眺めていた。
「…………」
もう一度読む。
「…………」
机へ置く。
「参謀殿?」
「……確認する」
「はい」
「我が国とアルセリア皇国は、現在戦争状態にある」
「はい」
「我が軍は侵攻に失敗した」
「はい」
「現在、停戦交渉に向けて調整中だ」
「その通りです」
「…………」
参謀は書状を持ち上げる。
「なぜ第二皇女が我が国を横断して海へ行くのだ?」
「…………」
「何なのだ、これは!?」
誰も答えなかった。
「しかも!」
参謀が書状の一部を指差す。
「護衛騎士ヴィンセントが同行するだと!?」
「……はい」
「我が軍を半壊させた男を、我が国内へ入れろと言っているのだぞ!?」
「そのようです」
「アルセリア皇帝は何を考えておるのだ!」
参謀が立ち上がった。
「戦争中の敵国に皇女と、あの男を送り込むなど……!」
「何か意図があるのでしょうか?」
「…………」
参謀が止まった。
「……待て」
「はい?」
「馬鹿なわけがあるまい」
「…………」
「アルセリア皇帝だぞ」
参謀は腕を組んだ。
「皇国を長年治めてきた皇帝だ。こんな馬鹿げた行動の危険性が分からぬはずがない」
「では……」
「何か狙いが?」
「…………」
参謀は考えた。
第二皇女を送り込む。
ヴィンセントを同行させる。
敵国内を横断する。
何のために?
威圧?
偵察?
こちらの防衛体制の確認?
あるいは、停戦交渉を有利に進めるための示威行為?
「…………」
だが。
書状に記されている目的は。
海を見たい。
「…………」
参謀の眉間に深い皺が寄る。
「まさか……」
「参謀殿?」
「皇帝自身も……」
「はい?」
「めちゃくちゃだと分かっているのではないか?」
「…………」
「だが、止められない?」
「…………」
会議室が静まり返った。
「いや、しかし……皇帝ですぞ?」
一人の重臣が言う。
「…………第二皇女だ」
「…………」
「その隣には、ヴィンセントがいる」
「…………」
誰も否定できなかった。
「……あり得るな」
誰かが呟いた。
「…………」
参謀は椅子へ座った。
もう一度、書状を見る。
正式な通行許可の要請。
皇国側も、勝手に入国させるつもりはないらしい。
そして。
断った場合。
「…………」
別に。
断ってもいい。
当然の権利だ。
戦争中なのだから。
だが。
海を見たいだけだという皇女を拒否して。
わざわざ関係を悪化させる必要があるだろうか。
しかも。
その皇女の隣には。
「…………」
ごぉぉぉん――。
「…………」
参謀は頭を振った。
「通せ」
「よろしいので?」
「構わん」
「しかし、ヴィンセントも入国します」
「手を出すな」
「は?」
「絶対に手を出すな」
参謀は強く言った。
「監視だけ付けろ。必要なら案内役も用意しろ」
「……承知いたしました」
「海が見たいのであろう?」
「そのようです」
「ならば見せてやれ!」
参謀が投げやりに言った。
「海くらい好きなだけ見て帰ってもらえ!」
「はっ!」
「…………」
部下が去っていく。
参謀は椅子にもたれた。
「……アルセリア皇帝」
ぽつりと呟く。
「そちらも苦労しておるのだな……」
◇ ◇ ◇ ◇
こうして。
正式な許可が下りた。
「行きますわよ!」
「はい!」
「…………」
親衛隊長は頭を抱えていた。
本当に許可が下りてしまった。
アルセリア皇国第二皇女。
その専属護衛騎士。
皇女親衛隊。
その一行が。
戦争中の敵国へ、堂々と入国した。




