第五十八話 効くことは効く
ウェストリア軍は、事実上進軍不能となった。
進軍開始時。
前線に集結していた兵、およそ一万五千。
さらに後詰として準備されていた兵を合わせれば、総勢二万。
その大軍勢が。
皇国領へ本格的に踏み込むことすらできず、進軍を止めた。
幸いだったのは、死者がそれほど多くなかったことだ。
直撃を受けたもの以外は吹き飛ばされ、巻き込まれるだけで済んでいた。
ただその負傷者の数は。
尋常ではなかった。
「こちらにも負傷者!」
「担架を!」
「治療できる者を回せ!」
「こっちは骨折だ!」
「医薬品が足りん!」
「荷馬車を起こせ! 動けるものから後方へ運べ!」
野営地の至るところから声が上がる。
兵士。
騎士。
弓兵。
魔術師。
部隊を問わず、負傷者が続出していた。
さらに。
盾。
槍。
荷馬車。
攻城兵器。
天幕。
補給物資。
軍として活動するための装備にも甚大な被害が出ている。
侵攻どころではなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
それから、しばらくして。
ウェストリア軍、後方拠点。
「……以上が、被害状況です」
「…………」
将軍は椅子に座ったまま、報告書を見つめていた。
「死者については、当初想定していたより少数に留まっております」
「……そうか」
「しかし、負傷者があまりにも多く……再編には相当な時間が必要です」
「…………」
「損傷した装備や物資についても、現在確認を進めております」
「もうよい」
将軍が手を上げた。
「下がれ」
「はっ」
報告役が退出する。
「…………」
静寂。
やがて。
将軍の拳が震え始めた。
「くっ……!」
机へ拳を叩きつける。
「何なのだ、あの男は!」
誰も答えない。
「二万だぞ!」
将軍が叫ぶ。
「こちらは二万の兵を用意したのだぞ!」
「…………」
「しかも、精神操作は成功した!」
「……はい」
魔術師が小さく答える。
「成功したのだな?」
「間違いなく」
「ならばなぜ我々の軍が壊滅しかける!」
「…………」
「しかも最後には本陣で『続けますか?』だと!?」
思い出しただけで身体が震える。
あの時。
ヴィンセントは怒ってすらいなかった。
ただ。
本当に。
続きをするのかと尋ねただけだった。
「…………」
将軍が歯を食いしばる。
「このまま……」
拳を握る。
「このまま何もできずに引き下がれるか……!」
「将軍?」
「何としても」
将軍が顔を上げる。
「何としても、一矢……!」
少なくとも。
あの男に。
何か一つでも。
「一矢報いる手はないのか!」
「…………」
士官たちが顔を見合わせる。
正面からは無理だった。
軍勢でも止められなかった。
精神操作は効いた。
確かに効いた。
しかし。
その結果。
自分たちの軍が半壊した。
「…………」
その時。
一人の情報将校が、恐る恐る口を開いた。
「……将軍」
「なんだ」
「以前の報告に……一つ、気になるものがございます」
「申せ」
「ヴィンセントという男についてです」
「それは分かっている!」
「いえ。戦闘能力ではありません」
「…………」
情報将校は、一枚の報告書を取り出した。
「この男……」
一瞬、言っていいものか迷ってから。
「女性に、非常に弱いとの報告が」
「…………」
将軍の動きが止まった。
「……女?」
「はい」
「…………」
魔術師が顔を上げる。
「精神操作そのものは……効いた」
「はい」
「ならば……」
将軍の視線が。
ゆっくりと魔術師へ向く。
「魅了は?」
「…………」
室内が静まり返った。
◇ ◇ ◇ ◇
それから、しばらくして。
ウェストリア軍、後方拠点。
「…………」
将軍は、何も言わなかった。
その視線の先。
床には、一人の女性が這いつくばっている。
「…………」
今回の作戦のために選ばれた工作員だった。
容姿端麗。
潜入工作の経験も豊富。
そして、魅了の術まで扱うことができる。
ヴィンセントが女性に弱い。
精神への術そのものは有効。
その二つの情報から考え出された、新たな作戦だった。
実際。
作戦そのものは成功した。
ヴィンセントは彼女の誘いに乗った。
魅了の術も――効いた。
間違いなく効いていた。
なのに。
「…………」
将軍はもう一度、床を見る。
工作員は這いつくばっている。
「……大丈夫か?」
「…好意……が……暴…走」
工作員が言葉を絞り出す
「何があった?」
「…天国……よ…な…地獄…」
「魅了は効いたのだな?」
僅かに、工作員の頭が上下した。
「…………」
将軍は黙った。
正面から戦った。
軍が半壊した。
精神操作を使った。
効いた。
暴走した。
ハニトラを仕掛けた。
成功した。
魅了を使った。
これも効いた。
そして。
工作員が這いつくばって帰ってきた。
「…………」
将軍は天井を見上げた。
しばらく。
本当にしばらく。
何も言わずに考えて。
「……帰るか」
「将軍?」
「帰ろう」
将軍は静かに言った。
「もうよい」
「しかし……」
「何がある?」
将軍が部下を見る。
「まだ何か試すことがあるのか?」
「…………」
誰も答えなかった。
「軍隊で駄目だった」
「…………」
「精神操作も駄目だった」
「…………」
「女も駄目だった」
「…………」
「魅了まで駄目だった」
将軍が床を見る。
「しかも全部、効いている」
「…………」
「なぜ効いているのに、こちらが負けるのだ」
誰も答えられなかった。
「もうよい」
将軍は椅子へ深く腰掛ける。
「兵をまとめろ」
「……撤退、ですか?」
「ああ」
「王都へは、どのように報告を?」
「…………」
将軍は再び天井を見る。
「そのまま報告しろ」
「そのまま……」
「私にも分からん」
「…………」
「分からんものを、分かったように書くな」
「……承知いたしました」
もはや。
ウェストリア軍に、再び皇国へ攻め込むだけの余力は残っていなかった。




