第四十四話 西国ウェストリア王国
ウェストリア王国――王宮、執務室。
「では、皇国についての報告を」
「はい」
密偵が資料を広げる。
「まず、以前より報告しておりました道路ですが……さらに整備範囲が広がっております」
「またか」
参謀が眉をひそめた。
「西方だけではありません。皇都周辺から北、東方面でも整備が始まっているようです」
「……ずいぶん広げたな」
「はい。それに伴って、都市間の人と物の流れも増えております」
別の資料が置かれる。
「以前よりも商人の往来が増えています。地方の商品が皇都へ入り、皇都の商品も地方へ流れているようです」
「ふむ……」
参謀が資料へ目を落とす。
「道路を作れば、当然そうなるか」
「それだけではありません」
「まだあるのか?」
「南国サウレア王国との交易も、かなり増えております」
参謀が顔を上げた。
「南国?」
「はい」
「以前、皇国の第二皇女との縁談があったはずだが」
「流れました」
「流れたのか?」
「はい」
「では、関係は悪化したのではないのか?」
「それが……」
密偵が少し困った顔をする。
「むしろ、以前より良くなっております」
「……なぜだ?」
「技術や商品のやり取りを進めているようでして」
「婚姻は流れたのに?」
「はい」
「…………」
参謀はしばらく黙った。
「具体的には?」
「道路整備の技術。それから料理のレシピ。以前報告した化粧品もあります」
「ああ……」
参謀が思い出したように頷く。
「最近、こちらにも少し入ってきているな」
「はい」
机の端には、小さな容器が置かれていた。
皇国から商人を通じて流れてきた化粧品。
「女性の間では、かなり評判が良いようです」
「そうらしいな」
参謀は興味なさそうに容器を見る。
「それと……最近、妙な酒も入ってきております」
「酒?」
「はい」
「……ああ」
参謀が思い出す。
「泡の出るやつか?」
「それです」
「あれは皇国のものだったのか?」
「正確には、皇国で最近作られ始めたもののようです」
「ふむ……」
参謀は少し考える。
「この前、宴席で出ていたな」
「はい。かなり人気が出ているようで」
「…………」
道路。
料理。
化粧品。
酒。
一つ一つを見れば、別段恐ろしいものではない。
むしろ便利であり、豊かになるものばかりだ。
だが。
「……南国もか?」
「はい?」
「南国も、それで発展しているのか?」
「そのようです」
密偵が別の報告書を差し出す。
「皇国との交易が増え、商人の往来も以前より活発になっています。道路整備も進めているようです」
「…………」
参謀は黙って資料を見る。
皇国だけではない。
その南にあるサウレアまで、同じように豊かになり始めている。
「……なるほどな」
参謀は椅子へ深く座った。
「それから」
「まだあるのか?」
「軍について、少し妙な報告があります」
参謀の表情が変わった。
「申せ」
「皇国軍が、新しい訓練を始めております」
「新しい訓練?」
「はい」
「どのようなものだ?」
「それが……」
密偵が少し言いづらそうにする。
「球を投げます」
「うむ」
「棒で打ちます」
「……うむ?」
「打った者が走ります」
「…………」
「相手側が球を拾います」
「…………」
参謀が眉間に皺を寄せた。
「何の訓練だ?」
「分かりません」
「分からんのか?」
「野球、と呼んでいるようです」
「やきゅう……」
聞いたこともない。
「それが軍事訓練なのか?」
「そのようです」
「…………」
「九人ずつに分かれ、互いに競っております」
「それで?」
「走力、投擲、判断、連携などを鍛える目的があるようですが……」
「なるほど」
そこまで聞けば、一応は理解できる。
「遊びに見せかけた訓練ということか」
「……おそらく」
「ふむ」
「ただ……」
「なんだ?」
密偵が少し視線を逸らした。
「かなり楽しそうでした」
「…………」
「兵士たちが?」
「はい」
「訓練なのだろう?」
「はい」
「…………」
参謀が黙る。
「声を掛け合いながら走って、球を投げて、打って……かなり盛り上がっておりまして」
「…………」
「観客までおります」
「観客?」
「はい」
「軍事訓練に?」
「はい」
「…………」
密偵は少しだけ言い淀んだ。
「それと……」
「まだ何かあるのか」
「女性たちが、横で踊っています」
「…………何?」
「踊ったり、跳んだり……人を持ち上げたりしています」
「…………」
「それを見て、兵士たちがさらに張り切っております」
「…………」
参謀は額に手を当てた。
「お前は何を見てきたんだ?」
「私にも分かりません」
「軍事訓練を見に行ったのだろう?」
「そのはずなのですが……」
「…………」
しばし沈黙。
やがて密偵が、ぽつりと言った。
「……楽しそうでした」
「…………」
「なんというか……」
少しだけ羨ましそうに。
「私も、あの球を打ってみたいなと」
「…………」
参謀がゆっくり顔を上げる。
「お前」
「はい」
「何しに行ったんだ?」
「……偵察です」
「そうか」
「はい」
「なら、その顔をやめろ」
「申し訳ありません」
密偵は姿勢を正した。
だが。
頭の中にはまだ残っていた。
乾いた音を立てて飛んでいく白い球。
歓声を上げる兵士たち。
走り回る騎士たち。
そして――
(……楽しそうだったな)
そんな感想だけが、どうしても消えてくれなかった




