第九話 アイリス初公務
アルセリア皇国、皇都
初公務への出発を翌日に控えた朝。
アルセリア皇国では、皇族が公務へ赴く際、太陽教の総本山へ赴き、旅の無事を祈る習わしがあった。
アイリスもまた、皇宮を出て総本山へ向かった。
荘厳な礼拝堂。
高い天井から差し込む朝の光が、祭壇を静かに照らしている。
アイリスは祭壇の前に立ち、静かに目を閉じた。
「太陽神よ」
小さく祈る。
「これより私は、皇女として初めての公務へ向かいます」
ほんの少しだけ緊張した表情。
「どうか、無事に務めを果たせますように」
そして。
「……それと」
アイリスは少しだけ後ろを振り返る。
そこには、いつものようにヴィンセントが立っていた。
「皆が無事に帰ってこられますように」
そう祈り、アイリスは静かに頭を下げた。
「……行きましょう、ヴィンセント」
「はい、アイリス殿下」
二人は総本山を後にした。
こうして、アイリスの初めての公務が始まろうとしていた。
朝早くから、皇宮の一角には普段とは少し違う緊張感が漂っていた。
この日、皇女アイリスは初めての正式な公務へと旅立つ。
行き先は、皇国南方に位置する地方都市。
目的は現地の視察と、地方行政の状況確認。
往路に約二週間、現地での視察に約一週間。そして帰路に約二週間。
およそ一ヶ月に及ぶ長旅となる。
皇国国内とはいえ、決して安全な旅ではない。
周辺国との紛争が絶えず、
国境から離れた地域であっても治安が安定しているとは限らない。
街道沿いに盗賊が出ることもあり、
地方によっては犯罪組織が幅を利かせている場所もある。
そのため、本来ならば皇女の視察ともなれば、もっと大規模な護衛隊を組むのが普通だった。
しかし今回、アイリス一行の人数はおよそ十五名。
皇女本人、侍女たち、皇女親衛隊八名、随行する行政・視察関係者、そして――
アイリスの専属護衛騎士、ヴィンセント。
皇女の一行としては、かなり少ない。
「アイリス殿下」
出発を前に、随行する補佐官が不安そうな顔で口を開いた。
「はい?」
「……護衛の者が、少ないように思われるのですが」
アイリスは不思議そうに首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「はい。いくら皇国国内とはいえ、危険な地域もございます。今回の視察は一ヶ月近くにも及びますし、万が一ということがあれば――」
「大丈夫ですわ」
アイリスは、なんの迷いもなく答えた。
「ヴィンセントが一人いれば問題ありませんもの」
「……」
補佐官が固まる。
その視線が、アイリスのすぐ隣に立つヴィンセントへ向けられた。
ヴィンセントはいつものように、静かにアイリスのそばに控えている。
「親衛隊の皆様にも来ていただきますし、そんな大所帯にする必要はございませんわ」
アイリスはそう言って、少し楽しそうに笑った。
「それに、各都市でしっかりとお金も使いますもの。視察先の方々にも喜んでいただけるでしょうし、問題はありませんわ」
「いや、そこではございません!」
「?」
「治安の問題です!」
「大丈夫ですわ」
また即答だった。
「ヴィンセントがいますもの」
「…………」
補佐官は、何か言いたげに口を開き――結局、閉じた。
ヴィンセント本人はというと、特に反論する様子もない。
ただアイリスの荷物を確認し、侍女から預かったものを手際よく整理している。
「殿下、お忘れ物はございませんか?」
「ええ。たぶん」
「では、こちらもお持ちします」
「まあ、ありがとうございます」
「お飲み物はこちらに。長旅になりますので、喉が渇きましたらすぐお申し付けください」
「分かりましたわ」
補佐官は、その様子を眺める。
……この男、本当に皇女殿下から一歩も離れないな。
護衛騎士なのだから当然と言えば当然なのだが、それにしても近い。
アイリスが歩けば、そのすぐ隣を歩く。
アイリスが馬車へ向かえば、当然その横へ。
侍女が荷物を持とうとすれば、
「こちらはわたしが」
と自然に受け取る。
アイリスが何かに気づけば、
「どうされました?」
とすぐに反応する。
その動きに無駄がない。
しかも本人は、それを特別なことだと思っている様子すらない。
ただ、アイリスの護衛騎士として当然のように振る舞っている。
「……まあ」
補佐官は小さく息を吐いた。
「ヴィンセント殿がいるなら……」
そこまで呟いて、首を横に振る。
「いや、それでも少なすぎると思うのですが……」
結局、最後まで納得しきれない。
しかしアイリスはそんな補佐官の心配をよそに、出発を待つ馬車を見つめていた。
「いよいよですわね」
初めての正式な公務。
皇女として、自分自身が皇国の地方を見る。
少しの緊張はある。
けれど、それ以上に責任感があった。
「しっかり務めてまいりますわ」
アイリスは小さく息を吸う。
そして、馬車へ乗り込もうとした。
その瞬間。
「殿下、足元を」
「まあ」
ヴィンセントが自然に手を差し出す。
「ありがとうございます」
アイリスはその手を取り、馬車へ乗り込んだ。
ヴィンセントもすぐ隣へ続く。
皇女親衛隊八名が周囲を固め、侍女たちと随行員もそれぞれ持ち場につく。
やがて、皇女一行を乗せた馬車がゆっくりと動き始めた。
皇都を出て、南へ。
一ヶ月に及ぶ、アイリスの初めての公務が始まった。




