第三章 鋼鉄の試練:第四艦隊事件の衝撃
1935年9月、台風一過の海は、まだ荒れ狂う波の名残をとどめていた。調査船の甲板に立つ45歳の田中一郎は、目の前に広がる光景に言葉を失っていた。
港へと曳航されてきた第四艦隊の艦艇は満身創痍であった。艦橋が歪み、甲板が波打ち、中には艦首部が切断された艦まであった。至る所に亀裂が走り、まるで巨大な鋼鉄の生き物が傷つき、息絶えたかのようだった。
「田中技師、こちらへ」
海軍将校の声に促され、田中は足元の揺れを必死にこらえながら、損傷した駆逐艦「夕霧」に渡った。
甲板に足を踏み入れた瞬間、田中は凍りついた。艦の中央部が大きくたわみ、至る所で鋼板に隙間ができている。寸分の狂いなく接合されているべき鋼板と鋼板が、まるで紙が破れるように引き裂かれていた。
「これは……」田中は思わず呟いた。
「どうだ、田中技師。民間の知恵も拝借したい」将校が静かに、しかし切実な面持ちで言った。その眼差しには、すでに何かの確信があるようにも見えた。
田中は黙って頷き、さっそく調査に取り掛かった。破断面を細かく観察し、あちこちで計測を行う。頭の中では、可能性のある原因が次々と浮かんでは消えていった。
「溶接部の破断だ……」田中は眉をひそめながら呟いた。「しかし、単純な作業上の溶接不良とは違う。損傷の規模と分布から見て、より根本的な問題がありそうだ」
田中は造船の専門家として慎重に分析を続けた。「割れている。溶接材料が耐えられなかったのかもしれない。そして……」彼は一瞬躊躇したが、続けた。「設計段階での応力計算が不十分だった可能性も否定できないな」
数時間後、田中は調査船内の会議室で、調査結果を発表することになった。部屋には海軍の将校たちが顔を揃え、張り詰めた空気が漂っている。
「報告いたします」田中は声に力を込めて切り出した。「今回の損傷の主な原因は、溶接構造全体の脆弱性にあると考えられます」
部屋中がざわめいたが、技術将校たちは静かに頷いているのが見えた。
「具体的には、三つの要因が作用したと推測されます」田中は慎重に言葉を選んだ。「まず、溶接部での応力集中。次に、溶接材料の特性。そして構造全体の疲労強度不足です」
田中は、それぞれの問題について詳しく説明していった。
「溶接線の形状と配置によって、局所的に応力が集中しやすい箇所があります。破断はそこで発生しています」
「次に、溶接材料の特性です。これは使用した溶接棒が重要です」田中は説明を続けた。
「溶接棒とは、鋼板と鋼板の間に高温で溶かし込む金属の棒のことです。溶接作業で急熱・急冷されることによって、強度的な問題を起こすことがあります」
田中は一呼吸置いて、さらに詳しく説明した。「過酷な環境下では、時間とともに溶接部が脆くなる傾向があります。北洋での荒波と低温が重なり、溶接部が本来の強さを失なったのではないかと考えられます」
「そんなことがあるのか!」将官の一人が、驚いた様子で漏らした。
「はい。極端な場合、溶接部があたかもガラスのように脆くなり、割れることもあります」田中は丁寧に説明した。
「そして……」田中は一瞬言葉を選び、慎重に続けた。「これらの要因が複合的に作用した結果、構造全体の疲労強度が想定を下回っていた可能性があります。設計段階でのより詳細な解析と、北洋の過酷な使用環境に耐えられる溶接棒の開発が必要かもしれません」
この説明により、田中は直接的な批判を避けつつ、設計段階で問題を回避できた可能性と、現状の技術の限界による不可抗力であった可能性を示唆した。室内は重苦しい沈黙に包まれた。
「では、どうすれば良いというのだ」さきの将官がもどかしそうに尋ねた。
その言葉を合図に、将校たちの議論が白熱し始めた。田中は、技術将校たちの表情に微妙な変化を感じ取った。彼らの眼差しには、単なる技術的な問題以上のものが潜んでいるようだった。
「リベット工法に戻るべきではないか」ある将校が主張した。「確かに重量は増えるが、信頼性は証明済みだ」
別の技術将校が反論した。「いや、それでは時代に逆行する。電気溶接には明確な利点がある。軽量化により、艦の速度と航続距離を大幅に向上させられる。さらに、建造期間も短縮できる」
「しかし、今回の事故を見ろ」最初の将校が声を荒げた。「未完成の技術に頼って、艦隊の安全を危険に晒すわけにはいかない」
議論は平行線を辿っていた。田中は黙って聞いていたが、やがて意見を求められた。彼は技術将校たちの真意を察し、慎重に言葉を選んだ。
「両者の言い分はもっともです」田中は口を開いた。「リベット工法は確かに信頼性が高い。鋼板と鋼板の間に重ね合わせ部分を設け、熱した鋼製の釘で接合する。和服の仕立てで布を縫い合わせるようなものです」
田中は一呼吸置いて続けた。「一方、電気溶接は鋼板同士を直接溶かして接合します。軽量化と工期短縮が可能で、艦の性能向上に直結します。しかし、今回の事故が示すように、まだ技術的な課題が残っています」
「では、どうすべきだというのかね」威厳のある将官が尋ねた。
田中は、この瞬間が重要な転換点になると直感した。彼は溶接技術の未来を見据えながら、慎重に答えた。
「私見ですが」田中は静かに、しかし確信を持って言った。「電気溶接の開発を続けつつ、当面は重要な部分にリベット工法を併用する。そして段階的に電気溶接の比率を増やしていくのはどうでしょうか。同時に、溶接技術の改良と、適切な検査方法の確立を急ぐべきだと考えます」
部屋の中が静まり返った。技術将校たちは顔を見合わせ、やがて頷き始めた。田中は、彼らの表情に安堵の色を見た。この提案が、技術的な妥協点であると同時に、彼らの立場も守るものだと理解したのだろう。
「妥当な提案だ」技術将校の長が言った。その声には、わずかながら安堵の色が混じっていた。「田中技師の分析は、我々の調査結果とほぼ一致している。だが、これはあくまで軍の機密事項だ。民間の知見も参考にはするが、最終的な判断と対策は我々が決定する。田中技師、今後も協力を仰ぐことになるだろう。民間としての今後の溶接技術の改良方針を一週間以内に提出してもらいたい」
田中は一瞬たじろいだが、すぐに姿勢を正して答えた。「承知いたしました。早急に改良方針を取りまとめて提出いたします」
その後、将校たちの議論は白熱し、夜遅くまで続いた。その間、田中は幾度となく、自身の立場の難しさを感じた。軍の基本設計を元に民間企業は艦艇の建造を請け負う。民間技術者でありながら、軍の機密に触れる立場。この会議でも、求められない限りは発言は許されない。その狭間で、いかに正しい提言ができるか考えを巡らせていた。
会議が終わり、田中は再び甲板に立った。風に乗って、かすかに金属のきしむ音が聞こえた。それは、まるで巨大な鋼鉄の塊が、さらなる進化を求めて呻いているかのようだった。静寂に包まれた夜の海を見つめながら、彼は自問自答を繰り返した。
「溶接技術は、まだ完成には程遠い。信頼性を高めるには、まだまだ課題が山積みだ。でも、これを克服すれば、きっと造船技術は飛躍的に向上するはずだ」
波間に映る月明かりは、ギザギザに引き裂かれた艦の傷跡を、無情にも浮かび上がらせていた。それは、未完成な技術の現状を象徴しているようでもあった。