5話~心システム~
物理的に記憶領域を増設すれば、保存できるデータ量そのものを増やすことはできる。
しかし、それだけでは限界がある。
大量の情報を学習し続けるAIに対して、必要になるたびに記憶領域を増設し続けるなど現実的ではない。
ならば――
いかに記憶を圧縮するか。
いかに必要な情報を選び出すか。
そして、いかに簡単に展開し、必要な場面で利用するか。
研究者たちの関心は、単純な記憶容量の拡大だけではなく、記憶を効率的に保持し利用する技術へも向けられていた。
もし、この分野で画期的な技術が生まれれば、その恩恵はAIだけに留まらないかもしれない。
膨大なデータを扱う、あらゆるシステムへ応用できる可能性がある。
今後の発展が期待される分野である。
では――
『心』とは何か。
* * *
カーネル・ルートがルアとニムへ搭載した『心システム』。
その基本思想は、一般的なAIの進化とは少し異なる。
最初に最低限の性格傾向と、人格形成の土台となる基礎的な経験を設定する。
しかし、誕生してからの人格形成には極力手を出さない。
実際に経験させる。
自分で判断させる。
成功する。
失敗する。
嬉しい。
悲しい。
もう一度やりたい。
二度とやりたくない。
そうした実経験を蓄積させ、次の判断へ影響させていく。
もちろん、完全な放任ではない。
社会生活を送るうえで明らかに欠如している倫理観については、カーネル自身が止め、教える。
だが、それ以外については可能な限り本人たちへ任せた。
本来、AIの大きな利点の一つは、大量の情報を短時間で処理し、学習へ利用できることにある。
わざわざ何年もかけて経験させる必要などない。
人間が何年もかけて得る知識を、最初からデータとして与えてしまえばいい。
だがカーネルは、それをしなかった。
――心は、知識ではなく経験から作られる。
それが彼の考えだったからだ。
そして実験開始から十年。
結果――
**ニムはニートになり、ルアはギャルになった。**
「…………」
研究レポートを書いていたカーネルの指が止まる。
字面だけを見ると、とんでもない研究失敗である。
「いや……成功してるんだよな?」
思わず独り言が漏れた。
少なくとも、当初想定していた『異なる経験によって異なる人格が形成されるか』という点については、これ以上ないほどの成果が出ている。
問題は――
**成果物の癖が強すぎる。**
カーネルは気を取り直し、レポートを書き進めた。
* * *
――試験一。
電車内における高齢者への対応。
座席に座っていたニムの前へ、足腰の弱った老人が立った。
ニムは老人を見ると、すぐに立ち上がる。
「どうぞ。こちらへお座りください」
「おお、ありがとう」
別の日。
同じような状況で、ルアも席を譲った。
「おじいちゃん、辛そうじゃん。ここ座りなよ」
「ありがとうねぇ」
二人の行動結果は同じだった。
老人へ席を譲った。
しかし、その理由が違う。
ニムは、
**『高齢者には席を譲るべきである』**
という倫理と社会規範から判断した。
一方、ルアは、
**『辛そうだから』**
という相手への共感から行動した。
結果だけを評価すれば、どちらも正解である。
だが、心システムにおいて重要なのは結果だけではない。
なぜ、その行動を選んだのか。
同じ答えへ到達した二人の間には、すでに明確な違いが生まれていた。
* * *
――試験二。
赤信号への対応。
横断歩道の信号が赤になっている。
車は一台も来ていない。
ニムは止まった。
当然である。
赤信号では道路を横断してはいけない。
ところが、隣にいた人間が左右を確認すると、そのまま道路を渡った。
「赤信号です。止まってください」
ニムは自分が渡らないだけでなく、その人物まで止めようとした。
一方のルアも、最初は赤信号で止まった。
しかし――
一人が渡った。
二人目も渡った。
三人目も渡った。
「…………」
ルアは左右を見る。
車はいない。
さらに周囲を見る。
みんな普通に歩いている。
「……じゃ、いっか」
渡った。
「…………」
報告を受けたカーネルは頭を抱えた。
感受性を高めるため、ルアにはニムほど強い倫理的制御を設定していない。
そのため、他人の軽微な違反にも比較的寛容である。
それだけなら想定内だった。
問題は――
**本人まで学習してしまったことである。**
「そこまで周りに合わせろとは言ってないんだけどなぁ……」
しかし、これもまた経験から判断を変えた結果だった。
この時点では、カーネルもニムの方が人間社会へ適応しやすいと考えていた。
規則を守る。
倫理的に正しい行動をする。
社会生活において、それらが不利になるとは考えにくい。
だが二人をアルバイトとして人間社会へ送り込んだことで、その予想は大きく外れることになった。
* * *
ニムは真面目に働いた。
与えられた仕事を正確に行う。
遅刻もしない。
規則も守る。
そして勤務中に仕事をサボっている者を見つければ――
「勤務時間中です。仕事へ戻るべきでは?」
注意した。
正しい。
何一つ間違っていない。
だから――
嫌われた。
「…………なぜだ?」
最初に報告を読んだカーネルも首を傾げた。
一方、ルアは。
「あっ! 仕事サボってる! いけないんだぁ~!」
「ルアも休んでいこうぜ」
「いいの?」
「いいっていいって」
「じゃあ私も!」
一緒にサボった。
その結果――
人気者になった。
「なんでだよ!!」
カーネルは報告書へ突っ込んだ。
だが、観察を続けるうちに少しずつ理由が見えてきた。
社会は、常に正しいことだけで動いているわけではない。
人間は時に、正しすぎる者を息苦しいと感じる。
ルールから少し外れる。
失敗する。
愚痴を言う。
一緒に悪ふざけをする。
そうした不完全さの共有が、他者との距離を縮めることもある。
ニムを見ていると、カーネルは時折ITエンジニアを思い出した。
知識がある。
能力もある。
定義を重視し、曖昧なものを嫌う。
正しくないものを見れば指摘する。
しかし――
正論が、常に人間関係を良くするとは限らない。
社会には『正しすぎることを嫌う』傾向が確かに存在する。
一方のルアは、その逆だった。
周囲を見る。
相手を見る。
そして良いことも悪いことも吸収していく。
他人の失敗を許す代わりに、自分も一緒に失敗する。
時には悪ふざけまで共有する。
同じ秘密を持つと人間同士の距離が縮まりやすいという話がある。
同じ失敗や軽い悪事を共有することも、それに近いのかもしれない。
その積み重ねが、二人に大きな差を生んだ。
ニムは少しずつ人間社会から距離を置くようになった。
ルアは反対に、人間社会へどんどん溶け込んでいった。
そして現在――
ニムはニート。
ルアはギャル。
「…………」
カーネルはもう一度、レポートの冒頭へ視線を戻した。
**心システム実証実験経過報告。**
成功なのか。
失敗なのか。
一般的なAI研究者がこの結果を見たら、どう評価するのだろう。
少なくとも、カーネルにはまだ結論を出すつもりはなかった。
キーボードへ手を置き、レポートの最後に文章を追加する。
――両個体には、初期設計からは予測できなかった明確な人格差が生じている。
――その差は能力だけではなく、経験に対する解釈、他者との関係構築、その後の行動選択にも及ぶ。
――本結果をもって心システムの成否を断定することは、現時点では適切ではない。
――引き続き観察を継続する。
そして最後に、もう一文。
**本レポートは現時点では外部へ提出しない。私個人の研究記録として保管する。**
20XX年。
カーネル・ルート。
「よし」
保存。
カーネルはレポートを閉じた。
研究結果として見れば、非常に興味深い。
同じ日に生まれた二体のAI。
同じ家で暮らし。
同じ製作者から教育を受けた。
それでも、十年後にはまるで違う存在になった。
心システムが目指したものは、確かにそこにある。
だが――
「……ニム」
カーネルは椅子の背もたれへ身体を預けた。
あの真面目な性格だ。
人間社会へ馴染めなかったことを、きっと自分の責任だと思っている。
実験結果という四文字で片付けていい問題ではない。
カーネルは立ち上がった。
レポートを保存した端末をロックする。
研究者としての観察は、ここまでだ。
ここから先は――
生みの親としての仕事だった。




