第3話:侵食する夜
鬼塚課長が死んでも、会社の異常な空気は何一つ変わらなかった。
「課長が死んだからってノルマが免除されると思うなよ! 佐藤、今日の飛び込み訪問目標は150件だ!」
代わりに現場を取り仕切ることになった主任の木村が、鬼塚以上の怒声を張り上げる。
木村は影一のノルマ未達成を理由に、クライアントである理不尽な取引先――「大河原建設」の横暴な社長への謝罪回りを全て押し付けてきた。
大河原社長から灰皿の吸い殻を投げつけられ、靴を舐めるような頭の下げ方を強制された影一は、フラフラになりながら夜の街を彷徨った。
(眠っちゃダメだ……眠ったら、また誰かを殺してしまう……)
眠ることへの恐怖から、影一は大量のエナジードリンクとカフェイン錠剤を流し込み、目を開け続けた。
しかし、連続徹夜と過労でボロボロになった脳は、影一の意思に反して「落ちる」瞬間を作り出す。
立っている最中や、信号待ちのわずか数秒間――意識が途切れる「微小睡眠」だ。
――闇の中。
影一の目の前に、大河原社長の歪んだ顔があった。
「なんだその目は! 新卒の出来損ないが!」
影一の手には、訪問先のオフィスにあった重厚な金属製のペーパーナイフが握られていた。
衝動のままに、影一は大河原の喉元へ刃を突き立てた。ドクドクと溢れ出す温かい血。
大河原が泡を吹いて倒れ込むのを、冷ややかな目で見下ろす。
「ハッ……!」
歩道橋の途中でガクンと膝が折れ、影一は現実へと引き戻された。
ハァハァと荒い息を吐きながら全身を調べる。
自分は街の中にいる。服に血はついていない。
時計を見ると、ほんの1分ほど意識を失っていただけだった。
(夢だ……ただの白昼夢だ。耐えろ、寝るな……!)
必死で自分を騙しながらアパートに辿り着き、倒れ込むように玄関の床に崩れ落ちた。
そのまま意識を失うように眠りに落ちた影一が目を覚ましたのは、翌朝の携帯のアラーム音だった。
(良かった……昨夜は誰も殺さずに済んだ……)
安堵しながら起き上がろうとした影一は、玄関で固まった。
履いて帰ってきたはずの革靴の底に、見覚えのない生々しい湿った赤土と泥がべっとりとついていたのだ。
さらに、スーツのポケットを探ると、一枚のレシートが出てきた。
【コンビニ 大河原建設前店 深夜2時14分】
自分の部屋から電車で30分以上かかる、大河原建設のすぐ近くにあるコンビニのレシートだった。
「……なんで……?」
影一の頭の中が真っ白になる。
昨夜、自分は部屋に帰り、そのまま寝たはずだ。なぜ深夜2時に取引先の前にいた?
そのとき、テレビのニュースがけたたましい音で速報を告げた。
『本日未明、市内の「大河原建設」社長室にて、社長の大河原氏が喉を鋭利な刃物で突かれ死んでいるのが発見されました。現場からは――』
影一の全身から血の気が引いていく。
手にしていたコンビニのレシートが、ひらひらと床へ落ちた。




