夢:合流
いつもの森。
木々の隙間から、月明かりが静かに差し込んでいる。
また、この森か。
意識がゆっくりと沈んでいく。
木の葉を踏む音。
木の枝を踏みしめる乾いた音だけが、静かな森に響いていた。
⸻
ひろはゆっくりと目を開く。
真っ先に首元へ手を伸ばす。
指先に触れたストラップの感触。
胸元には、見慣れたスマホが下がっていた。
「……よかった。」
思わず安堵の息が漏れる。
隣を見ると、ダイちゃんもまったく同じように首元へ手を伸ばし、スマホを確認していた。
目が合う。
二人は同時に吹き出す。
「考えること、一緒かよ。」
「そっちこそ。」
小さく笑い合う。
ひろは辺りを見回した。
「あれ。」
「鈴木さんがいない。」
教室を見渡しても、その姿はない。
ダイちゃんは腕を組み、少し考える。
「多分、習い事だろ。」
「放課後は、よく先に帰ってた。」
ひろもすぐにうなずく。
「……ってことは。」
「今は放課後だね。」
二人は教室の窓から外を見る。
夕日に染まり始めた校庭。
部活動へ向かう子どもたち。
そして、静かになり始めた校舎。
二人は無言で顔を見合わせた。
夢はまた、新しい記憶から始まろうとしていた。
教室を見回す。
黒板は、すでに日直によってきれいに消されていた。
日付も。
曜日も。
何一つ残っていない。
教室には、二人以外誰もいなかった。
ひろは小さくため息をつく。
「いつの放課後だ……。」
ダイちゃんも窓の外を眺めながら首をかしげる。
「職員室に行けば、カレンダーくらいありそうだけど。」
ひろはすぐに首を横へ振った。
「いや。」
「危ない。」
「問題は、あるかどうかじゃない。」
「僕たちが、この日に職員室へ入った記憶があるかどうかだ。」
ダイちゃんもすぐに表情を引き締める。
「……なるほど。」
「記憶がない場所に踏み込むのは危険か。」
ひろは教室の扉へ視線を向ける。
「行けるかもしれない。」
「でも、その瞬間に夢がどう反応するか分からない。」
「今は、確実に覚えている場所だけを辿ろう。」
二人は静かにうなずいた。
夢の中では、行ける場所ではなく、思い出せる場所だけが安全だった。
ひろはしばらく考えたあと、小さく口を開いた。
「鈴木さんと合流できれば。」
「最低限、曜日は分かるよ。」
ダイちゃんは一瞬きょとんとしたあと、ぽんと手を打った。
「そうか!」
「習い事!」
ひろはうなずく。
「習い事の曜日は決まってる。」
「鈴木さんなら、自分がどの習い事へ向かう日なのか分かるはずだ。」
「それだけで曜日を特定できる。」
「なるほどな。」
ダイちゃんは感心したように笑う。
だが、その笑みはすぐに曇る。
「……でもさ。」
「どうやって合流するんだ?」
ひろは口元を緩めた。
珍しく、自信ありげな笑みだった。
「中央公園だよ。」
「え?」
「学校から習い事へ行く時。」
「鈴木さん、いつも中央公園を通ってた。」
ダイちゃんは目を丸くする。
「お前……。」
「そんなことまで覚えてんのか。」
ひろは肩をすくめた。
「覚えてるんじゃない。」
「毎日、見てたからね。」
二人は顔を見合わせる。
行き先は決まった。
中央公園。
そこへ行けば、鈴木さんと合流できる可能性が高い。
二人は中央公園へとやって来た。
ブランコ。
滑り台。
砂場。
あの頃と何一つ変わらない景色が広がっている。
ひろは首から下げたスマホをぎゅっと握りしめた。
「ダイちゃん。」
「懐かしがるなよ。」
「スマホ、ちゃんと握っときな。」
ダイちゃんは呆れたようにひろを見た。
「お前さ。」
「自分の顔、鏡で見てから言えよ。」
「え?」
ひろはきょとんとする。
ダイちゃんは吹き出した。
「顔、引きつってるぞ。」
「必死すぎ。」
ひろはそこで初めて、自分の手が震えていることに気付いた。
スマホを握る手には力が入りすぎ、指先が白くなっている。
胸の奥から込み上げる懐かしさ。
ここで遊んだ記憶。
笑い声。
夕暮れ。
そのすべてが夢へ引きずり込もうとしてくる。
(だめだ。)
(飲まれるな。)
ひろはスマホをさらに強く握りしめた。
画面に映る黒いガラス。
それだけが、自分が二十五歳であることを繋ぎ止めてくれていた。
「……あそこ。」
ダイちゃんが小さく声を上げた。
公園のベンチを指差す。
夕日に照らされたベンチに、一人の少年が座っていた。
俯き、じっと地面を見つめている。
ひろとダイちゃんは顔を見合わせる。
言葉はいらなかった。
二人は同時に駆け出す。
足音に気付いた少年が、ゆっくりと顔を上げた。
「あ……。」
少し考えるように二人を見つめる。
「確か。」
「隣のクラスの……ダイちゃん?」
ダイちゃんは軽く手を挙げた。
「おう。」
少年は今度はひろを見る。
首を傾げ、困ったように笑う。
「あと。」
「いつも一緒にいる……。」
「……ごめん。」
「分かんないや。」
その顔を見て、ひろは確信した。
ケースケだ。
二人は自然に目を合わせる。
そして、小さくうなずいた。
(この日。)
(僕たちはケースケと会っている。)
それだけは間違いなかった。
夢はまた一つ、失われた記憶へと繋がっていた。
「何してんだ?」
ダイちゃんがベンチの前で足を止めた。
「こんなところで。」
ケースケは少し驚いたように顔を上げる。
それから、少し寂しそうに笑った。
「この時間は、家に誰もいないから。」
「お父さんもお母さんも仕事なんだ。」
「でも。」
「まだ友達がいないし。」
ケースケは公園を見回した。
「こうして座って、親が帰ってくるのを待ってる。」
ダイちゃんは少しだけ黙る。
そして、何かを決めたように笑った。
「じゃあ。」
「俺が友達になってやる!」
そう言って、ケースケへ向かって手を差し出した。
ケースケは目を丸くする。
やがて、その表情がゆっくりとほころんだ。
「……うん。」
小さくうなずき、その手を握る。
その光景を見つめながら、ひろの胸の奥で何かがほどけた。
(そうか。)
(こうやって。)
(たまに遊ぶようになったんだ。)
ケースケに友達ができるまで。
ダイちゃんは何度も、この公園へ来ていた。
失っていた記憶が、少しずつ繋がっていく。
そして、もう一つ。
忘れていた自分の気持ちも思い出した。
(あの頃の僕は。)
(ケースケと仲良くしなかった。)
ダイちゃんを取られてしまう気がしたから。
そんな子どもじみた嫉妬を、ずっと胸の奥に抱えていたのだった。
ダイちゃんとケースケが楽しそうに遊ぶ姿を、ひろは少し離れた場所から見つめていた。
頭の中で、ゆっくりと情報を整理する。
ケースケは、転校してきてすぐに人気者になった。
ということは。
これは、それまでのほんの数日間の記憶だ。
球技大会は五月の初め。
なら、この日は――
「四月上旬あたりか……。」
ひろが小さく呟いた、その時だった。
「四月十四日よ。」
聞き慣れた声が背後から聞こえる。
ひろは驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、鈴木さん。
淡い色の着物姿だった。
首からは、しっかりとスマホが下がっている。
「ああ。」
ひろは思わず笑みを浮かべる。
「茶道の日か。」
鈴木さんはうなずいた。
「毎月十四日は、お茶のお稽古だったの。」
「だから、間違いない。」
ひろは感心したように息を吐く。
「曜日だけじゃなくて、日付まで特定できた。」
「大きな収穫だね。」
鈴木さんは少し得意げに微笑んだ。
「私にも、役に立てることがあるでしょ?」
その笑顔を見て、ひろも自然と笑みを返した。




