第7話 腹黒公爵の登場と、溶ける椅子
コヴァーチ家の屋敷は、もはやかつての静謐な名門貴族の館ではなくなっていた。
浴室では、熱湯と氷水の二択だった欠陥シャワーが極上の適温を安定供給し、厨房では魔法のフライパンが連日食材の尊厳を守っている。廊下では全自動お掃除魔道具『ポルカ』が健気に埃を吸い込み、裏庭では王宮騎士団長が完璧な規格で薪を量産。そして作業部屋では、王宮筆頭魔術師が床に這いつくばってポルカ二号機の魔法陣を覗き込んでいる。
「違うわ、ゾルターン様。そこを複雑にしすぎると、使用人がメンテナンスできなくなります。美しさより保守性です」
「保守性……いい言葉だ。実に現実的で、実に容赦がない。魔術塔の連中に聞かせたら泡を吹くぞ」
「では、ぜひ盛大に泡を吹かせてください」
私が試作品の回路を調整していると、部屋の隅で壁に背を預けていたファルカシュが、これ見よがしに三種類に分類された薪の束を足元に置いた。
「ファルカシュ卿、素晴らしい薪ね。火力の安定に直結するわ」
「任務上、食材を最良の状態で毒見する必要があるからな」
毒見のために薪割りのスキルを極めようとする騎士団長をスルーしようとした、その時だった。
「お嬢様……! お、お客様でございます!」
普段は冷静なエルジェが、顔面を蒼白にして作業部屋に飛び込んできた。
「王宮から? 魔術塔? それとも実家?」
「イシュトヴァーン・バラージュ公爵閣下でございます! この国で最も敵に回してはいけない貴族のお一人にして、あらゆる商いを束ねる大商会主様が……!」
その名を聞いて、ゾルターンが面白そうに顔を上げ、ファルカシュの目が剣呑に細められた。
「あの公爵は剣を持たないが、言葉と契約書で人を斬る男だ。油断するな」
ファルカシュの警告にエルジェが激しく頷くが、私の思考回路は別の部分に激しく反応していた。
大商会。流通。鉱山。魔石取引。
つまり、圧倒的な資金力と『素材の供給源』である。
「会うわ」
「そ、即決でございますか!? しかもその作業着のお姿で!?」
「素材を持っている人間とは、一度話しておく価値があるもの。手だけ洗っていくわ」
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応接室のソファに腰を下ろしていたのは、深い黒髪と端正な顔立ちを持つ二十代半ばの青年だった。
優雅な微笑みを浮かべているが、その双眸は人を値踏みする商人のそれだ。相手の足元にどこまで値段がつけられるか、盤面を支配しようとする圧倒的な隙のなさが全身から立ち上っている。
「お初にお目にかかる。イシュトヴァーン・バラージュ公爵だ」
「ハイナです。今はコヴァーチという家名はあまり使いたくありませんので」
「なるほど。私も実のない肩書きより、実のある人物名の方が好みだ。中身の伴わない肩書きなど、実態もなく過去の信用だけで動いている古い商会のようなものだからね」
「ああ、ゾンビ企業ですわね」
私が即答すると、イシュトヴァーンの微笑みがぴたりと凍りついた。
「……ぞんび?」
「実態は死んでいるのに、古い看板と慣習だけで動き続けている組織のことです。家名と格式にしがみついて実務を見ず、生活も改善しない。私の実家も含めてですわ」
数秒の沈黙の後、彼は腹の底から愉快そうに声を上げて笑った。
「ははっ! これはいい! ぞんび?企業! まさにその通りだ! 君は王子との婚約という最高の看板すら捨てたというのか?」
「未練は昨日分解した欠陥シャワーバルブ以下です。生活に関わりますから」
背後に控えていたファルカシュとゾルターンが深く頷くのを見て、イシュトヴァーンは面白そうに目を細めた。
「噂以上だ。君の屋敷で奇妙な発明が相次いでいると聞いたが……金の匂いがする。莫大な金だ。私と組まないか? 君の発明を私の商会で製品化し、流通させる。王家や実家が横取りできないよう、特許と法的防壁も完璧に用意しよう」
提案は悪くなかった。いや、むしろ私のDIYライフの強力な後ろ盾になる。だが、主導権を握らせるわけにはいかない。
「優先交渉権はお渡ししますが、独占は却下です。競争がなくなると品質改善が止まりますから。利益配分は発明者四割、製造四割、流通二割。品質基準は私が定めます」
「徹底しているな。聖人ぶらないところが実にいい。条件を飲もう」
「では、契約の前に私のテストに合格していただきます。至急、『最高級スライム素材』を用意してください」
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「……スライム素材で、何を?」
「椅子です。正確には、『人をダメにする椅子』です」
私の言葉に、応接室に奇妙な沈黙が落ちた。ファルカシュが「精神攻撃の兵器か」と真顔で警戒し、ゾルターンが「スライムの流動性を利用するのか!」と身を乗り出す。
イシュトヴァーンの動きは早かった。即座に従者を走らせ、高級寝具用のスライムゲルと加工職人、伸縮性のある南方織物をかき集めさせた。
客間は瞬く間に臨時の工房へと変貌した。
「スライムを乾燥処理して、内部の弾性を残した極小の粒状に加工して! 大きさは三種類をブレンド。中袋には沈み込むための『余白』を残し、外袋は肌触り重視で洗える構造に!」
職人たちを指揮し、数時間の怒涛の開発の末に完成したのは、大きな丸みを帯びたしっとりとした手触りのクッション。
前世の英知、究極のビーズクッションである。
「出資者である公爵閣下に、最初の体験権を差し上げますわ」
「光栄だ。これがどれほどのものか、確かめさせてもらおう」
イシュトヴァーンは完璧な貴族の所作で優雅に歩み寄り、クッションへ腰を下ろした。
その瞬間。
ふわり。ぐにゃり。とぷん。
硬い椅子にはない、体を完全に包み込む圧倒的な流動性。体の凹凸に合わせて極小のスライム粒が静かに流れ、圧力を完全に分散させていく。
「……」
イシュトヴァーンの背筋から、全ての力が抜け落ちた。
盤面を支配する冷徹な商人の笑みが崩れ、鋭い瞳がとろりと溶ける。優雅な姿勢はずるずると沈み込み、公爵としての威厳そのものが、スライム粒の海へと完全に液状化して吸い込まれていった。
「……危険だ」
クッションに埋もれて天井を見上げたまま、彼は蕩けた声で呟いた。
「立ち上がる気力が……完全に消える。これは市場を取れる。だが、危険すぎる。国家生産性が落ちるかもしれない……」
「休息の質が上がれば、労働効率も上がりますわ」
「……なるほど、商業的にも道徳的にも売りやすい。素晴らしい」
ファルカシュが「見事な無力化だ」と戦慄し、ゾルターンが「威厳が液状化した!」と歓喜する中、イシュトヴァーンはクッションに沈んだまま親指だけを立てた。
「商品化する」
「威厳のない契約成立ですわね」
「今、私の威厳は全てこの『夢見のクッション』に吸い取られている。立てない。だから少し待ってくれ……」
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夕方。法的保護と利益分配、品質管理を徹底した完璧な契約が結ばれた。
イシュトヴァーンはクッションから這い出すのに相当な時間を要したが、その目は商人としての確かな熱を帯びていた。
「君は面白い。家名より実用、体面より快適さ。君がどこまでこの国の常識を壊すのか、見てみたくなったよ」
「革命家ではありません。ただの快適生活追求者です」
帰りがけ、イシュトヴァーンは名残惜しそうに試作品のクッションを馬車に積み込ませた。
「次に必要な素材があれば、遠慮なく言いたまえ」
「では、耐熱性と保温性の高い魔石の資料を。足を伸ばせる大きなお風呂、究極のスパリゾート設備を作りたいので」
私の要求に、イシュトヴァーンは心底愉快そうに笑って去っていった。
強力な素材供給先、魔術の解析者(変人)、火力の安定装置(最強の騎士)。
私が一人で静かにスローライフを送るはずだった屋敷は、各界の頂点に立つハイスペック男子たちが集う、とんでもなく騒がしい工房と化していた。
だが、悪くない。
「さて、夕食の準備をしましょうか」
「手伝う」
「私は味見を」
「毒見は私の任務だ斬るぞ」
「「「独占反対!」」」
騒々しい背後音を聞きながら、私は腕をまくった。
私の究極の快適(QOL)ライフは、まだまだこれからだ。
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