第8話 究極のコンソメスープと、背景のゴミ
イシュトヴァーン公爵との契約が成立して以来、我が家のQOL(生活の質)は爆上がりしていた。
改良版の温度調節バルブが屋敷中に設置され、ポルカの量産機がせっせと埃を吸い込む。
エルジェの報告によれば、イシュトヴァーンが商会に持ち帰った『夢見のクッション』は貴族や商人から予約が殺到しているらしい。
「公爵閣下ご本人が、試作品の検証中に二度ほど商談をすっぽかしかけたとのことです。『危険なほど売れる』と」
「人をダメにしているわね。設計通りだわ」
量産化の第一段階が無事に進んでいることを祝し、私は現場の士気を上げるための料理を作ることにした。
「今日の祝いの料理は、鶏肉のハーブフライドチキン(二度揚げ)よ」
「毒見が必要だな」
壁際で薪割りを終えてスタンバイしていたファルカシュが、即座に反応した。
「油温の段階的制御と外殻形成の分離か。研究のために解析するぞ」
いつの間にか机の下から這い出てきたゾルターンも身を乗り出す。
「喧嘩するなら食事抜きよ」
私の最強の一言で、二人のハイスペック男子は大人しく口をつぐんだ。
▲▽▲▽▲▽▲▽
厨房へ移動し、料理長ベルナートと共に調理を開始する。
鶏肉に香草、香辛料、塩、果実汁、少量の乳を揉み込んで下味をつける。
「ファルカシュ卿、火の管理をお願い。油の温度を一定に保つために中割りと細割りの薪で微調整して」
「任せろ」
「ゾルターン様は油温の魔力波形を観測。ベルナートは肉の準備を」
完璧な布陣で深鍋に油を熱し、特製の衣をまとわせた鶏肉を投入する。
じゅわああああああっ。
圧倒的な音と共に、香草とスパイスの暴力的な香りが厨房を支配した。
「……これは、戦場の勝利より美しいかもしれん」
「香りが暴力的だ……!」
鍋を凝視する男たちの理性が削られていくが、私は冷静だ。
一度揚げで中まで火を通し、余熱で休ませた後、油温を上げて二度揚げを一気に行う。
じゅわっ!
黄金色から琥珀色へ。表面が一気にざくざくと硬くなっていく。
「完成よ。熱いから順番に食べて」
「毒見だ!」「解析だ!」「料理長の責務ですぞ!」
三人の男たちが我先にとフライドチキンに食らいつく。
ざくっ。じゅわぁぁっ。
厨房に幸福な音が響き渡った。
「美味い……外が砕け、肉汁が逃げていない。兵が泣くぞ」
「衣という結界の多層化だ! 内部の旨味を完全に封じ込めている!」
「お嬢様ぁぁぁ! 鶏が最高位へ昇天いたしましたぁぁ!」
その後は「これは毒見が必要な大きい部位だ」「解析に向いている」と、見苦しい大争奪戦が繰り広げられた。
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フライドチキンが跡形もなく消滅した後、私は深鍋の前に立っていた。
残った鶏の骨と香味野菜を弱い火で静かに煮込み、アクと脂を丁寧にすくっていく。
澄んだ黄金色、究極のコンソメスープの土台作りだ。
時間をかけ、火と対話し、素材の旨味を限界まで引き出す。この地味だが繊細な作業が私は好きだ。
「黄金色のスープまで、あと少しね」
私がレードルを握り直した、その時だった。
「通せ! 私を誰だと思っている!」
厨房の扉が乱暴に開き、信じられないほど不快な声が響いた。
マーチャーシュ王子だった。私に婚約破棄を突きつけた、あの傲慢な元婚約者だ。
彼の手にはポルカがぶつかったらしく、靴にはうっすらと埃がついている。
「ハイナ! ここにいたか! いつまで私を待たせるつもりだ!」
厨房の空気が一瞬で凍りついた。
だが、私は振り向かなかった。今はアク取りの最中だ。
「エルジェ、雑音が入ったわ。空気が乱れるから扉を閉めて」
「承知いたしました」
「雑音だと!? この私に向かって!」
顔を真っ赤にして怒鳴る王子を完全スルーし、私は鍋の表面に集中した。
「ベルナート、今のノイズで手元が少し狂ったわ」
「申し訳ございません、お嬢様!」
「いいのよ。背景のゴミがうるさいだけだから」
「背景の……ゴミ?」
王子が絶句する。エルジェが「ゴミにも使い道はありますので、ただのノイズですね」と容赦なく追撃した。
「ハイナぁぁぁ! 私だ! 王子であるマーチャーシュだぞ!」
「今、名乗られるとスープが濁る原因になりそうな方ですわね」
「貴様……! 私は寛大だ。お前が反省し、リラに謝罪し、再び私たちの世話をするなら、戻ってきてやってもいいと言っているのだ!」
私はようやく手を止め、心底迷惑そうな顔で振り返った。
「殿下。今、私は究極のコンソメスープを取っています。火加減とアク取りに全集中が必要です。あなたの茶番に付き合う時間はありません」
「茶番だと!? 私に選ばれることは名誉だろう!」
「私はもう選ばれたくありません。それに……あなた、私が思っていた以上にポンコツですわね」
「ぽん、こつ……?」
「自分の生活も整えられず、捨てた相手が便利だと分かった途端に『戻ってきてリラの世話をしろ』と上から目線。機能不全にもほどがあります」
私の容赦ない構造解析に、ファルカシュとゾルターンが深く頷く。
「ファルカシュ! ゾルターン! なぜこの女の味方をする! 私の命令でハイナを黙らせろ!」
「私は監視任務中だ。王国の安全保障に関係ない私兵の扱いはできん」
「ハイナ嬢の術式の方が面白いし、何より料理が美味い。君の機嫌より温度調節バルブの方が人類に貢献しているよ」
周囲の誰一人として自分に従わない現実に、王子は顔を歪めた。
「ふざけるな! 私との話より、そのくだらない鍋の中身が大事だと言うのか!」
「はい!何度でも申し上げます。殿下より、このコンソメスープの方が大事です」
「なっ……」
「このスープは手をかければ人を温め、明日の活力になります。一方、殿下は何をしてくださいますの?」
「わ、私は王家の血を引く王子だ!」
「それは血統と役職です。成果や機能ではありません」
私は再び鍋に視線を戻し、浮き上がった小さなアクを丁寧にすくい取った。
完全に『無価値な背景』として扱われた屈辱に、マーチャーシュの中で何かが完全に切れた。
「無視するなァァァ!!」
狂乱した王子が、私に向かって手を伸ばそうと踏み込んだ。
その瞬間。
ファルカシュの剣圧。ゾルターンの魔力圧。ベルナートの怒気。エルジェの冷酷な視線。
厨房にいる全ての『私のインフラ設備たち』の重圧が、一斉に王子をロックオンした。
だが私は振り返らず、黄金色のスープをレードルですくいながら、静かに呟いた。
「……仕上げ前に、騒がないでほしいわ」
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