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第4話 孤高の騎士、胃袋を掴まれる

 王宮騎士団長ファルカシュ。

 長身に鋼のような体躯、獣を思わせる鋭い金の瞳を持つ彼は、社交界で「孤高の狼」と恐れられる国で最も堅物な男だ。甘い言葉や無駄な装飾を嫌い、規律を乱す者には容赦しない。

 そしてエルジェ曰く、部下たちからはもっと切実な意味を込めて「空腹時に近づいてはいけない上司」と呼ばれているらしい。


 そんな恐ろしい噂の男が今、なぜか我が家の厨房の入り口に突っ立って、完全に固まっていた。


「……何だ、この匂いは」

 彼から漏れた低い呟きは、まるで獲物を前にした獣のようだった。

 無理もない。今の厨房は、私が試行錯誤の末に生み出した「魔法のフライパン」で焼かれる、暴力的なまでの美味の香りに完全に支配されているのだから。温められたバターの甘く濃厚な香りに、香草の爽やかさが追いかけ、こんがりと色づく薄衣と白身魚の旨味が嗅覚を容赦なく殴りつけている。


『ぐぅぅぅぅぅぅ……っ』


 静かな廊下に、国境警備の角笛のような轟音が響き渡った。

 案内してきた門番が顔面蒼白で直立不動になっているが、音の発生源は間違いなく騎士団長閣下の腹部である。


「ベルナート、火が強いわ! バターが焦げる前に落として!」

 私は入り口の珍客を一旦無視し、指示を飛ばしながら二枚目のムニエルに木べらを差し込んだ。

 するり。フライパンの魔法膜のおかげで、全く張り付くことなく魚が持ち上がり、華麗に裏返る。

 完璧な黄金色の焼き面が姿を現した瞬間、入り口から「……っ」と重厚な喉を鳴らす音が聞こえた。


 振り返ると、騎士団長が目を血走らせて私の手元のフライパンを凝視している。

「どなた?」

「王宮騎士団長、ファルカシュだ。マーチャーシュ殿下の命により、コヴァーチ・ハイナ嬢の監視に来た」

 威厳たっぷりに低く名乗るが、その鋭い金の瞳は私ではなく完全に魚にロックオンされている。


「そう。ご苦労様。でも今は話しかけないで。火入れの最終段階なの。魚が死ぬわ」

「魚はすでに死んでいるのではないか」

「二度殺すなという意味よ」

 私がピシャリと跳ね除けると、百戦錬磨の騎士団長はなぜか大人しく口をつぐんだ。


 仕上げの果実汁を加えると、じゅわっと音がして酸味を含んだ爽やかな香りが爆発する。

 白い皿に盛り付けられた、外はカリッと、中はふっくらとした完璧なムニエル。

 ファルカシュは無言だったが、その眼光はもはや限界に達していた。


「……ファルカシュ卿、ものすごく見ていますわね」

「監視任務中だ」

「視線は完全に魚に突き刺さっていますけれど」

「魚を通して、お前を監視している」

「無理がありますわ」

 横でエルジェが吹き出すのを鋭く睨みつけるファルカシュ。

 私はクスクス笑いながら、ナイフでムニエルを一口分に切り分け、小皿に乗せた。


「食べます?」

「私は任務中だ。令嬢から食事を振る舞われるわけにはいかない」

「そうですか」

 私があっさり引き下がり、その一口を自分の口へ運ぼうとした瞬間。


「待て。……毒見だ」

 思った以上に切実な声が飛んできた。

「つまり、食べたいのですね」

「毒見だ」

「はいはい、王家の安全のための勇敢なる毒見ですね」


 私は小皿を差し出した。

 ファルカシュは一瞬ためらった後、覚悟を決めたように魚を口に放り込む。

 その瞬間。彼の時間が、完全に止まった。

 瞳孔がわずかに開き、鋼のような巨体が硬直する。ほろりと崩れる香ばしい薄衣、絶妙な火加減で閉じ込められた瑞々しい身の旨味、重すぎないバターと果実汁の完璧な調和が、彼の味覚を物理的な剣圧以上の威力で蹂躙したのだ。


「……美味い」

 限界まで絞り出されたような、色気すら感じる吐息が漏れた。

 私はドヤ顔で頷いた。「でしょう?」


「……もう一口」

「毒見は一口で十分では?」

「一口では毒の有無を判断できん。遅効性の可能性がある」

「三口目は?」

「念のためだ」

「四口目以降は、騎士の責務ですね」

「……そうだ」


 ファルカシュは恐ろしい速度で小皿の魚を平らげ、最後はソースの最後の一滴までパンで綺麗に拭い取って飲み込んだ。

 食後、彼は空になった皿を見つめながら、真剣な顔で葛藤していた。


「コヴァーチ・ハイナ。お前は、王子殿下への未練が本当にないのだな」

「即答でありませんわ。殿下より、今はこのフライパンの膜厚や、厨房の火力調整の方がよほど重要ですもの」

「……大した女だ」


 ファルカシュは小さく口元を緩めた。

「だが、ただで食べるわけにはいかない。騎士として対価を払う。任務が継続する限り監視が必要だが……力仕事でも何でも言え」

 その言葉に、私のDIY職人としての血が激しく騒いだ。


「力仕事。薪割りはできますか?」

 私は厨房の裏口を指差した。そこには太さが不揃いで乾燥状態もまちまちな、非効率極まりない薪の山がある。

「料理の火力を安定させるためには、薪の太さを均一に揃えたいの。できます?」

「容易い」


 ファルカシュは外套を脱ぎ捨て、腰の剣を預け、腕まくりをして斧を握った。

 鍛え上げられた筋肉が躍動し、無駄のない完璧な軌道で斧が振り下ろされる。

 一振り、二振り。乾いた音と共に、寸分違わぬ太さの美しい薪が次々と量産されていく。


「素晴らしいわ……!」

 私は目を輝かせた。

「圧倒的な再現性! 毎回同じ角度、同じ力加減。まるで最高級の人力薪割り機ね!」

「褒めているのか?」

「大絶賛よ! 最高の設備だわ!」

「人間を設備扱いしないでくださいませ」とエルジェが的確なツッコミを入れる。


 だがファルカシュは満更でもなさそうに、昼食の『毒見』への期待を胸に秘めながら、黙々と薪を割り続けている。

 こうして、王都で最も恐れられるハイスペックな騎士団長は、私の快適ライフを支える「優秀なインフラ設備」として見事に組み込まれた。


 監視だ、毒見だと言い張っているが、厨房の誰もが知っている。

 孤高の狼は、私の魔法のフライパンと絶品ムニエルに、完全かつ圧倒的に餌付けされたのだと。

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