第3話 魔法のフライパンと、完璧な魚のムニエル
翌朝。
私は動きやすい作業着姿に工具箱を提げて、コヴァーチ家の厨房へ乗り込んだ。
「おはよう、ベルナート」
「お嬢様!? なぜそのようなお姿で厨房に!?」
巨漢の料理長ベルナートが野太い悲鳴を上げる。
無理もない。名門貴族の令嬢が来る場所ではないからだ。
後ろからついてきた侍女のエルジェが、絶望顔で額を押さえた。
「料理長、諦めてくださいませ。昨日は浴室、本日は厨房が戦場です」
私は昨晩の夕食、あの黒焦げでパサパサだった魚への怒りを胸に、厨房の調理器具を検分した。
「……なるほど。犯人はこいつね」
分厚く表面が荒い焼き網に、傷だらけで焦げ付く鉄鍋。
「そ、それは由緒正しい鉄鍋でございます!」
「由緒正しく焦げ付いているわね」
「ぐっ」
「長く使われているから偉いんじゃない。今の仕事に合っているかが重要なのよ。繊細な魚料理には、焦げ付きにくい専用のフライパンが必要だわ」
「料理の前に、調理器具から作るのですか!?」
エルジェが叫んだが、私の決意は揺るがない。
鍛冶場に薄く叩いた鉄板を急ぎ発注し、その間に表面加工の準備をする。
潤滑作用のある魔石粉末を薄く塗り、熱と魔力で定着させるのだ。擬似テフロン加工である。
「お嬢様、この調理器具があれば、魚は崩れずに焼けるのですか?」
「温度管理次第で、皮は張り付かず、中はふっくら仕上がるわ」
「……分かりました。お嬢様に従います!」
料理人としての本能が刺激されたのか、ベルナートの目が真剣なものに変わった。
鍛冶場から鉄板が届き、この世界初の『ハイナ式フライパン』が完成した。
いよいよ調理開始だ。
「水気は敵よ。塩は焼く直前に。薄く均一に粉をまとわせるの」
フライパンにバターと香草を入れ、魚をそっと置く。
じゅうううっ。
心地よい音が響き、バターの甘く濃厚な香りが厨房を満たした。
「すでに美味そうでございます……」
「まだよ。焦って動かすと崩れるわ」
熱いバターをスプーンですくい、魚の表面に何度もかける。
十分な焼き目がついたところで、木べらを差し込んだ。
するり。
魚は全く張り付くことなく、美しい黄金色の焼き面を見せた。
「おおおおっ! 魚が無傷で離れましたぞ!」
「静かに。魚が驚くわ」
「魚はもう死んでおります!」
「それでも敬意を払いなさい」
仕上げに果実汁を加え、ソースとしてかける。
白い皿に盛り付けられた、黄金色の完璧な魚のムニエル。
私は一口分を切り取り、口に運んだ。
サクッ。ふわっ。じゅわっ。
香ばしいバターと爽やかな香草の香り、ほろりとほどける瑞々しい白身。
「……美味しいわ」
前世で作ったあの味だ。
エルジェやベルナートたちにも味見させると、彼らは目を丸くして震え上がった。
「魚が……ほどけます! 同じ魚なのに、人生が違います!」
「魚生ね」
「お嬢様……私は、魚を分かっておりませんでした。この焼き方、道具、全て学ばせていただきたい!」
巨体を折り曲げて弟子入り志願してくるベルナートに、私は笑って頷いた。
「いいわよ。これから厨房の道具は全部見直すからね」
▲▽▲▽▲▽▲▽
その頃、王宮。
マーチャーシュ王子は朝食の不味い魚料理を前に苛立っていた。
昨日ハイナが言った「欠陥シャワー」「魚を救う」という謎の言葉が引っかかっている。
泣いて縋ると思っていた彼女が、未練の欠片も見せずに去ったことが、妙に腹立たしかった。
「ふん、あの女などどうでもいい。私にはリラがいる」
隣で可憐に微笑むリラもまた、予定通りに壊れなかったハイナに対して内心で不満を抱いていたが、焦げた魚は最後まで手付かずのままだった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
一方の私は、出来立てのムニエルを厨房で堪能していた。
「お嬢様、昨日の夜からずいぶん楽しそうでございますね」
エルジェが柔らかく微笑む。
「ええ、楽しいわ。マーチャーシュ殿下より、このフライパンの方がずっと大事だもの」
「王子がフライパンに負けました」
「だって、フライパンは手をかければ応えてくれる。なんて誠実なのかしら」
「人間関係より分かりやすいですね」
エルジェが呆れつつも安心したように笑う。
「私、今のお嬢様の方が好きでございます」
「ありがとう。私も、今の私の方が好きだわ」
私は最後の一口を食べ終え、満足げに立ち上がった。
「さて。次はこの広すぎる屋敷の掃除問題ね。自動で動く掃除用魔道具を作るわよ」
「昨日は浴室、今日は厨房、次は屋敷全体でございますか……!」
天を仰ぐエルジェを尻目に、私は次なるDIY計画に胸を躍らせていた。
そして私はまだ知らない。
この暴力的なまでに食欲をそそるバターと香草の匂いが、まもなく一匹の腹を空かせた狼(ハイスペック男子)を呼び寄せることになろうとは。
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