第15話 自立への覚醒
神殿に隣接する我が家へ帰宅してから三時間、わたくしは自室の椅子に座ったまま、膝の上の物体を凝視して一言も喋らなかった。
コヴァーチ家から借りて(正確には履き替えたまま勢いで持ち帰って)きた、無骨で可愛げのない作業靴。
その裏には、泥がべっとりとついている。
「ビアンカ様」
侍女のミラがおずおずと声をかけてきた。
「お召し物に泥が跳ねております。その靴も、私がすぐに洗って――」
「触らないで!」
鋭い声が出た。ミラがびくりと肩を震わせる。
「……ごめんなさい。でも、まだ洗わないで」
わたくしは靴を胸に抱え込んだ。
『誰かに乗っかるだけの人生なんて、退屈ですもの』
ハイナ様のあの言葉が、頭の中でぐるぐると回って離れない。
わたくしは、神に愛された聖女。清らかに微笑んでいれば、周囲がすべてを整えてくれる。それが自分の価値だと思っていた。
でも、あの中庭で泥だらけになって笑っていた彼女の周りには、自分の意思で彼女を必要としている男たちがいた。
わたくしは? わたくしには、何がある?
「……ミラ。神殿の書庫の鍵を開けて」
「どのようなご本をお探しで?」
わたくしは少しだけ躊躇い、そして意を決して言った。
「浄化魔法の実用について書かれた文献よ。水を清潔に保ち、汚れを分解し、濁りを取る方法を探したいの」
ミラは目を丸くした後、なぜかひどく嬉しそうに微笑んだ。
「承知いたしました。ビアンカ様が、ご自分の意思で何かをお調べになりたいとおっしゃったのは、初めてでございますね」
「余計なことを言わないで! 早く!」
顔が熱くなるのを感じながら、わたくしは立ち上がった。
ハイナ様に感化されたわけではない。ただ、わたくしの魔法がどれだけ実用に耐えるのか、確認してやろうと思っただけなのだから。
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埃っぽい神殿の書庫で、わたくしたちは治療院の治癒師が記した古い雑記帳を発見した。
『井戸水の濁り。浄化魔法一回では臭気残る』
『腐敗臭のある水桶。浄化後も底に沈殿物あり。再洗浄要』
『浄化魔法は見た目の清浄と、実際の安全・衛生が一致しない場合あり。要注意』
「……見た目の清浄と、実際の安全は一致しない」
わたくしは、その一文に釘付けになった。まるで、中身が空っぽな自分のことを言われているようだった。
「浄化魔法は万能ではないのね。泥や油といった物理的な汚れには極めて効率が悪い。ならば、汚れの種類によってアプローチを変える必要があるわ」
わたくしは帳面の空白に、猛烈な勢いでメモを書き殴った。
水の濁り。臭気。浮遊物。沈殿物。魔力消費量。再汚染の防止。循環系への組み込み。
「汚れを取り除く。戻さない。溜めない。目に見えない菌まで分解する……」
「ビアンカ様、お顔にインクが」
「後でいいわ!」
お茶の時間も忘れ、気がつけば外はすっかり暗くなっていた。
「ミラ、自室に水桶を三つ用意して。泥水、油を垂らした水、古い布を洗った濁り水よ」
「ビアンカ様、まさかお部屋で実証実験をなさるおつもりですか!?」
「今すぐ試したいの! あと、このドレスは邪魔よ。見習い治癒師の作業着を持ってきて!」
白百合の聖女であるわたくしが、装飾の欠片もない簡素な服に袖を通し、腕をまくり上げる。
「似合わないわね」
「私はとても素敵だと思います」
「お世辞はいいのよ。さあ、始めるわ」
まずは泥水に浄化魔法をかける。
水面は澄んだが、底にはべっとりと泥が残っている。
「やはり魔法だけでは駄目ね。ミラ、布と細かい砂を用意して」
わたくしは布と砂で簡易的な濾過装置を作り、泥水を通した。
物理的な汚れを取り除いた水に、浄化魔法をかける。
「……素晴らしいわ! 魔力消費が圧倒的に少ないのに、透明度がまるで違う!」
次は油だ。魔法をかけると油膜が乱反射して消えきらない。
「油は浮く。木炭や灰などの吸着材を通して分離してから、浄化の波長を変えて臭気ごと分解するのよ」
失敗する。臭いが残る。魔力を使いすぎて手が震える。
それでも、わたくしは水桶から目を離せなかった。
「ビアンカ様、少しお休みを……」
「もう一度! 濾過層の厚みを変えて、魔法をかけるタイミングをずらすわ!」
ハイナ様の顔が浮かぶ。
媚びるつもりはない。憧れるつもりもない。だけど。
何もできないまま、ただの『置物』として見下されるのは、絶対に嫌だった。
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翌朝。わたくしは水桶の並ぶ机の上で突っ伏して寝落ちしていた。
「……朝?」
「はい。かなり熟睡されておりましたよ」
指先にはインク、爪の間には木炭の灰、袖には水染み。かつてのわたくしなら発狂して侍女を怒鳴りつけていたであろう汚れ具合だ。
「汚いわね……でも、記録が先よ。忘れる前に図面にするわ」
「ビアンカ様、お体が先でございます。倒れては意味がありません」
「……何よ、ミラまであの屋敷のファルカシュ卿みたいなことを言うのね」
「良いことなら真似してもよろしいかと」
わたくしは渋々パンをかじりながら、昨夜の記録を一枚の紙にまとめた。
沈殿槽で重い汚れを落とす。
布と砂の濾過層で浮遊物を取る。
木炭の吸着層で油と臭いを抜く。
そして最終工程として、わたくしの『浄化魔法陣』で目に見えない不純物と雑菌を完全に分解・無菌化する。
「……物理濾過と魔術の多段処理システム。これなら大量の浴場の湯を、最小の魔力消費で永遠に清潔に循環させることができるわ!」
自分で導き出した答えに、胸が高鳴る。
昼過ぎ、トート家の小さな中庭に、侍女たちを総動員して水路の実験装置を組み上げた。
「ビアンカ様が泥水に手を突っ込んでおられる……」と侍女たちがざわめくが、もう気にならない。
「沈殿、濾過、吸着……よし、最後に浄化魔法!」
わたくしが手をかざすと、水路の最後から湧き出した水は、飲むことができるほど完全に無色透明で無臭の『純水』へと変貌していた。
「ビアンカ様……成功、でしょうか?」
「まだよ! 流量を増やすわ。お風呂の循環に耐えられなければ意味がないもの!」
「別に、ハイナ様のためではございませんよね?」
ミラのからかうような視線に、わたくしは顔を赤くして言い返した。
「とっ、当然よ! わたくしの魔法の限界を試しているだけ! ……それに」
わたくしは、透き通った水を見つめながら口元を吊り上げた。
「もしあのスパリゾート計画に、このシステムが不可欠だと分かれば……あの女に、わたくしの価値を認めさせられるでしょう?」
「対等に、提案なさるのですね」
「ええ。媚びるのではなく、助けを求めるのでもなく。わたくしの技術で、あの女を平伏させてやるのよ!」
「ビアンカ様、とても楽しそうでございますね」
「……うるさいわね! 早く次の泥水を持ってきなさい! 魔力消費の効率化データを取るわよ!」
愛されることだけが価値だと思っていた「聖女」の殻は、完全に粉々に砕け散った。
その中から出てきたのは、負けず嫌いで、意地っ張りで、泥水に向かって目を輝かせる一人の「水質管理の専門家」だった。
見ていなさい、ハイナ様。
貴女が泥臭く床を作るなら、わたくしは誰よりも清潔な水を循環させてみせる。
わたくしの「自立」への第一歩は、清らかな神殿ではなく、泥と油にまみれた水桶の前で、今まさに力強く踏み出されたのだ。




