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第14話 価値観の粉砕

 コヴァーチ家の裏庭は、完全に工事現場と化していた。

 石材、木材、魔石、配管部品が所狭しと積まれ、私は地面に這いつくばって浴場用の試験床のタイルを並べていた。


「……排水勾配がわずかに甘い。これだと奥の隅に水が残って、時間差でぬめりが発生するわ」

「誤差は指一本分もないように見えるが」

 片手で巨大な石材を持ち上げながら、ファルカシュが真顔で床を覗き込む。

「水は正直よ。毎日少しずつ不快になるのは生活を削る毒だわ。下地を少し削って、裸足で歩いて違和感がないギリギリの傾斜をつけるわよ」

「いいね、『生活環境に潜む不快という毒を取り除く』。生活魔術の理念に採用しよう」

「ゾルターン様、下地に肘が沈んでいます」

「……おや」

「おや、ではありません。魔術でごまかさず手で直してください。内部の密度が変わって割れます」

「現場で損失を出した者が修復費を負担するのは商売の基本だからね」


 肘をついて下地を崩した筆頭魔術師を、日陰から予算表を眺める公爵が煽る。

 私が泥だらけの作業着で指示を飛ばし、王国最高峰の男たちがインフラ設備として実働する。裏庭には「誰かの生活を良くするものを作っている」という熱気が満ちていた。


 ▲▽▲▽▲▽▲▽


「ごきげんよう、ハイナ様」

 不意に、鈴のような甘い声が響いた。

 振り返ると、真珠色のドレスに真っ白な靴を履いた少女――「愛され聖女」トート・ビアンカが、汚物を見るような目でこちらの惨状を見下ろしていた。


「まあ……またお忙しそうですこと。わたくし、王宮でのことを聞いてずっと胸を痛めておりましたの」

 ビアンカは痛ましげに眉を下げた。相手を心配するふりをしながらマウントをとる、完璧な表情だ。

「王子殿下に捨てられ、社交界で笑い者にされるなんて……どれほどお辛いことでしょう」

「そうですか」

 私は濡れたタイルを指で撫でながら、即座に指示を出した。

「エルジェ、この表面加工は水はけが悪すぎるわ。候補から外して」

「承知いたしました」


「……ハイナ様? わたくし、あなたを慰めに参りましたのよ?」

 ビアンカの笑顔が引きつる。

「ありがとうございます。ですが、今はタイルの滑り止め性能と排水勾配の方が急ぎです。水が溜まる床はぬめりの原因になりますから」

「わたくし、ぬめりの話をしに来たのではありません!」

「では、何のご用件でしょう?」

「ですから、あなたを慰めに……!」


 絶句するビアンカは、周囲の異様な面々に気づいて焦りの色を浮かべた。

 彼女は、私が王子に捨てられて惨めに泣き崩れている姿を見に来たのだ。自分が神に愛される「上」の存在であることを確認するために。

 なのに私は、王国有数の男たちを顎で使い、泥にまみれながらも心底楽しそうに笑っている。


「どうして……泥にまみれて職人の真似事をして、男の方々に指示を出して……恥ずかしくありませんの?」

「全然」

 私は即答した。

「自分の生活を良くするために手を動かすことの、何が恥ずかしいのです?」

「わたくしは神に祈り、人々に安らぎを与える立場ですもの。泥にまみれて工具を握るなど、聖女らしくありませんわ」

「私は聖女ではありませんし、品位で湯温は安定しませんわ」


 ファルカシュが静かに頷き、ゾルターンが吹き出し、イシュトヴァーンが「実用を軽んじる美しさは不良資産だね」と冷徹に笑う。

 誰も彼女を特別扱いしない。庇護しない。チヤホヤしない。

 その事実が、ビアンカのプライドを容赦なく削っていた。


 ▲▽▲▽▲▽▲▽


 私はタイルを置き、すっと立ち上がった。

「ビアンカ様。少し、こちらへ来られますか? ただし、その靴では危ないので作業用の靴に履き替えてください」

「わたくしが? 作業用の靴に?」

「はい。浴場の床を評価するなら安全な靴が必要です。泥まみれで笑っている理由を知りたいなら、こちら側に来てください。外から見ていても分からないと思いますわ」


 ビアンカは唇を噛んだ。

 いつもなら「汚れますから」と誰かが止めてくれる。だが、ここでは誰も助け船を出さない。「無理にとは言いません」と私が突きつけた選択肢の前に、彼女は意地になったのか、エルジェが差し出した無骨な作業靴に履き替えた。


 泥が跳ねる地面を、ドレスの裾を持ち上げながら恐る恐る歩いてくる。

「ここを歩いてみてください」

「……滑らない。でも、ごつごつしすぎていないわ」

「ええ。水が自然に横へ流れるギリギリの角度の傾斜。裸足で触れた時に痛くないよう丸めた角。保温鉱石の粉を混ぜて冬場でも冷たくない下地。誰かが転ばないように、毎日快適に使えるように、一つ一つ考えて作っています」


 ビアンカは押し黙った。

 泥臭い、下品だと思っていた作業の全てに、誰かのための(そして私自身のための)明確な意味と目的があったからだ。

「どうして……そこまでなさるの?」

「自分が快適なお風呂に入りたいからです。王子に選ばれるためでも、社交界に認められるためでもない。ただ、不便なのが嫌で快適にしたい。それだけです」

「それだけで、そんなに動けますの……?」

「十分です」

 私はあっさりと断言した。


「誰かに乗っかるだけの人生なんて、退屈ですもの」


 その一言が、ビアンカの胸を真正面から貫いた。

 神に選ばれ、誰かに愛され、守られるためだけに清らかに微笑んでいた自分。自分で立って、自分で何かを作り出し、不便を解決して笑っている目の前の泥だらけの令嬢。

 どちらが本当に「生きている」のか。


「トート嬢は浄化魔法が得意だったね」

 空気を読まないゾルターンが、突然口を挟んだ。

「浴場計画では、清潔な湯を維持する仕組みが必要だ。君の浄化系統の魔法を水質管理に応用できれば、かなり効率が上がる可能性がある」

「水質……管理?」

「神に祈るだけでなく、実際に湯を清潔に保つ実用魔術だ。面白いと思わないか?」


 愛されるためでも、守られるためでもない。

「できるかもしれない」実用的な役割。

 ビアンカは震える手で胸元の白百合の飾りを握りしめ、何も言い返せないまま背を向けた。


「……帰りますわ」

「お待ちしています。靴は洗って返していただければ」

 彼女は白い靴に履き替えることも忘れ、泥のついた作業靴のまま、不格好で重い足取りで馬車へと向かっていった。

 だが、その背筋は妙に伸びていた。


 ▲▽▲▽▲▽▲▽


「お嬢様、ビアンカ様はずいぶん打ちのめされたお顔でしたね」

 エルジェが冷やした水を渡してくれながら言う。

「言いすぎたかしら。でも、私はあの方に勝ちたいわけじゃなくて、誰も転ばない床を作りたいだけだもの」

「人が自分の使い道を見つける瞬間は、商売より面白いことがある。聖女の看板を実用に変えられるなら、価値は大きいよ」とイシュトヴァーンが愉快そうに笑う。


 馬車の中で、泥のついた作業靴を抱えるビアンカの価値観が音を立てて崩れ去っていることなど、私は知る由もない。

「このタイル、濡らすと足触りがすごく気持ちいいわね! 角の丸みも最高!」

「お嬢様、浴場の床材でそんなに幸せそうな顔をしないでくださいませ」


 王子への未練も、聖女のマウントも、社交界の噂も。

 今の私には、湯上がりに素足で歩く床の「圧倒的な快適さ」より、ずっと価値が低かった。

 さあ、究極のお風呂への第一歩よ!

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