第12話 魔の山と、究極のデミグラスシチュー
王都を出て二日。私たちは『魔の山』の中腹に到達していた。
空は薄暗く、ねじれ曲がった枯れ木に不気味な苔が垂れ下がり、むき出しの岩肌からはほんのりと熱と硫黄の匂いが立ち上っている。普通なら震え上がる禍々しい光景だ。
「……すごい! 地熱が強いし、あの赤茶けた層は鉄分豊富ね! 天然のミネラル成分たっぷりのお風呂が作れそう!」
「お嬢様。魔の山を前にして温泉成分に目を輝かせる令嬢は、世界でお嬢様だけでございます」
エルジェが冷静にツッコミを入れるが、私のワクワクは止まらない。
「前方、魔物だ。下がれ」
馬上から周囲を警戒していたファルカシュが、鋭く低い声を放った。
岩陰から姿を現したのは、岩のような突起を背負った巨大な黒熊『岩皮熊』だった。口から熱い息を吐き、山を震わせる咆哮を上げる。
「ひぃっ!」と採掘職人たちが悲鳴を上げるが、ファルカシュは馬から降りて無造作に一歩踏み込んだ。
銀閃。
熊が前脚を振り下ろすより早く、ファルカシュの剣が硬い岩皮の隙間(関節)を正確に切り裂いた。
「動きを止めるよ」
すかさずゾルターンが展開した青白い魔力の鎖が、巨体を地面へ縛り付ける。
「首元の岩皮が薄い」
「分かった」
短い応酬の後、ファルカシュの剣が閃き、岩皮熊はあっけなくその巨体を地面に沈めた。見事な瞬殺劇だった。
「道は開いた。進むぞ」
剣を払うファルカシュに、私はたまらず手を挙げた。
「待って。……この魔物、食べられます?」
「ハイナ。魔物を討伐した直後に食用確認をするな」
「でも、かなり筋肉が発達しています。骨も太い。じっくり煮込めば最高の出汁が取れそうなんですけれど」
「岩皮熊の肉は獣臭いが、香草と赤酒で煮込めば美味だ。骨からは極上の出汁が出るね」とゾルターンが余計な補足をする。
「濃厚なデミグラスシチュー……ホロホロの肉……焼きたてのパンでソースを拭って……」
私が夢想しながら呟いた瞬間、『ぐうぅぅぅ』と誰かの腹が盛大に鳴った。
全員の視線がファルカシュに向かう。
「私ではない。山の風だ」
「山の風はお腹の音に似ているのですね」
「そうだ」
イシュトヴァーンまで馬車から降りてきて「岩皮は防具に、肉は遠征食の商材になるな」と算段を始めたのを見て、ファルカシュは深くため息をついた。
「……食用にするなら血抜きと解体が必要だ。急げ」
「ありがとうございます! 最高のシチューにしてみせますわ!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
昼過ぎ、谷の入り口に設営した野営地に、ゾルターン特製の『歌わない携帯魔導コンロ』を設置し、簡易の野外厨房を構築した。
解体した岩皮熊と、途中でファルカシュが追加で仕留めた『火角鹿』の骨を洗い、まずは表面をこんがりと香ばしく焼き上げる。
「お嬢様、骨を焼くのですか?」
「ええ、骨の髄の旨味を引き出し、スープに深いコクと香ばしさを加えるためよ。料理は化学と設計だからね」
巨大な鍋に焼いた骨、たっぷりの水、玉ねぎや人参に似た根菜、香草の束を放り込み、静かに火にかける。時間をかけてアクと脂を丁寧に取り除きながら、極上のフォン(出汁)を抽出していくのだ。
「面白い。骨と水と野菜の魔力反応がゆっくりと融合していく……魔術塔の連中より、この鍋の方がよほど忍耐強くて美しいな」
観測盤を片手に鍋の周囲をうろうろするゾルターン。
「火が強いな。風が右から吹いている。風除けを動かそう」
無言で薪の量を微調整し、火力を完璧にコントロールするファルカシュ。
いつの間にか、危険な魔の山の野営地が、我が家の厨房と全く同じ『料理への執念空間』と化していた。
夕方。採掘部隊が目的の『耐熱魔石』と『保温鉱石』を無事に掘り出した。
「ハイナ嬢! この耐熱魔石を浴槽の底に組み込めば、湯温の低下を劇的に防げる! 保温鉱石を粉末にして壁材に混ぜれば、断熱効果も完璧だ!」
「素晴らしいわ! 足を伸ばせる大浴槽に一歩近づいたわね!」
素材採取の成功を祝し、いよいよシチューの仕上げにかかる。
火角鹿と岩皮熊の柔らかい肉を別鍋でこんがりと焼きつけ、赤酒を一気に注ぎ込んで鍋底の旨味(焦げ)をこそぎ落とす(デグラッセ)。そこへ抽出した濃厚な骨の出汁と、炒めた小麦粉でとろみを加える。
鍋の中では、濃い茶色のソースが艶やかに輝き、コトコトと幸福な音を立てていた。
「……これは、危険な香りだ」
ファルカシュが低く唸る。
「ええ、極上のデミグラスシチューよ。濃厚なソースを拭うために、簡易の石窯で外はパリッと、中はもっちりしたバゲットも焼いておいたわ」
「お嬢様……山の中でパンまで焼く令嬢は、歴史上お嬢様だけかと存じます」
エルジェが呆れ半分、尊敬半分でバゲットを切り分けていく。
▲▽▲▽▲▽▲▽
冷たい山の空気の中、夕食が始まった。
器によそわれた熱々のデミグラスシチュー。スプーンを入れると、長時間煮込まれた魔物肉が、一切の抵抗なくホロリと崩れる。
最初に口に運んだファルカシュの動きが、ぴたりと止まった。
「……」
「どうですか?」
「美味い……」
絞り出すような、重い一言だった。
「硬いはずの魔物肉が舌の上でほどける。骨の深い旨味、赤酒の酸味、根菜の甘みが暴力的な獣肉の力を完璧に統制している。戦場でこれを出されたら、兵は死んでも帰ってくるぞ」
「死なないでください」
ゾルターンは一口食べるなり天を仰いだ。
「これは魔術だ! 別々だった素材が、一つの濃厚な完成形へと収束している! そしてこのバゲット……パンがソースを運ぶ器にとどまらず、シチューと共犯関係を結んでいる! 罪深い味だ!」
「商売の前に、私の胃袋がまたダメにされそうだ。夢見のクッションより逃げ場がない……完敗だよ」
イシュトヴァーンが目を細めながら、バゲットで最後の一滴までソースを拭い取っている。
護衛の騎士たちや職人たちも「火角鹿がこんなに柔らかいなんて」「パンが足りない!」と歓声を上げ、鍋は瞬く間に空っぽになった。
私も自分のシチューを一口食べる。
濃厚で、深く、ほんのり野性味がある。前世の味とは違うが、この世界の素材で作り上げた私だけの味。
「……美味しいわ」
冷えた体に、温かいシチューが染み渡る。最高だ。
食後、満腹の余韻と焚き火の温かさに包まれながら、私は星空を見上げた。
耐熱魔石と保温鉱石は手に入った。これで、広い浴場、滑らない床、湯上がり休憩室の夢見のクッション……究極のスパリゾート計画の土台が整う。
「スパリゾートには、食堂も絶対併設すべきね。湯上がりの冷たい飲み物と、このシチューを出すの」
「私も同意する。商機だ」とイシュトヴァーン。
「シチューは必ず出せ。治安維持に寄与する」とファルカシュ。
「研究のために定期的に摂取する必要がある」とゾルターン。
エルジェが「皆様、完全に胃袋を掴まれておりますね」とため息をついて笑った。
婚約破棄された時はどうなることかと思ったが、今、私は最高のインフラ設備(男たち)と優秀な侍女に囲まれ、自分の快適ライフのために魔の山でシチューを食べて笑っている。
「さあ、明日は無事に山を下りましょう。帰ったら、いよいよ最高のお風呂作りよ!」
私の宣言に、頼もしい仲間たちが力強く頷いた。
究極のスパリゾート計画は、いよいよ本格的な建設フェーズへと突入する。




