第10話 愛され聖女、ビアンカの来訪
今日は、朝から騒がしかった。
我が家の中庭には木材、石材、配管部品などが並べられ、優雅なティータイムの場から「究極のスパリゾート計画」のための実験場へと変貌を遂げている。
「ゾルターン様、そこの循環回路、魔力が逃げています。無駄に逃がすのではなく、圧力調整に使って」
「なるほど、無駄を役割に変えるのか。君は本当に容赦がないね」
「この石は濡らすと滑る。浴場には不向きだ」
「助かるわ、ファルカシュ卿。濡れた床での転倒は最悪の敵よ」
「戦場でも足場は重要だからな」
額に汗を浮かべて図面を引く私、魔力効率を計算する変人筆頭魔術師、そして無言で重い石材を運んで滑り具合を検証する王宮騎士団長。
さらにイシュトヴァーン公爵の商会から派遣された職人たちとタイル材の選定を行っていると、エルジェが静かに近づいてきた。
「お嬢様、お客様です。トート・ビアンカ様でございます。社交界で『愛され聖女』と呼ばれている方ですね」
「愛され聖女……何をする方?」
「……愛される方でございます」
「機能説明になっていないわね」
中庭に足を踏み入れたのは、白百合の紋章が入った馬車から降り立った、儚げで清廉な美少女だった。
だが、その美しい顔は中庭のカオスな惨状──泥まみれで図面を引く令嬢と、肉体労働をするハイスペック男子たちの姿──を見て、明らかに引いていた。
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「ごきげんよう、ハイナ様。王宮での婚約破棄のこと……わたくし、胸を痛めておりましたの」
ビアンカは痛ましげに眉を下げた。相手を心配するふりをしながら、明確に上に立とうとする完璧なマウントの表情だ。
「王子殿下に捨てられ、どれほどお辛いことでしょう。けれど安心なさって。神は傷ついた者にも必ず慈悲をくださいますわ」
「そうですか」
私は濡れたタイルを指で撫でながら、即座に指示を出した。
「エルジェ、この表面加工は水はけが悪すぎるわ。候補から外して」
「承知いたしました」
「……ハイナ様? わたくし、あなたを慰めに参りましたのよ?」
ビアンカの笑顔が引きつる。
「ありがとうございます。ですが、今はタイルの滑り止め性能と排水勾配の方が急ぎです。水が溜まる床はぬめりの原因になりますから」
「わたくし、ぬめりの話をしに来たのではありません!」
「では、何のご用件でしょう?」
「ですから、あなたを慰めに……!」
絶句するビアンカは、周囲の異様な面々に気づいて焦りの色を浮かべた。
彼女は、私が王子に捨てられて惨めに泣き崩れている姿を見に来たのだ。自分が神に愛される「上」の存在であることを確認するために。
なのに私は、王国最高峰の男たちを顎で使い、泥にまみれながらも心底楽しそうに笑っている。
「どうして……泥にまみれて職人の真似事をして、男の方々に指示を出して……恥ずかしくありませんの?」
「全然」
私は即答した。
「自分の生活を良くするために手を動かすことの、何が恥ずかしいのです?」
「わたくしは神に祈り、人々に安らぎを与える立場ですもの。泥にまみれて工具を握るなど、聖女らしくありませんわ」
「私は聖女ではありませんし、品位で湯温は安定しませんわ」
ファルカシュが静かに頷き、ゾルターンが吹き出す。
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「ハイナ嬢」
そこへ、黒い外套を纏ったイシュトヴァーン公爵が従者を引き連れて現れた。
「頼まれていた耐熱魔石と保温魔石の資料だ。行くのだろう? 魔の山へ」
「ええ、もちろんです」
「護衛計画は任せろ」とファルカシュが即答し、「魔力探査は私がやる」とゾルターンが手を挙げる。
誰もビアンカを中心にしない。彼女を特別扱いしない。
焦燥感に駆られたビアンカは、思わずイシュトヴァーンにすがりつくように声をかけた。
「公爵閣下、ハイナ様とずいぶん親しくなさっているのですね」
「ビジネスパートナーだ。彼女の発明は莫大な金と、社会を動かす価値があるからね」
『価値』。その言葉に、ビアンカは唇を噛んだ。
「でも、このような泥臭いことに夢中になられるのはいかがなものかと。女性が、まして令嬢が汗を流してなさることではありませんわ」
イシュトヴァーンの優雅な笑みが、スッと冷えた。
「なるほど。ではトート嬢。貴女は入浴時に排水が詰まっても、品位で解決するのかな? 床が滑って怪我人が出ても、令嬢らしく微笑んでいるだけか?」
「そ、それは……」
「実用を軽んじる美しさは、維持費ばかり高い不良資産に過ぎない。ハイナ嬢の泥臭さには圧倒的な価値がある。私はそう判断している」
大商会主の冷徹な正論に、ビアンカは完全に言葉を失った。
「……ハイナ様。貴女、王子殿下に捨てられ、そんな工具を握って笑っている人生で、本当に……よろしいの?」
「よろしいですわ」
私は迷いなく断言した。
「私は今、毎日忙しいです。改善したい不便が山ほどあって、美味しいご飯も作りたいし、ゆっくりお風呂にも入りたい。誰かに愛されるために生きるより、自分の生活を良くするために手を動かす方が、私には合っていました」
その言葉は、ビアンカの胸を深く刺したようだった。
愛されるために生きる。それは彼女自身の存在意義そのものだったからだ。
「……下品よ」
ビアンカは震える声でそう絞り出し、逃げるように馬車へ乗り込んで去っていった。
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「ビアンカ様、ずいぶん複雑なお顔で帰られましたね」
エルジェが控えめに言うが、私はタイルの角をヤスリで削りながら首を振った。
「放っておけばいいわ。私はあの方に勝ちたいわけじゃなく、浴場の床で誰も転ばないようにしたいだけだもの」
「角を丸めれば足裏への当たりも減る。悪くない」とファルカシュ。
「溝の角度を変えれば排水効率も上がるぞ」とゾルターン。
「事故防止を売りにすれば、加工費は十分回収できるな」とイシュトヴァーン。
「よし、じゃあこの試作をあと三種類、夕方までに水はけを確認しましょう! 究極のお風呂への第一歩よ!」
私の掛け声で、中庭のハイスペックなインフラ設備(男たち)と職人たちが一斉に動き出す。
愛されることだけが価値だと思っていた聖女の心に、今日見た光景がどんな波紋を広げるのか。
そんなことは、今の私にはどうでもよかった。
王子への未練も、聖女のマウントも。今の私にとっては、湯上がりに素足で歩く『床材の水はけの良さ』よりも、圧倒的に価値が低かったのだから。




