第二録 紗の裏側(二)
3
千堂は部屋の入り口を振り返ると、静かに待機していた少女を呼び寄せた。
「実験だ。匣、私の携帯を持ってこい」
風流人らしい風貌をした彼女の口から「携帯」という言葉が飛び出すのは、とても違和感がある。純はむず痒さを感じながらも、彼女らから一歩退いた。
──ご主人が何を考えていたのか
寡黙で真面目な人だった。その落ち着いたところはとても居心地が良かったが、今となってはもっと話しておけばよかったと思う。
愛は感じていたとはいえ、その本心が何物なのか、彼がいない今は聞くことが叶わない。
千堂は匣、と呼びかけた少女に、自身の携帯を机の上に置かせた。純は遠くから、少しだけ身を乗り出して見届ける。
千堂は自身の携帯を幾度か操作すると、片手で持っていた布の端をつまんで見せた。マジックでも始まりそうな構えだが、しばらくの沈黙ののちに携帯から流れてきたのは、女性のアナウンサーらしき人の声だった。
動画サイトなどで配信されているどこかのテレビ局のニュース映像だろう。女性の声が軽く挨拶を済ませると、早速交通事故について報道を始める。
「何をするんですか?」
「比較実験ですよ」
返ってきた聞き慣れない言葉に、純は首を傾げた。
対して千堂は無言で眉を持ち上げる。千堂のあけすけな反応に、純は気まずくなって背中を丸めた。
「学校で聞いたことはありませんか? 条件を一部だけ変えて、結果がどう変わったかを見る実験方法です。これで、どの行動がどの作用に結び付いているかを特定することができる。振り子の実験が有名ですが」
「ご存じではない?」という追撃はなかった。ただ彼女は、沈黙を携えたのちに黒い布を構える。
「今回は音声に関する現象が発生していますから、さまざまな音声の形で照らし合わせてどんな反応をするのかを見ます」
そう言うと、千堂は黒い布から手を離した。
布はひらりと空気の抵抗を感じながら机の上に伏せる。布の影響で、携帯から流れる音質が少しばかりくぐもったが、変化はない。
そのときだった。
布の下からバキッ、という硬くて薄いガラスか何かが割れた音がしたかと思うと、音声が途切れた。
三人が一斉に布に注目する。
しかし布は微動だにしておらず、見かけだけでは何も起こっていないように見える。
「めくりますか?」
「いや待て」
純が尋ねると、千堂は目の前に腕を出して干渉を遮ってきた。
これは彼女の勘なのか、それとも初めからわかっていたのか。
静かだった室内に、ノイズ交じりの女性の声が響き始める。音の発生源は明らかに布の下だった。
女性の声がアナウンサーの口調で報道番組の名前を上げ、続いて交通事故について報道を始める。先ほどと全く同じ流れだった。そして割れる音がする直前までに流れていた箇所までたどり着くと、また冒頭から繰り返す。
唯一異なるのは、外国人が日本語を話す時のようなたどたどしさがあるところ。
しかしそれも三度目、四度目と繰り返すうちに、流暢になっていった。言葉の区切りが自然になり、息継ぎが含まれ、意図的に排除された感情が乗る。
「まるでAIの強化学習を見ているようだな」
千堂は顎に手を添え、呟いた。純は音声に耳を傾けながら、目線を上げる。
「AIの話ですか?」
「ええ。AIは性質上、最適解へたどり着くためにシミュレーションを繰り返します。これはそれと全く同じだ。甲斐甲斐しい努力でもしてみせて、人間らしさを主張しているつもりかもしれませんが……所詮化け物はばけもの」
千堂は無慈悲に言い放つと、勢いよく布を捲り上げた。
純は思わず身を構えるが、そこには画面の中央が陥没した携帯しかなかった。
千堂はため息を吐くと、スマホを掴み上げる。電源ボタンを押すが、全く反応していない。
彼女の携帯は完全に壊れていた。
「大丈夫ですか?」
「想定していなかったわけではありませんが、想像以上に暴力的だ」
千堂はそう言うと、少女を呼びボストンバッグへ無造作に放り込んだ。そしてそのまま千堂は少女からボストンバッグを半ば奪うように取る。
「千堂さまのお手を──」
少女は慌てた様子で手を伸ばしたが、千堂はその小さな手に布を乗せた。
「被れ」
純は命令の内容に目を剥くと、慌てて二人の間に割って入り、少女の手から布を奪う。
「待ってください。先ほど千堂さんが自ら『この布は暴力的だ』と言ったんですよ⁉」
「ええ、間違いありません」
「もしこの子が怪我なんてしたら……」
「邪魔をしないでください」
純は背後からの声に瞠目した。少女は怒りを露わにして純を睨みつけている。
「千堂さまのためなら、怪我くらいどうってことありません」
「……」
純が戸惑っているうちに、少女は純から布を取り上げると皺を整えた。
「千堂さま。ご指示を」
毅然と口を開く少女を見て、純は困惑の意を示すべく千堂に視線を送る。
しかし千堂は満足げに目を細めて、悠然と腕を組んだ。
何を言ったところで無意味なのだろう。純はそう理解すると口を閉じた。
「布を被っている間、お前は私の質問に答え続けろ」
「わかりました」
少女は頷くと何の抵抗もなく布を煽り、頭の上にひらりと乗せる。黒い布は少女の小さな頭をすっぽり隠した。
「質問を始める」
「はい」
「中の様子はどうだ」
千堂は少女が布を整える様子を見届けると、早速切り出す。
少女は布の下で軽く首を振ってから答えた。
「真っ暗です。何も見えません」
「外からの明かりは透けていないか」
千堂は手を差し出すと、少女の目の前でひらひらと手を振ってみせる。
しかし少女はその問いに、しばしの沈黙を携えた。
「……確かに不思議です。手触りは普通の絹のようですが、中まで光が届いていません」
少女は手を布の外側に這わせる。その手の動きは所在を見失っていた。
千堂は短く「そうか」を呟くと、机に体を預ける。
「では、何か異変が起きれば即座に報告しろ。それまで質問を続ける」
「お願いします」
少女がこくりとまた従順に頷くと、千堂は口を開いた。
「好きな食べ物はなんだ?」
「ありません」
「嫌いな食べ物はないか」
「ありません」
「好きな色は」
「ありません」
布の下から少しくぐもった声色で少女は淡々と答える。千堂は唇を尖らせ片眉を持ち上げると、聞こえるようにため息を吐いた。
「全く面白くないな」
「強いて言うなら、千堂さまの好きなものが好きです」
少女は語調を一切狂わさずに述べる。
千堂は純のことなどまったく目に入っていない様子で、美貌を大きく歪ませた。
「まったく呆れる。……おい、中に変化はないか?」
「はい。……あ」
少女は淀みなく答えたが、すぐに含みのある言葉を残した。
純は思わず彼女の被る布を注視する。
「なんだ?」
千堂は問いかけるが、少女は首を横に振った。
「些細なことです」
「どんなくだらないことでもいい。報告しろ」
「なんだか、顔のような模様が見えます」
少女はそう言った。
千堂は黙ったまま首を傾げ、少女の顔がある辺りにまで顔を近づける。そしてゆっくりと遠ざかった。
「すみません、きっと勘違いです。点が逆三角形を成す位置に配置されていると顔に見える、あの現象だと思います」
「シミュラクラ現象のことを言っているのか?」
少女は、答えたものの返ってきた沈黙に、間を取り繕うように言葉で埋めようとする。しかし千堂はゆっくりと少女の周囲を歩きながら、彼女の会話に応じた。
そのとき、千堂はおもむろに歩みを止める。
「……いや、待て」
純は眉をひそめた。
「匣。お前はまだ、自分が人間のつもりでいるのか?」
「はい?」
純は、彼女が発した言葉の意味がすぐに飲み込めなかった。
──お前はまだ、自分が人間のつもりでいるのか?
千堂の発言を何度か反芻するが、上手く噛みこなせない。自分に向けられたものではないのに、純はなぜか不快感がこみあげてきていた。
純がはたと少女に意識を向けると、少女はぼんやりと立ち尽くしているように見えた。布の下から困惑と弁明の声がかすれて聞こえてくる。
「それはどういう──いえ、そんなはずはありません。わたしは……」
少女は頭に布を被せて突っ立ったまま、自答を繰り返した。
その瞬間だ。彼女の上半身が痙攣するかのように大きく跳ねた。
「うっ」
少女は小さく呻くと、何かから逃げるように上半身をくねらせる。しかし、少女は不自然なほどまでの忠誠心で布を振り払うことはしない。
純は思わず一歩踏み出すが、千堂に片手で制されてしまった。代わりに千堂が少女へ歩み寄ると、何かに堪えようとして今にも攣りそうな少女の細腕を掴み、上へ引き上げた。
「どうなっている。その状態のまま簡潔に報告しろ」
「は……はい」
少女の下半身は今にも崩れ落ちそうだった。しかし少女の声は一切震えていない。
それは恐れというよりも、圧倒的な嫌悪を示しているように見えた。
純はやきもきしながら、手持ち無沙汰の両手を握り込む。
「口が開いています。人の口です。真っ暗なはずなのになぜか見えます。薄い唇があって、その内側には歯、そして分厚い舌が──痛っ」
少女は早口でまくし立てていたが、突然痛みを訴えるとともに途切れた。同時に、千堂が少女を覆っている布を剥ぐ。
少女はわずかに息を切らしながら、ゆっくりと顔を上げた。
純はその少女の顔を認めるなり、無意識的に机の上へ手を滑らせる。
「ティッシュ……あと塗り薬を──」
少女の薄い唇からは異常と言える量の血が滴っていた。
白い顎を伝って、口許に触れた手のひらにもべったりと血液がこびりついている。
「薬はいい。ティッシュも少し待ってください」
千堂は慌てる純を冷静な口調で引き留めると、手袋を抜き去って少女の顎を乱暴に掴んだ。
少女はされるがまま、血を流した状態で上を向く。
「で、でも出血が」
「これは丈夫ですから、この程度問題ありませんよ。それよりも見てください」
「え……?」
「見るべきは上唇です。血は匣のものですが……、この上唇にべったりとついた透明で粘性のある液体、」
「これは?」
「推測になりますが、おそらく唾液ではないかと」
千堂はそう言うと、口からいまだ血を流し続けている少女をさておいて、ボストンバッグの前に膝をつきチャックを開けた。中には何が入っているのか影になってよくわからないが、ごそごそと物音を立てながらしばらく弄ると、チャックの付いた簡素なビニール袋と個包装の綿棒を取り出す。
手際よく綿棒の袋を破いて取り出し、その先端を少女の口元にこすりつけた。使用した綿棒をそのままビニール袋に入れると、ビニール袋のチャックをきっちりと閉め、ボストンバッグの中に放り込む。
純はティッシュ箱を抱えたままその鮮やかな一連を眺めていた。
そのとき千堂がおもむろに振り返り、こちらに手を伸ばすので、純は思わず肩を竦ませる。
「数枚いただきます」
千堂は純ではなく、純が抱えていたティッシュ箱を指さしていた。
純は反応に遅れて生返事をしながら、少女へ目を向けた。
よほど深く傷をつけられたのだろう。血がなかなか固まらないのか、傷口からぷっくり、ぷっくりと血が滲みだしていた。さらさらとした血は重力に従ってすでに少女の白い喉すらを汚している。
千堂はさっと抜き去った紙を少女に手渡した。少女はただのティッシュを、まるで高級な絹のハンカチかのような手つきで受け取ると、綺麗に折りたたんで口許へあてがう。
純はなぜかその様子を目で追ってしまっていた。
少女はフレンチのフルコースを楽しんだ後のように口を拭う。
白いティッシュがじんわりと赤に染まる。その様に痛々しさを覚えるあまり、純は顔をしかめた。その瞬間目にした光景に、純は思わず声を漏らしかける。
少女は血液の垂れた口から下へ、紙を動かす。その下から覗いたのは、鮮血が滲み出る酷い傷口ではなく、白い滑らかな肌だった。
「傷が──」
「匣」
そう声に出したとき、脇から千堂が、純を遮るように少女へ声をかける。少女は汚れたティッシュを握り込んで返事をした。
「はい。なんでしょうか」
「それで、お前は中で何を見た?」
「わたしがいました」
少女は綺麗になった口元を幾度か触れて確認すると、簡潔に述べる。千堂は少女の味気ない返答に眉を曲げた。
「お前の話は簡潔すぎる。判断材料に足る情報量をくれ」
しかし少女は即答せず、少しばかり顔を俯かせて言い淀む。
「そのまま、その通りなんです。……布を被ってからしばらくして、ぼんやりと目と口のようなものが見え始めたかと思ったら、唇がぐっとこちらに迫ってきました。唇はやがて開いたので、わたしはその奥を観察しようとしました。見えたのは白い歯と舌です。『喉の奥が暗くてよく見えない』、そう思っていたら気づけば相手の射程圏内でした。『何か』がわたしに危害を加えようとしてきたので、わたしは千堂さまの指示もなく避けようと体を仰け反らせました。……すみません」
饒舌な報告ののちに、少女は眉を下げてぽつりと謝罪した。
全く謝罪するようなことじゃない。
純は千堂へ視線を向けると、彼女は首を振った。
「そんなことはどうだっていい。それで、どのタイミングでお前はそれが自分の顔だと気づいたんだ?」
「唇を千切られた後、わたしは『それ』から距離を取りました。その瞬間、唇だけではなく鼻や目が唇同様に鮮明に見えたんです。……私の顔でした。いつも鏡で見る私の顔です」
少女は千堂が握る布へ目を向ける。千堂は布の両端を指でつまんで眺めた。純も傍から眺めるが、彼女が言うような顔らしきものは模様ですら確認できない。
「……状況は大体読めました。化学的に論理づけるとするならば、これは量子力学で説明がつきそうだ。量子は観測されていない間、何にでもなれる性質を持っていますから」
「量子力学?」
純はおうむ返しする。アンティークとは似ても似つかない話だ。
千堂は鷹揚に頷いた。
「ええ。シュレディンガーの猫、聞いたことはありませんか?」
「名前だけは。……申し訳ありません。僕の不勉強です」
「いえ、日常生活で必要な知識ではありませんから」
千堂は先ほどの冷徹さとは打って変わって、柔らかく微笑みながら言う。
「シュレディンガーの猫とは、一時間あたりに五〇パーセントの確率で原子を破壊する放射線元素がある箱に、猫を入れるという思考実験です。このとき、一時間後の箱の中の状態は、放射線が放出されている状態が半分、放出されていない状態が半分となります。つまりこの時、箱の中の猫は半分死んでいて、半分生きているということになります。これが重ね合わせの状態です」
例えば、りんごをかじってしまえば、そのりんごは『食べられたりんご』になる。状態が半分とはつまり、とあるりんごの状態が、食べられていない、かつ食べられている状況ということだ。
訳が分からない。
純は頭の中で整理しながら、混乱していた。
「状態が半分なんて……そんなこと、あり得るんですか?」
純が問うと、千堂は首を縦に振る。
「不思議なことですが、量子はそういうものなのです。そしてこの布は、言うなれば亜シュレディンガーの猫だ」
「亜種なんですか?」
「それが一番考えやすいので」
千堂は布を片手で掲げた。
「この布は覆った物体に成り代わろうとする性質があります。しかしそれは布が捲られた──つまりシュレディンガーの猫における箱を開けた──とき、『成り代われたか』『成り代われなかったか』のどちらかに収束する。匣がいい例です。現にこれが唇を千切られた直後、自身と見た目が酷似した実体を目の当たりにしている。まあ、すぐに剥いだせいで成り代わりきれなかったようですが。……しかしこの布はシュレディンガーの猫だけではなく、ゼノン効果に似た性質も持ち合わせているようです」
そちらの用語は聞いたことがなかった。ゼノンとは人の名前だろうか。
「それも量子力学の話ですか?」
「そうです。ゼノン効果とは、不安定な量子を頻繁に観測しつづけると状態変化が止まってしまう現象のことです。裏を返せば不安定な量子を観測しなければ変化し続けるということ。まさに、本物に成り代わろうと必死な……この布のようではありませんか?」
千堂はにこりと顔に笑みを湛える。まるで発言と表情がちぐはぐで、彼女の加虐性が押し出されたような気がした。
純はその不気味さから目を逸らして、ぎこちなさを勘付かれないよう取り繕う。
「……なるほど」
「さて、これでこの布の加害性は証明されました。貴方のご主人はこれを知ってか知らずか知りませんが⋯⋯問題は、その人がなぜ文鳥が死んだことを確認せずにいたのか。もしくは確認したもののお前を問い詰めなかったのか、だ」
「『貴方のご主人が何を考えていたのか』……ですよね」
そう。この実験の開始を見逃した理由は、彼女にそれを明かすと言われたからだ。
旦那様が一体何を考えていたのか。
純は全身が強張るのを感じた。
「ええ。ところで、貴方のご主人は私の叔父の名刺を持っていたのですよね」
しかし彼女はおもむろに話題の方向を変えた。純は慌てて頷く。
「は、はい」
「貴方は私とこれまで会話をしていてよくお分かりになったと思いますが、千堂骨董店は代々おかしなものばかりを引き取っている。ご主人はそんなこの店と名刺を交換するほど親しかったのです。さて、そんな人間が、異常現象を引き起こす物体を身近に放置するでしょうか?」
「……」
確かにそうだ。
つまり旦那様が異常性を知らなかったのならそれまでだが、もし知っていたのなら、その活用方法を何か思いついていたのか……はたまた実行していたか。
「そういえば名刺は何処で見つけたんです?」
「それは、この抽斗の中に」
純は抽斗の取っ手に手をかけるが、そのまま動きを止めた。
千堂枢が来てからというもの、旦那様の知らない側面が徐々に暴かれている。すべてを知ってしまったとき、旦那様を嫌わずにいられるのだろうか。
「どうかしましたか?」
純ははっと我に返る。
そう、この抽斗は何度も開けた。中には名刺しか入ってなかったはずだ。よく覚えていないが、記憶にないということは大して重要なものでもないのだろう。
純は千堂の言葉に促されるように抽斗を開ける。
しかし抽斗の中には、穴の開いたはがきほどの大きさの白い紙が一枚無造作に入っていた。
「これはいったい?」
「……全く気づきませんでした」
純は呆然としながらなんとか答える。
千堂は脇から手袋をはめた手を伸ばすと、紙きれを拾い上げた。純はその動作を目で追う。
千堂は拾った紙の穴に指を滑らせると、ゆっくりと裏返した。
「写真?」
幼い少年がシャボン玉を片手に屋外で遊んでいるところを撮影したものだった。かなり古いものなのか、色がかなり褪せている。穴が開いていたのは、その少年の胸元だった。人間でいうところの、ちょうど心臓辺り。
「『Junpei 5years old』……? 順平とは、ご主人のお孫さんのお名前ではありませんでしたか?」
千堂は写真の下部を指でなぞった。
純はその写真に見覚えはなかったが、その名前と二〇〇〇年代を彷彿とさせる写真の質から、この少年があの人であることは明らかだ。
純の横から少女が軽く背伸びをすると、彼女は嫌悪を隠しもせず大きく顔を歪ませた。
「これが先ほどの不届き者ですか……?」
純は内心、少女と同じ気持ちになっていた。
今の乱れた生活が滲み出ている彼とは、まるで違う。無邪気に笑っているその姿からは、好青年然とした男性に育っている様しか想像できない。
千堂は写真を見つめていた目を細めると、顔を上げて純へ視線を寄こした。
「……どうかしましたか?」
「いえ」
千堂は純の質問に曖昧に答えると、部屋の扉を開けた。廊下を進んで、吹き抜けから階下を見下ろす。そこではちょうど、巨体の前に段ボールを抱えてせっせと玄関へ運んでいる順平の姿があった。
純はその段ボール箱の中に乱雑に詰め込まれている白い布にふと目が留まる。それがダイニングにあったテーブルクロスだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
純が眉をひそめかけたそのとき、横から喉を鳴らすような笑い声が聞こえてくる。振り返ると、千堂は口許に手を添えて目を弓なりに細めていた。
千堂はひとしきり笑った後、大きくため息をついて手を手すりに掛ける。
その瞬間、露わになった彼女の顔が全く笑っていないことに気が付いた。
「……まったく、底意地の悪い冗談だ」
千堂は吐き捨てるようにそう言うと、踵を返して颯爽と部屋に戻る。
純が後を追いかけて扉を閉めると、彼女は写真をひらひらと仰いで見せた。
「おい、お前。自分がこの屋敷で『何をしてきたか』、本当にわかっているのか?」
純は自身に向けられた口調が突然変わったことに困惑した。
「ど、どういうことですか」
「『何をしてきたか』わかっているのかと聞いているんだ」
千堂は一歩こちらへ足を踏み出す。純は反発し合う磁石のように一歩下がる。
「僕は旦那様に雇われて使用人としての仕事を。……おかしなことではないでしょう?」
朝は五時に起きて身なりを整え、旦那様の朝食のご準備を。六時には旦那様を起こして──今もこんな調子で暗唱できる。五年という月日はそれなりに長いはずだ。
「では訊くが、お前はこの屋敷に来る前の記憶が一つでもあるか?」
千堂の言葉で、純は旦那様と過ごした日々を一日ずつ思い出す。しかし一八〇〇日分ルーティンを遡ったところで、純の思考は考えることをやめていた。
「そ、れは……僕は、旦那様に拾われて……。いやでも、気づいたときには屋敷の中に──あれ?」
それまではいったい、どんな服を着て、どんなものを食べて、どんな暮らしをしてきたのか。家族は、友人は、学校は。
そこは空白だった。
「おい使用人! いつまでサボってる!」
野太い怒号が鼓膜を震わせる。
「あれは原本だ。死んだ文鳥、私の壊れた携帯、匣、そして写真。お前は複製だ、あの孫のな。お前のご主人は、あの無様な血縁を愛せなかった。だからこの写真と布を使って、自分だけを慕う『美しい化け物』を生み出し、死ぬまで狂ったおままごとを続けていたんだよ」
「ちが、違います! 旦那様は僕を……僕は人間で……!」
千堂は写真を机の上に置くと、黒い布に手を掛けた。
嫌な予感がする。
純は千堂に手を伸ばす。
「ああ、ご主人がお前を愛していたのは本当だろうな。しかし、愛でていただけだ」
千堂は純が足を踏み出した瞬間、指を器用に動かした。
「そんなこ──」
4
千堂は部屋の外から喧しく叫ぶ孫の怒号を聞きながら、結び目が一つできた黒い布を後方へ放り投げた。背後に控えている匣が慌てて受け取る。
「……どういうことですか?」
匣は人のいない扉の前を見て呟いた。
しかし千堂はあえて答えずに、ボストンバッグを指さす。匣は慌ててボストンバッグを抱えると、扉を開けた千堂の後ろをついてきた。
人一人いなくなった二階を背に、階段を降りる。掃除の行き届いた屋敷も、じきに他人のものになる。
「やっと帰るのか!」
千堂は廊下の奥から聞こえてくる野太い声に振り返った。
「ええ。用が済みましたのでお暇させていただきます」
顔に作り笑みを湛えると、軽く会釈をする。
「お邪魔いたしました」
順平は千堂の対応に口ごもらせた。千堂はそんな彼を置いて屋敷を後にする。
門の前にはいまだいくつもの業者がトラックを止めていた。
千堂は門前の長い道のりを前に、口を開く。
「やはり呪物は人を蝕むな。……匣、帰ったら裁縫道具を用意しろ」
「布を縫うのですか」
匣は手の中にある結び目のできた黒い布を見下ろす。
「物体の裏側は誰が決めるのだろう」
匣はこの言葉の意味がわかるだろうか。
隣を見下ろすと、匣はぽかんと間抜けな顔をしていた。
「メビウスの輪、あれは表も裏もない」
量子力学で仕組みを解いて、位相幾何学で解決する。はたまたおかしな物体に出会ったものである。
「千堂さま」
千堂が目を向けると、匣はその間抜けな顔のまま問うてきた。
「なんだ」
「つまりご主人は知っていた、ということでしょうか?」
これはたまに芯を食った質問をしてくる。
千堂はふと亡き叔父の顔を思い出して、漏れそうになったため息を飲み込んだ。
「いや、むしろ……あまり考えたくはないな。虚構の家族ごっこほど虚しいものはない」
忙しなく働く人々に挨拶をして玄関をくぐる。
この門を閉じれば、この屋敷とは何の関係もなくなる。
千堂は風に一様になびく手入れのされた芝生を一瞥してから、大仰な門を閉めた。
第二録 紗の裏側 了




