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第一録 時間の棺(四)

「キャンセル料ですが……」


 疋田は玄関で草履を履く千堂に控えめに切り出した。しかし千堂はすっくと立ちあがると、この家にやってきた時のようににこやかに微笑んで、首を横に振る。


「必要ありません。サンプルはたくさん採れましたから」


 またその言葉だ。


「そう……ですか、わかりました」


少しでも時間を取らせてしまったと引け目を覚えたのが馬鹿らしくなる。


 疋田はスリッパに足をつっかけると、玄関の扉を開いた。


「お気をつけてお帰りください」


 千堂は文句の一つも言わずに、直線が特徴的な車の扉に原始的な形の鍵を差し込んだ。ロックが外れた音がすると、二人は車に乗り込んだ。


 車体は光の当たり具合で黒にも青にも見える。雨雲に覆われた曇り空を映しながら黙々と雨粒を受け流していたが、唸るようなエンジン音でいくつか振るい落とした。


 疋田は千堂枢が敷地からきちんと去っていくのを見届けると、見たくないものに蓋をするように玄関を締め切った。スリッパを乱雑に脱ぎ捨てて家に上がる。


 千堂枢は最後までおかしな人だった。


 しかしながら、思った以上にすんなりと帰ってくれたものだ。


 気疲れに思わずため息を漏らしたとき、居間から母が顔を出した。


「千堂さん、今帰られたの?」


 疋田はげんなりとして頷く。


「そう。ほんと変な人だった」


「物音がしなかったけど、冷蔵庫は?」


「引き取るのやめてもらった。……だってあの人たち冷蔵庫を壊そうとするんだよ。信じられない、おばあちゃんの形見だって言ってるのに」


 疋田が吐き捨てるように言うと、母親は目を丸くした。


「あんな気味悪い冷蔵庫、置いといて何になるの」


「お母さんまでそれ? もう聞き飽きたんだけど。私、洋室のお皿片付けてくる」


 みんな気味悪い気味悪いって、死んだ祖母に失礼だとは思わないのだろうか。


 疋田が大股で居間の前を通り過ぎると、背後から母親が気遣うように声をかけてくる。


「……まあ、あんたがそう言うなら無理して売るほどでもないしね……。じゃあ、それが終わったら声かけて。夕飯の買い出しに行かなくちゃ」


「うん」


 疋田は簡潔に返事をすると、洋室のノブを回して部屋に入った。きちんと音が鳴るまで扉を閉めれば、この部屋には疋田と赤いお祖母ちゃんの冷蔵庫だけになる。


 やっと邪魔者は帰ったのだ。


 疋田は緩みそうになる頬を抑えながら、冷蔵庫の前に膝をついた。そして強い磁石で密閉された扉を全体重で使って開ける。すると、ひんやり冷たい無臭の空気が顔の全面に覆いかぶさってきた。


 皮膚が冷気で包み込まれ、毛穴一つ一つがぴっちりと塞がっていく感覚。錯覚でもいい。


 祖母のことを生きている間にわかってあげられなかったことに後悔しつつも、疋田は冷蔵庫に顔を寄せる。


 祖母は死にたくなくて仕方がなかっただろう。


 疋田は泣いて縋る祖母を思い出した。


 徐々に衰えて、思うように身体が動かなくなっていくのは、悔しかっただろう。


 疋田は冷蔵庫の内壁に頬をすり寄せると、深く息を吸い込んだ。身体の内側にあるしわ全てがぴん、と張る感覚に疋田はうっとりする。


 そうだ、手の甲や首から胸にかけて年齢がよく出ると聞いたことがある。


 この感覚なら、産後体型が気になり始めた箇所も引き締めてくれるかもしれない。


 疋田は冷蔵庫の壁に手を這わせた。


 しかし肩や腕が引っかかる。疋田は奥歯を歯軋りさせた。先ほどの少女みたく自分の体が小さければ。


 まだ入り切っていない。


まだまだ気になる場所はあるのに、腰だって脚だって入っていない。


 疋田は息を切らしながら、冷蔵庫の奥を目指してもがく。


もっと奥に行かなければ──。


 しかしそのとき、疋田は腕を何者かに掴まれた。


 後ろへ引きず出されそうになり、疋田は冷蔵庫の内壁に必死にへばりつこうとする。しかし圧倒的な力で腕を引っ張られ、肌が温い空気に触れたと思った瞬間、尻に衝撃を受けた。


「誰⁉ 何するのよ!」


 肌の引き締めが急激に消えていく。


 焦り半分で、床へ強かに打ち付けた腰をさすりながら顔を上げると、千堂がそこに立っていた。


 この人は先ほど帰宅したはずだ。何故ここに。


「もういいって言ったでしょ……⁉」


 疋田は頭に昇った血がふつふつと沸き立つのを覚え、抗議に立ち上がろうとする。しかし背後から腕を掴まれ、同じ場所でもう一度尻もちをついただけになった。


 振り返ると、少女がただの無表情で疋田を引きとめていた。


 千堂は疋田を一瞥すると、冷蔵庫の中を覗き込んで口を開く。


「匣、作業をはじめる。その人を押さえておけ」


「はい、千堂さま」


 千堂の指示の直後、疋田の両腕は背後から羽交い絞めにされた。疋田はもがくが、少女の確固たる意志に上手く振りほどけない。


 むやみやたらと抵抗しては上手くいかなさそうだ。


 疋田はひとまず息を整えて冷静になる。


 千堂の行動を目で追っていると、彼女は部屋の隅に積み上げられた装飾のない板鏡とアルミホイル、養生テープを担ぎ上げた。そして冷蔵庫の前に座ると、アルミホイルを引き出す。


 千堂は顔をしかめると、冷蔵庫の中に手を伸ばした。アルミホイルを冷蔵庫の内部に養生テープで貼っていく。


「一体何を……」


 疋田が思わず漏らすと、千堂はわずかに振り返るも作業を再開した。そしておもむろに口を開く。


「鏡には特殊な性質がある」


「……は?」


「小学校でも習っただろう、光の反射だ。しかも鏡は光をほぼ全反射する」


 この人から「小学校」などという単語が出てくるとは思わなかった。


疋田は千堂の手を目で追う。彼女は一枚の板鏡を取った。アルミホイルで包み込まれた冷蔵庫の内壁面に上からさらに鏡を貼っていく。


「一つ残念なことと言えば、鏡の反射率が百パーセントではないということだな。しかし無限に近い反射を作り出すことはできる。これは強大なエネルギーの集合と言ってもいい」


 千堂は立ち上がり、もう数枚鏡を手にした。


「冷蔵庫の性質は時間の消滅。破壊には物理的な矛盾(パラドックス)を生じさせればいい」


 疋田は「破壊」の言葉にはっと我に返る。


「勝手に壊さないで! 引き取りはキャンセルしたでしょ⁉ 警察を呼びますよ!」


 少女の拘束を振り切るよう思いのままに体を捻ったとき、全身に響くような鈍痛があった。


 疋田は目を丸くして、痛みの強かった右肩を見下ろした。服に覆われてわかりにくかったが、骨の接続が悪そうに段差ができていた。肩に上手く力が伝わらないどころか、走る痛みに驚愕する。


 脱臼していた。


 疋田はさっと顔から血の気が引いていくのを感じる。そのとき、冷蔵庫の内部に貼りつけられた鏡に自身の姿が反射していることに気づいた。


 頬や目元が赤く痣になりかけている。髪もひどく乱れていて、何より血走った目に絶望する。


「貴方は私たちが部屋に入ってきたことすら気づかなかった」


「……」


「関節を外すほどの冷静さを欠きながら冷蔵庫を形見だと言い張る人間と、他人の家に上がり込んで加害物を破壊する人間。どちらが正常だろうな」


 千堂は淡々と手を動かしながら、独り言のように呟いた。


 彼女はやがて、最後の養生テープを始末すると、冷蔵庫の扉を閉じる。立ち上がって着物をはたくと、こちらに目を向けた。しかし千堂が見ていたのは疋田の背後にいる少女だった。


「匣、来い」


「……拘束をやめてもよいのですか?」


 少女の戸惑いを断ち切るように、千堂は堂々と頷いて疋田を見下ろす。


「わかっているはずだ」


 少女は千堂の指示を承知すると、疋田を放り出した。疋田の身体は支えを失って床に転がる。


 疋田は無事な右腕で何とか上体を起こした。


「結果観測は何よりも重要だ。匣、担ってくれるな」


 千堂は冷蔵庫の向きを変えると、扉の前に少女を誘導する。


「もちろんです。開ければいいんですね?」


 少女は疑いもなく冷蔵庫に手を掛けた。


「そうだ、しかと見届けろ」


 千堂が頷くと、少女は手にぐっと力を込めて冷蔵庫の扉を開ける。


 この位置から冷蔵庫の中は見えない。


 疋田が移動しようとしたその時、少女は血相を変えて鼻と口を手で覆った。しかしそれも虚しく、小さな手の隙間から赤い液体が伝って落ちる。


「え……」


 疋田は思わず声を漏らした。


 しかし少女は対照的に一言も言葉を発さず、虚ろな目をしてその場に崩れ落ちる。手で受け止めきれなかった血がぼたぼたと、少女の制服のジャンパースカートの上に垂れた。


 やがて少女はうずくまる。その背中は小刻みに震えていた。


 千堂は片手で冷蔵庫の扉を静かに閉めると、少女の脇にしゃがみ込み囁くように問いかけた。


「お前、何を見た?」


「……な、⋯⋯《《なにも》》」


 少女は血の絡んだか細い声で絞り出すように告げる。千堂は結果報告を聞くと満足げに口角を持ち上げて、そうか、と頷いた。


 少女は事切れたようにぐったりと動かなくなる。


「な、何をしたの……」


 疋田はおそるおそる少女の顔に目を向けた。


 少女の整った顔の下半分には血がべったりとついていて、ぐるりと白目を剥いている。


「なにを……!」


「言っただろう、この冷蔵庫は時を断絶させる」


「じゃあこの子は、どうして冷蔵庫の中を見ただけでこんなことに……」


 疋田は慌てて少女の肩を揺さぶった。かすれた呼吸音が漏れ聞こえて疋田は安堵する。


 幸い少女の息は止まっていない。


「これも言ったはずだ。鏡はほぼ無限に近いエネルギーの反射を作り出す。同一空間に同時に生じると、それは矛盾になる。よって冷蔵庫内で双方の力が打ち消され『虚無』が発生したんだ」


 疋田による矢継ぎ早の質問に、千堂はゆったりと腕を組んだ。


「『なにもない』を見ることはできない。匣の脳は『なにもない』を見ようとして、ショートしただけだ」


 わけがわからない。


 疋田はなんだかぞっとして、少女から手を引いた。


「さあ、満足しましたか?」


 絶句する疋田に千堂はにこりと微笑んできた。


──じゃああなたはこの子がこうなることをわかって見せたのか。


 一つの質問が脳裏に浮かぶ。


 しかし、そう問う余力もなかった。きっと彼女が「ええ、そうですが」と何事もなさそうに答えるだろうことは分かっている。


──けれど、私はそんな彼女に咎められた。


 千堂は笑みを消すと呆然とする疋田に背を向け、袂から長い紐を取り出した。戸惑いのない手さばきで着物にたすきをかけて、裾を払って冷蔵庫の前に膝をつく。


 千堂は冷蔵庫の下部のくぼみに手を掛けると、ゆっくりと持ち上げた。


 彼女は鼻血を出して倒れる少女を跨ぎ、唖然とする疋田の側を通り過ぎようとする。


 疋田は視界の端に映る赤い塗装にふと顔を上げて、去ろうとする冷蔵庫へ最後を乞うように手を伸ばした。赤く艶やかな冷蔵庫の壁面に指先が触れる。


 しかし伸ばしていた腕の力はすぐにぐったりと抜けてしまった。


いったい何をそこまで、この冷蔵庫に執着していたんだろう。


 冷蔵庫はもう冷たくなかった。







 不規則な雨音の響く薄暗い店内。分厚い雲から透け、ガラス戸からぼんやりと差し込む日の光が、店内の唯一の明かりだった。古いガラス戸に雨粒が当たり、細かな振動で木枠がたまに軋む音が聞こえる。


 店の奥、カウンターで千堂枢は、うつらうつらと雨音を揺籃歌(こもりうた)にしていた。


 そのとき、建付けの悪いガラス戸が開く音がした。


 空間を閉じていた扉が解放されたことで、雨粒が地面に叩きつけられる音が、一層鮮明に店内に流れ込む。


 その雨音に混じって、たどたどしい足音が近づいてくる。ふとそばに気配を感じた時、背後からごとり、と重厚なガラスケースが置かれる物音がした。


千堂は帳のような長い黒髪の隙間から瞼を持ち上げる。


「……どうした?」


 千堂がおもむろにそう問いかけると、匣は委縮したように小さな頭を下げた。


「いえ。申し訳ありません、千堂さま。昨晩、月の下に出していた《《花》》を片付けていました」


「そうか、昨日は満月だったな」


 匣がまとう白いブラウスとジャンパースカートは千堂が中学のことに着用していた制服だったが、彼女には少し丈が長い。


 目が冴えてしまった。


千堂は自身の赤い彼岸花が咲き誇る黒の着物に、しわが寄っていないかを確認しながら、億劫にも上半身を起こした。


開け放たれた戸の向こう、景色を霞ませるほどの雨を眺める。


 ふと、先日の滑稽な依頼人を思い出し、千堂は思わず喉を鳴らした。


「久々に人間の業を煮詰めたような依頼人だったな」


 紅で真っ赤に彩った唇を指先でなぞり、独り言のように呟く。


「どうされましたか?」


 匣はガラス戸を閉めると、突然笑い出した千堂を振り向いて不思議そうに尋ねてきた。千堂はゆるりと首を横に振る。


「いや、思い出しただけだ。……あの赤い冷蔵庫の件を思い出したら、なんだかびわが食べたくなってきたな」


「剥きますか?」


「そうだな。雨音も聞き飽きた、奥に入ろう」


 千堂は立ち上がると、店の奥の居住区域へと足を踏み入れた。




 千堂はちゃぶ台の上に置かれたリモコンに手を伸ばすしてテレビを点けると、昼の低予算なクイズ番組が流れ始める。


 台所からびわとともに皿やナイフを持ってきた匣は、千堂の目の前に腰を下ろして、手際よくびわを剥き始めた。


 皿にナイフのぶつかる鋭く小さな音が響く。千堂はテレビの画面から束の間目を離し、皿の上に並べられた四等分のびわの列を左端から抓んだ。


 匣は千堂が食べた分だけ皮を剥いて並べていく。もちろん厄介な種も取り除いてある。


 千堂は甘いびわを飲み込むと、テレビを流し見ながら呟いた。


「しかし、おかげで今まで見てきた中でもかなり貴重な呪物のサンプルを取れたのは皮肉だ」


 はっ、と笑い飛ばす。


 残念ながら人間が関わる事象において、先入観と感情は無視できない。サンプルを取れたのはいいことだが、ああも感情的になられると困ったものだ。


人間の業を煮詰めたような、とは我ながらよく言ったもの。


「わたし、ちゃんとお役に立てましたか?」


 匣は皮を剥く手を刹那止めて尋ねてくる。


「十二分にな。ああいうのは、頑丈なお前にしか務まらない」


「光栄です。千堂さまが死ぬくらいなら、わたしが死んだ方がマシですから」


「……」


 千堂はびわの果汁がついた指を布巾で拭い、頬杖をついた。ゆっくりと瞼を閉じると、壁に響くようにして伝わってくる雨音を耳が拾う。


 あの雨の日を思い出して、千堂は眉根を寄せた。


 しかしそれは一つの儀式のようなものだった。


 雨に流される真っ赤な血、ひしゃげた車からけたたましく鳴り響く警告音。車外から聞こえる喧騒。そしてぐったりと倦怠感を訴える全身。


 両親が死んだあの日も、雨だった。そして育ての親だった叔父が帰らぬ人となったのも。


 次は私だ。


 そのときちゃぶ台の上を震えるバイブレーションに、千堂は目をぱちりと開けた。


 千堂は携帯を引っ掴むと、画面に表示された名前に顔をしかめる。


「どなたからですか?」


 表情を見た匣の問いかけを無視して、千堂は通話ボタンを押した。




※  ※  ※




 静かな部屋は時間感覚を狂わせる。


 取調室は非常に閉塞的な場所だ。最低限の蛍光灯しかない暗い室内に、格子の付いた小窓が一つ。


 千堂は久々に感じる無機質なコンクリートの雰囲気に落ち着かず、手袋の縫い目を指先でなぞった。


 しかしそんな手遊びも許さないと言わんばかりに、間髪入れず重苦しい鉄の扉が開く。


 顔を出したのは、前回会った時よりもまた一段と頭髪が薄くなっている中年の男性だった。


 司波(しば)憲一(けんいち)という正義と真実の塊のような名は彼に相応しい。


千堂はため息をつきながら、パイプ椅子を座り直す。


「千堂枢、なぜ呼び出されたかわかるか」


「さあ……」


「疋田杏奈、と言えばわかるんじゃないか」


 司波はテーブルの上に一枚の紙を置いた。そこには新聞の広告が撮影されたものが印刷されている。


──要らなくなったもの、珍しいもの、奇妙なもの、いわくつきのもの、高値で買い取ります。千堂骨董店


 千堂は自身が生まれる前から変わらない、我が店の広告のキャッチコピーを覗き込むと、目線だけを司波に遣った。


「彼女が何か」


「心当たりがあるなら、初めから言え。……千堂、お前疋田杏奈と数日前に接触しているな」


「嫌な言い方をなさる。私は仕事をしただけですが」


 冷蔵庫の回収をお願いされたので、引き取りに行っただけだ。


 千堂は事実を語ったつもりだったが、司波は年季の入った顔を酷くしかめる。


「その回りくどいひねくれた話し方も好かん」


「勤務中に私情ですか」


 千堂がおどけた調子で首を傾げてみせると、司波は深いため息をついて縦皺の刻まれた眉間を親指で揉んだ。ひとしきりほぐれたところで、司波は机の上で指を組んで語り始める。


「……一昨日の夕方、疋田杏奈という女性がすぐそこの総合病院の整形外科にやってきた。脱臼した肩を治してくれと。さらに心療内科へどう受診すればよいかも聞いてきたらしい。理由を尋ねると、疋田は身体にできた痣とともに経緯を語った。……明らかに暴行を受けたような怪我に病院から警察に連絡があったんだ」


「へえ、あそこからよくも正気を取り戻せたものだ」


 感心する千堂に司波は咳払いをする。


 せっかく話を弾ませてやっているのに、堅苦しい男だ。好かれていないことは重々承知しているが。


「彼女の様子は明らかにおかしかった。経緯を尋ねれば、『冷蔵庫の影響で、老いに対する脅迫観念に囚われてしまった』と意味不明なことを言う。彼女の精神状態と全身の怪我を鑑みれば、暴行を受けていると考えるのが筋だった。そして疋田の話を聞いているうちにお前の名が出てきた。──千堂枢」


 根拠もなく睨みつけてくる司波に、千堂は肩をすくめる。


「私が彼女を暴行する動機は?」


「……知らん。そもそもお前の場合、直接手を下さずマインドコントロールという可能性もある。疋田も執拗に千堂枢は命の恩人だと念を押してきたしな」


「恩を仇で返すような人間ではなかったというわけだ。重畳」


 感心していると、司波は険しい表情で机に身を乗り出してきた。千堂は思わず身を仰け反らせる。まるで反発し合う磁石のようだ。


「調子に乗るなよ、千堂。二十年の事件のこと俺はまだ忘れていないぞ」


「当時齢八つの少女に何ができるというんです? それに結局証拠不十分で不起訴となったのに。……私が大学生だった叔父の時もだ」


「しかしあの時、お前の両親や叔父を殺せる状況にあったのは、お前だけだった」


 司波は笑みの消えた千堂の目をじっと見つめ返した。穴が開きそうなほどにじっくりと見つめてきたあと、司波は脱力してパイプ椅子に上体を預ける。


「しかし、被害者本人が『千堂枢に非はない』と言い張る以上、お前を留め置く権限は俺たちにない。……今日はもう帰っていいぞ」


 司波は吐き捨てるようにそう言うと、資料の紙を取って手持ち無沙汰そうに筒状に丸めた。


「もちろんです。私は彼女に何もしていないのだから」


 彼の隙のある態度を見て、千堂は胸に溜まっていた息を吐き出して立ち上がる。


「逃げきれていると思うなよ」


 千堂は早急な帰宅を望んで、司波の横をさっさと通り過ぎようとした。


 しかしそんな千堂を引き留めるように、司波が呟く。確かに怨恨のこもった声色に、千堂は足を止めて振り返った。


「お前がまた何かをやらかす前に、必ず捕えてやる」


「私がどれだけこの呪物どもを忌まわしく思っているか、まだおわかりにならないようだ。……突然理解されたところで気味の悪い話だが」


「その世迷言も大概にしろ」


「本当のことなのですが……信じられないのならそれでいい。……ああ、疋田杏奈さんに伝言を頼みます。『冷蔵庫はきちんと目張りをして管理してあるから安心しろ』と」


 千堂は司波に目配せをする。司波は口元を歪ませたが、舌打ちは聞こえてこなかった。


「……では」


 簡潔な別れの言葉を口にして、千堂は銀のドアノブを掴んだ。




第一録 時間の棺 了

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